----d20110621ガイド講座古文書.mem-----
ガイド講座第3回目は古文書
2.石造物は
 「ブイブイ婆の墓」 「二十四人力士の墓」
 銘の文字解明されて、 言い伝えの名前(上記)と内容が合わない。
 つまり、想像の世界に入る。 多分、当面、否、永久に解明されないだろう。
3.乾坤院の袈裟と古文書
 袈裟は、多分絹、織り方などで、時代特定される。 古文書の年号も本物だろう。
 文明七年はどういう年かと言うと、応仁の乱が終わる年。
 「応仁の乱」と言うと、10年続くのは、良く知られている。 只、年号応仁は3年で終わる。
 文明七年(1475)初代城主水野貞守が菩提寺とする。
 此れ以上の証拠は、出ない様に思う。 つまり、応仁の乱後、水野氏が始まった。
 小川氏が、以前在ったとか、などは特に関心無い。 「力」で,此処にきて、以後「力」で治める。
 関ヶ原合戦ごろ「力」の支配が終わる。 城主は居なくて良くなる。
 追伸:古文書の話の中で出てくるが「緒川は町」らしい。
4−1、 村木村  
 慶応2年である。幕末、百姓は何かと言って楽しんでいる。
  一応、言葉では武士を立てて居るが、  相当楽しんでいる、御酒を奉納するとは、
  最終的に人が飲む。現代人より日々楽しむのか。
  武士は、「武士の家計簿」で分かるが、相当節約している。
  先生の言う「黄門様」は、  町民農民が武士にいじめられているという事か、
4−2、 緒川村  
  ア 天保13年らしい。
   地図でみても町である、店の内容を見ると、   町内で消費だけで無いと思う。
   要するに、巡礼の宿場町と思う。   でだ、
   水野忠邦の天保の改革だが、値段を下げてどうなる。   1軒毎の収入は減るのか。
   消費者から言えば、たとえば「だんご」が安くなれば、 「2本の所3本にすべい」となる。
  い 天保10年「鳴物停止」が無ければ遊びっぱなしだ。
   緒川は、名古屋から遠いが、巡礼などよそ者に聞かれるとまずいか
   鳴り物は止めても、飲み食いはしたろう。
  う 弘化4年(1847)白魚
   此の時の刈谷藩主は誰かちょっと分からない。   刈谷は当然、「町」である。
   この町と緒川の村の掛け合い。面白い筈。
  え 博徒の件 年号が無い。   吉良の仁吉、清水の次郎長、緒川の??
   緒川にも、親分さんがいたかも
4−3 藤江
 あ 塩は塩田が新田にかわり、米を取っていたと認識している。此れ年号が分からないが、幕末と決めた。
  それに、吉良の塩というイメージがあるが、  碧南辺りで薪を取れたのだろう。
  薪なら山へ行けば有ろうか、御林で取れないのか。  これは、日付けが気になる。
 い 境川橋 橋守役並び庄屋の 文章だ。  藤江止まりは 地理的な条件か、
  合点で、留め書していない。
 う 興行文 明治七年か。此の時、愛知県?、額田県?  血税騒ぎも終わり、民権運動の頃で、
  興行と演説と入り乱れた頃だろう。
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今回の古文書で最も面白いのは緒川水野氏の件だろう。応仁の乱前後を考える。
乱前は、鎌倉、室町の幕府から領地を与えられて移動する乱後は、土地を死守する状態と思う。
つまり、「強い者」は守れる。信長の時代までこれが続く。
信長が清州から、小牧、岐阜、安土と移るあいだ、意識が変わる。天下人が出れば、それに従いどこでも行く。
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時代認識について、先生に共感。「黄門さま」は文学。
少し調べると、「幕末、講談師が広めたらしい。
副将軍といういい方は、水戸斉昭が一橋慶喜を将軍に着けたいためともいう。
明治の徳川物が売れたのは、光圀自身が勤皇だったともいう。
私として、「水戸の勤皇」が未解決である。まあ、光圀の「大日本史」のせいだろう。
武士が生産をしない、で、理論がほしい。で、いつも「大日本史」を読み創つていたからだろう。
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幕末、公家、武士は、外人が嫌いで、そんな事で毎日ヂタバタしていた。だが、町人は結構楽しんでいて、
商人は貿易がしたいのだろう。
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古文書は、事実を教えてくれる
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