更新日:2011年03月04日


水野と岡田中将


今回の水野家の講座


岡田 資陸軍中将 ----d20110301定例会出席---
村木砦の戦いの後の水野氏の話が、最後に少しあった。
それ以外に資料として、「半田の郷土史便り」を受けた。
この中に、B級戦犯「岡田 資陸軍中将」の記事がトップである。
この記事を読み、少し調べた。
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この2つが、結びついて、引っかかったしまっている。
何だか同じ感じを受けた。
事件としては、同じではない。
が、世間の目に同じものを感じた。
これは、私個人の無責任な感想である。
「責任を感じる人が、行動をする」という状態で、
ある結果がでる。
それに対して、「世間の目」が、主張をはっきり言わ無い。
でも「目」が、何か言う。
戦国の時代から、日本人は、あまり変化していない様な気がする。
日本以外の国に、ずけずけ主張する民族を感じるときがある。
繰り返すが、以上は、事実を充分吟味してない無責任な感想である。
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こんな所に「歴史」を調べたいと思う。
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ただ、今、逆に日本人は、変わり初めているとも感じる。
と、言うのは、私自身、余り先祖を知らない。
それでも、良いと思っている。
「徳川家康」の家系をそれ程、調べようとも、思わない。
ただ、1ッの時代として、「徳川家康」の親族は別で、此処は調べたい。
時代として、歴史として、調べたい。
私なりまとめると次の様になる。
文献資料は 
1.慶長見聞録案紙(慶長十六年三月二十八日分)
2.禁裏御普請帳(慶長十六年春三月)
3.家康法令三ヶ条 (慶長十六年四月十二日)
その他、まとめた資料有り。
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内容を要約すると、
1.家康は、東半分は二代将軍秀忠、納まるので、
西半分の統治を考えて、尾張に九男と紀伊十男の息子を配置する。
2.九男義直に浅野、十男頼信宣に加藤を後見させた。
3.二条城の家康、秀頼会見は家族会談である。
4.水野氏は徳川一門とし多くの大名と婚姻を持たせた。
5.特に浅野、加藤は重要な姻戚とした。
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講義としては、まあこんなとこか。
前回の講習で、水野を家康は取り込んだ話はほぼ完成している。
水野家の話としては、今回は、エピローグに過ぎない
参加者20名程あるのだから、他の人の意見が聞きたい
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私としては、細かい事実の追求は、余り興味無い
大まかに私独自にまとめると、慶長十六年時点で、
1.家康の天下支配には、豊臣は未だ無視できない。
2.家康自身もう老齢、次の時代を決めておきたい
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さて、以上の前置きの上、私論を述べたい。
つまり、家康は、二条城の家康、秀頼会見までは、
豊臣家は、「残しても良い」と考えていた。
否、「残そう」と考えた。
しかし、二条城会見後、「潰す」事に決めた。
以上が、結論だ。
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事件の流れは、
まず関が原があり、二条城会見が有り、その後、大阪の陣がある。
1600年、1611年、1615年。
時間の経過を考えたい。
関が原が、豊臣家臣同士の戦いとし、豊臣はおおきかつた。
二条城会見時点では、もう徳川の「世」である。
例外(真田)は、有っても実力は徳川である。
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此処までくると、反論があろう。
つまり、関が原の段階から、「家康は豊臣家を潰す」と考えたという反論。
この議論は、結論は出ない。
なぜなら、家康の「心」の話で、文献になじまない。
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話がそれる。
1.幕末、勝と西郷の会談は、結果「江戸城無血開城」
だが西郷は血の海を考えていた。
でも、彰義隊、会津は必要だった
2.太平洋戦争末期、昭和19年には、勝負は着いていた。
でも、原爆まで、終われない。
3.義経の最後は、頼朝に必要だった。
日本の歴史、日本人を俯瞰的に考えて欲しい。
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話を戻す。
江戸期、織田家は残った。十万石以下だが、
子孫が先祖を祭るという事は、今は知らず、江戸期は重要である。
江戸期の武士は、「家禄」は先祖を祭る為である。
たとえ武力も無く、知恵も無くとも威張れるのは、そのためだ。
山内容堂、嶋津久光、徳川慶喜、
これ等は先祖を祭る権利を得た人で、それ故、騒がれる人物で、
人間的魅力は、西郷や勝や竜馬の方がある。
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最後に書きたいことは、
大阪夏の陣は大阪の町民まで相当被害があった様だ。
大阪方は、戦争回避ができなかったと言う事だ。
この後、武士が嫌で、帰農した人もある。
「偉い人」つまり権力を持つ人は、なかなか庶民が分からない。
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