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やっとゴールデンウイークが終わる。
どうも、日々資料マトメなど落ち着かず出来ない。「花が誘う」から出歩く。
さて、少し整理の時期か、雨が降る。
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今一番引っかかる事の一つが「群樹捕手城責写」
5月07日森岡のふるさと散歩の実践研修が行われた。
参加するが、パンフに東浦町誌の資料がある。
「信長公記」と「群樹捕手城責写」。信長公記は全国区の資料だから、文句無い。
あちこちで研究されている。緑区でも,豊明でも、小牧でも、みんなが読んでいる。
だが、「群樹捕手城責写」は、相当高いレベルの人しか知らない。
「群樹捕手」でHPで検索する。が検索結果無しだ。
誰も知らない訳でもない。かぎや散人のHPでは出てくる。
文章を何とか読む。が、見えない。から、独断する。
16世紀後半の50年の水野氏は、東浦町が調べる可と思う。
「忠政」と書いてあり、生存しない筈と、全否定すべきで無いと思う。
石に書く場合でも、ミスは有り、で、全否定しない。
つまり、村木砦に、「今川義元が攻めてきた」と
石碑の内容が有っても、其処だけ削れば良い。
この石碑は、それなりに置いておこう。
「今川義元が攻めてきた」を「今川義元の軍が攻めてきた」で、問題解決できる。
足軽気分で言えば、義元本人なんか雲の上の人で、「義元の軍」で充分怖い。
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さて、「群樹捕手城責写」だ。戦い参加に「忠政父子」と出てくる。
町誌の説明に「明らかな間違い」と言う。
でも。上の場合のように、「忠政軍」と「子(信元)軍」と、解釈は、可能と思う。
ここら辺りは、私の独断である。「刈谷軍」と「緒川軍」と。
この時代、信長以外は「軍」と農地は分離できない。
何百石の「刈谷軍」が何人。何百石の「緒川軍」が何人。と、解釈すべきだ。
男女合わせて例えば10人が飯が食える農地が有れば、
3−5人は、兵士として、借り出される。
「私は農民で戦争しない」は、不可能の時代だ。そうして、資料を読むべきだ。
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図書館で町史を借りてきた。配布されたとおりで、それ以上でも以下でも無い。
ただ、「清水八右衛門・・・地元ならではの記事も豊富」の、部分だが、
この部分を解説願いたい、会員の共通認識としたい。
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P484の始めの部分「爰(エン、オン、ここ)ニ隣単緒川ノ城主
水野右衛門太夫忠政ハ、・・・」
この辺りは、信長の時代より、親父の信秀の頃の話に聞こえる。
すると、一世代前の話で、「水野氏」は、織田か今川か迷う様子に解釈できる。
「此処ヲ聞伝テ、郷人飯喰ト云ケリ」ここそのままで、
「信長公記」でここを探すが見当たらない。
場所が町指定である。
だからこそ、この「群樹捕手城責写」は、信じざるを得ない。
それとも、外の古文書でも有るのか?町史を全て読みたいが能力が無い。

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