-----d20110414信長考.mem--------
-------信長公記の中の村木砦を考える。
私が今、所有する「信長公記」は、人物往来社の「戦国史料叢書2」です。
P21 から巻首が始まりp389が、巻十五の終わりで、
無駄なページは無い。
つまり369(=389-20)ページある。
1ページ十五行だから、総勢、約5500ページとなる。
で、「村木の取出攻められしの事」は、タイトル行を含めて35行である。
計算すると157分の1である。
「信長公記」は太田牛一の見た信長である。
このとき(1554年)信長21歳/太田牛一28歳
牛一は、村木に居たのかどうかを考えたい。
1文章から、2主従関係である。
1文章から
----原文------
北は節所手あきなり。
東は大手、
西は搦手なり。
南は大堀霞むばかり、
かめ程にほり上げ、丈夫も構へ侯、
上総介信長、南のかた、攻めにくき所を御請取り侯て、
御人数付けられ、
若武者ども、我劣らず、のぼり、
撞き落とされては、叉あがり、手負死人其の数を知らず。
-----------
と読むと、見てきたと思える。
2の主従関係から言えば、柴田勝家配下であると聞く。
では、柴田勝家は、弟に方に家を継がす方が良いと思うが、
家は大事と考えていたと思える。
だから、参加していたと思う。
-----
この時期の信長は、盛んに家来を作る時代である、
将来の秀吉はこの頃家来になるのだろう。
秀吉初め家来の考えは信長は「実力を認める」と、
期待している時期だ。
つまり、信長自身が自ら働き、家来も認められる事を
期待している時期だ。
これが上の原文から感じる。
「攻めにくき所」を信長自身が攻め、
だから、家来も「我劣らず」攻める。
----
六年後の桶狭間は、大分違う。
丸根砦や、鷲津砦は、見捨てて、義元の首一ツだけ狙う。
------
この違いを、東浦町は、押し出すのが良いと思う。
桶狭間は、今盛んに緑区が宣伝している。
「近世の曙」という言葉で。
さあ、「東浦町頑張れ」
-------
太田牛一(1527年(大永7年) - 1613年(慶長18年)3月)
------- ------------------

戻る