池の平小屋小史    

上田頴人

                    元朝日新聞写真部記者、現東京工芸大学講師、フォトジャナリスト

                    「剱・池の平讃・・・田中正雄さんを偲んで」(1993.9.3発行)より転載


 平成5年(1993)8月6日、基礎工事用のクイを打つ木槌の音が池の平に力強く響き渡った。
 長い戻り梅雨で隠れていたチンネも祝福するかのように顔を出す。
 平成3年倒壊した池の平小屋再建へのスタートだ。

 池の平小屋は剱岳の北東、小黒部谷を登り詰めた、池の平山と仙人山の鞍部、標高2.100メートルに位置する。前身はモリブデンを採っていた小黒部鉱山の作業基地。鉱山の歴史をたどりつつ小屋の歴史を振り返ってみる。尚、鉱山史は主に奥田淳爾・洗足学園魚津短大教授がまとめた「黒部奥山のモリブデン鉱」によった。

 大正初期、山岳界で剱岳が脚光を浴びていた。同じころ池の平山(2561メートル)を中心にモリブデンを含有する輝水鉛鉱が発見され採鉱が始まる。モリブデンは戦略物資と呼ばれ、戦争が始まると需要が高まる。

 大正4年(1915)、小黒部谷から剱岳を目指した田部重治、小暮理太郎らの紀行文を読むと、同年にはまだ池の平山に小屋はなく、小黒部谷の大窓雪渓出合い付近に鉱山事務所が建っていた。同鉱山は大正5〜7年に採鉱のピークを迎え、我国最大のモリブデン生産地となる(7年には全国生産量の約76%)。
大正5年頃、より地の利のいい池の平に事務所や飯場が移転したようだ。搬出ルートは大窓を越え白萩川を下った。

 画家の中村清太郎は『ある偃松の独白』中の小黒部上流の項で、「一方の雪渓を登れば、その中途に鉱山があるー輝水鉛を出す小黒部鉱山。といっても、ひどい有様だ。小さな板屋と藁小屋が二、三軒だけ。上には大窓から剱へ続く岩峰の一つが大入道の頭をのし掛けている・・・・・・」と書き、火薬の音をイヤな音と表現した(大正4年8月)。

 大正中期、登山熱が高まり‘夏山黄金時代‘を迎える。田部と小暮らが鉱山事務所で米を入手したと『山岳』(日本山岳会機関紙)に書いたことから、剱岳登山者が鉱山事務所で米などを求めるようになる。

 大正7年発行の『山岳第12年1号』に《剱岳登山者に希望》という文が掲載されている。6年夏に池の平に泊った登山家が、鉱山事務所主任から一般登山家に注意して欲しいと頼まれ寄稿したもの。<今夏は池の平にも毎日、登山者が訪れ鉱山事務所に宿泊した上、必ず一斗二斗の米を請求されるのでほとほと閉口している。鉱山では300人の鉱夫のため食料を伊折(上市町)から小窓の嶮をを越えて運んでいる。一人半俵を運ぶのがやっとで運賃もかかる上、天気が悪ければ糧道を断たれることになる。来年は登山者のために宿泊小屋を建築するが、米塩の供給はできないから食料は持参して欲しい>といった内容だ。

 大正7年小黒部鉱山は休山となる。小屋はどうなったかー。
 小暮は『越中剱岳』(大正11年)で、「池の平にあった小黒部鉱山の飯場は、登山者に好都合であったが、鉱山と共に今は廃滅に帰して了った」と残念がる。

 また、大正11年7月、池の平を訪れた冠松次郎は「五棟の飯場は皆傾き、戸は壊れ帳簿や伝票が乱雑に散らばり、幾十枚と積み重ねられた布団は腸のように綿をだして、食糧も腐って放置されている。鉱山の所有者が莫大な損失をしたことが想像できるが、これも剱のような霊山の咽喉へ穴をあけた天罰。改修しない限り一、二年で地に委してしまうだろう」と、自然愛好家らしい気持ちを卒直に吐露している(昭和2年刊『山岳21年2号』)。

 さらに大正15年8月の剱沢行では「柱が60度程の勾配に傾いているこの小屋は、中からの支柱によって漸く支持されている。柱のあるものは折れ、羽目は破れ、戸口の立てつけが合わず風の吹き通しが素晴らしいので火を焚いて暖をとり一夜の宿りをした」(昭和4年刊『剱岳』)と、池の平小屋の荒廃ぶりを描く。

 これらの記述から、昭和5年(1930)初めて刊行された『山日記』(日本山岳会編)に、池の平小屋が大正11年建設と紹介されているのは、間違いと分かる。翌年発行された『山日記1931』では、《建設大正14年、所属富山営林署、小屋番、立山村芦峅寺・佐伯軍蔵、収容25人、増築計画中》と修正されている。

 一方、登山ブームと共に遭難も増える。大正11年(1923)1月、槇有恒ら三人が立山・松尾峠で遭難、板倉勝宣が死亡する痛ましい惨事が起きる。ショックを受けた日本山岳会や地元の芦峅寺を中心に山小屋建設の話が持ち上がり、弘法、五色、平、剱沢など13カ所に山小屋が相次いで建設された。池の平小屋もその一つで、休山後の鉱山事務所を廃材で補強して山小屋として利用したらしい。


 冠松次郎は『剱岳』で池の平小屋を、<飯場の一部をあてていたが、それがつぶれ(休山)、傾いてしまったので廃材で小屋を造ったが昭和3年には全く用をなさなくなった。富山営林署は同年7月、従来のものを取り壊し周囲に石垣をめぐらし間口三間、奥行二間四尺五寸の物置、炊事場付きのものを新設、黒部奥山国有林・池の平造林小屋と称した>と紹介している。

 『山日記』では、第一号から池の平小屋は富山営林署所属となっている。現在小屋の土地は営林署からの借地である。

 富山営林署の話では、小黒部谷周辺は伐採したり、造林できるような地域ではなく、造林小屋は必要なかった。同署は空襲で焼け戦前の資料はないが、一帯が国有林のため「造林小屋」とうたわないと管理上都合が悪かったのではないか、という。

 もっとも営林署では戦前から山回りという巡回業務があり、立山〜剱沢〜池の平〜伊折(戦後は阿曽原)がコースで、池の平は宿泊地と必要だった。そこで山小屋建設に立ち上がっていた芦峅寺のが鉱山会社と営林署に持ち掛け、山小屋に仕立て、芦峅寺衆が小屋番を引き受けたと考えるのが自然のようだ。

 昭和9年(1934)8月末、池の平から仙人谷を経て鐘釣温泉に至る登山道が完成する。従来は北仙人山から尾根伝いの道が利用されていた。昭和15年、小屋番は同じ芦峅寺の志鷹範治に交代する。収容人員は30人と少し増える。

 第二次世界大戦が始まりモリブデンが軍需品として再び重視され、昭和16年(1941)小黒部鉱山は海軍の支援で再開され、池の平にまた事務所が建設される。また、大正末から黒部川の電源開発が進み川沿いに軌道が欅平まで開通、昭和14年には高さ200メートルの竪坑、長さ5.7キロメートルの上部軌道(高熱隧道)が仙人谷まで貫通、阿曽原〜池の平の登山ルートも確立される。大正時代、大窓経由で搬出されていた鉱石は池の平から仙人峠を経て阿曽原に運ばれた。

 戦後間もなく鉱山は閉山となり、昭和23年(1948)、小黒部鉱業会社は富山県山岳連盟(現日本山岳会富山支部)に「無償で池の平事務所を譲るから管理して欲しい」と依頼する。同連盟は剱岳を中心に活発な活動をしていた地元の魚津高校山岳部に、学校のヒュッテとして使えないかと相談した。
 当時、山岳部顧問だった本田啓七先生は、部の拠点にもなり部費の捻出にも一役買えると思い、引き受けた。本田先生は「まだ物資不足の時代でワラジばきの活動だった。小屋周辺の野ウサギや平の池のクロサンショウウオをとって、蛋白源としてよく食べた。この間に仙人湯近くの岩屋でヒカリゴケ(宇奈月町指定文化財)を発見したのは収穫だった」と回想する。

 昭和24、5の2年間、魚津高校山岳部OBの高瀬具康、吉倉昌弘両氏によると、建物は2棟あり有り、どちらもかなり壊れていて、屋根にもあちこち穴が開き、修理、補強のための材木運びが大変だった。囲炉裏のあった池の平側(鉱山事務所)を登山客用とした。調理や洗面は下の池で行った。7月下旬から8月末まで部員が2,3人ずつ当番制で小屋番を努めた。当時の山小屋は米持参が原則だったが、米を持っていない人にもご飯のお代わり自由の大サービスをしたので喜ばれた。

宿泊料金は心付けとして立山の半額程度をもらったが、後で剱沢小屋の佐伯文蔵さんにクレームをつけられたそうだ。小屋の収入で冬山装備を揃えたり、高校山岳部の部報としては類のない立派な部報をを作ったことも思い出という。池の平を根拠地に剱岳の未登攀ルートを次々に開拓、高校山岳部の最たる地位を占め、魚津高校山岳部の黄金時代だった。
 
しかし、部員減や夏休みに補修授業が始まったことで魚津高校の管理は2年で終わる。朝鮮戦争が始まり昭和26年(1951)、小黒部鉱山(北日本鉱業)は、3度目の操業を始める。池の平にも再び採鉱夫たちが駐在する。が、この操業は2カ月で中止となり、8月末には廃山となる。

同年、営林署と鉱山会社から相談されていた富山県内山村(現黒部市宇奈月温泉)の米沢幸作村長が譲り受け、小屋経営に乗り出す。以後、直之、直昭さんと、同町で酒、食品、雑貨商を営む米沢家が3代に渡って経営にあたり、池の平には幸作さんの甥で山が好きだった田中正雄さんが管理人として毎年入山するようになった。

 田中さんは、専門の大工の腕を生かし、ガタガタだった小屋の補強を続け役10年もたせる。マナスル初登頂(昭和31年)以来、登山は戦後のブームを迎え、35年には、池の平山側の空き地に組み立て式のカマボコ小屋を増設した。そして、昭和36年(1961)、自ら設計改築、赤い屋根の素朴なムードの池の平小屋を誕生させる。チンネを眺めながら入浴のできる風呂は好評で、風呂付き小屋のはしりでもあった。

 昭和35年から3シーズン池の平でアルバイトをした筆者の思い出は、風呂たき、弁当作り、カーバイトランプの掃除、それに阿曽原からの改築資材のボッカだ。改築前年のある日、親友のK君と阿曽原温泉に入った、50キログラムのセメントをかつぎ登りだす。阿曽原峠までは湯上がりの心地よさで快調だったが、仙人谷に入ると余りの重さに足が上がらなくなる。

夜になり、仙人谷詰めの”けつわり坂”をあえぎあえぎ登り、仙人峠に着くと2人共熟睡してしまった。午前零時ごろ目が覚め、小屋に着いたのは1時過ぎ。もちろん田中さんにはこっていり怒られた。
 宿泊する登山客は多く、お盆の頃には150人以上も泊り、弁当作りに深夜までかかったこともあった。こんな晩は田中さんはご自慢の果実酒を傾けご機嫌だった。
 
 風雪に耐えられるようコの字型に石垣を高く築き、我が子のように慈しんできた小屋だが、厳しい自然条件に痛みは早く平成2年(1990)から改築30年後の平成3年にかけ台風で屋根は小黒部谷に吹き飛び、倒壊した。

2年初夏には2階の一部が壊れ、柱も数本傾いていたが、既に病気が進行していた田中さんには池の平に登る体力はなかった。小屋は田中さんの要請を受けた池の平好きの山仲間がボランティアで管理に当たった。
 平成3年、秋田中さんは倒壊した小屋の後を追うかのように、再建の思いを果たせぬまま静かに生きを引き取った。61歳。主のいなくなった小屋は、柱だけが墓標のように残っていた。

 池の平は裏剣の登山基地で隠れた高山植物の宝庫でもある。遭難防止、環境保護のためにも富山県警をはじめ小屋の再建を望む声が強かった。が、地理条件が悪く、登山客も少ないため経営のメリットはない。

しかし、三代目オーナー米沢直昭さんは、田中さんの意志を引き継いで、直ちに再建を決意した。大工さん探しに難行したが、それもひょんな出会いで決った。池の平小屋支援のボランテァの一人阿部恒夫さん(京都市)が、平成4年夏、剱御前小屋で山小屋建設の夢を持つ金井建設(群馬県前橋市)の金井一博社長とたまたま同宿、

その時、再建話を聞いた金井さんが、商売抜きで施工を引き受けることを申し入れてくれたのだ。同年秋、米沢さんらと池の平をヘリコプターで訪れた金井さんは、残った石垣を利用して約50平方メートル、20人収容の小屋を作ることを決める。
 偶然と出会い。田中さんとの交流を通じ、結ばれた多くの山仲間の願いである「新・池の平小屋」は平成6年(1994)誕生する。
 

                  <参考・引用文献・お話を伺った方々>・・・・(敬称略)
日本山岳会編 「山岳」9年1号(大正4年発行)、11年3号、12年1号、13年1号、15年2,3号、17年3号、21年2号
日本山岳会編 「山日記」1930〜1939、2601(昭和16年)、1949(復刊1号)、1950〜1963
小暮理太郎「山の憶ひ出」上下。田部重治「山と渓谷」。中村清太郎「ある偃松の独白」。冠松次郎「剱岳」、「立山群峰」、「黒部渓谷」広瀬誠「立山黒部奥山の歴史と伝承」。金子博文「北アルプス山小屋案内」。松方三郎「山を楽しもう」。奥田淳爾「黒部奥山のモリブデン鉱」。「富山県百科事典」。「魚津高校山岳部部報第2号」
@林野庁、富山営林署、立山森林事務所
A関西電力、宇奈月町役場
B本多啓七・元富山県自然保護協会事務局長(元魚津高校山岳部顧問)
C奥田淳爾・洗足学園魚津短大教授
D若林啓之助・富山県自然保護協会長
E魚津高校山岳部OB高瀬具康、吉倉昌弘
F米沢直昭、田中正美