=========d20110701古文書東浦.mem======0002842=======
今回は是非、記録しておかなくては。
地元文章で、我が「緒川新田」の始まりの頃の資料だ。
2件消化。「田地渡し(A)」と「灰船二艘300俵(B)」
------d20110701東浦古文書A.mem----田地渡し-----------------
田地渡し
 永代二相渡シ申田地之事
一 下田八畝弐歩
        所ハ唐治
   右之荒田有
右之田地永代二相渡シ
代金拾四両確二
請取、当卯之年御年貢二
上納仕候処、実
正也、於此田二、諸親類ハ
不及申二、何方より
何之故障、無御座候、
永々其方御扣江二
可被成候、為後日、
田地売手形、以テ如件
   田売り主
     新六「印」
   証人
    吉左衛門「印」
   組頭
    七郎左衛門「印」
 享保二十年
  卯十二月
    万助殿
      庄屋 
       文左衛門
----------- お定まりの文章だろう。しかし、場所、氏名、金額は、固有のものの筈だ。
まず、万助所持文章だが、「東浦歴史散歩」に寄ると、享保12年に緒川本郷下切から、七名が移住と有るが、 この中に「万助」がある。
地主が成長している時だろう。文化4年(1807年)の三山道中記の頃には「庄屋」と考えて良いだろう。
享保12年から享保20年(1735年)の間を考える。新六の名が移住七名に無いし、享保14年移住五名にも無い。
自作農の中から、地主が成長していく過程と考えれば良いのだろう。
享保14年の時点で、どの程度の農地が有り、その内、通い農民がどの程度農地を保有していたか?。
これ等の疑問は、解明が難しいだろうが、この資料が手がかりだろう。
多分、同様の方法で、全て緒川新田住民の所有に変わるだろう。
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次、場所「唐治」だが、この辺り現在、道路を作っている。
T字路を十時路に「改良」している。今後、更に分からなくなる。その前に、まとめて!!!。
小字として、唐治屋敷が見つかるが、それは狭い。道路沿いに「田」が少し残る。
「八畝弐歩」は、何坪ナノ?「下田」は、畑では無いだろうが、検地後、年数が少ないのか、 想像では、年貢の割りに、収穫は多いと思う。
次「拾四両」だ。多いのか少ないのか。教えて!?。ただ、商品経済に移行中なのだろう。
「万助殿」がどの様に「拾四両」を貯めたか。「新六」が、何に「拾四両」を使ったか。 商売を始めたか。その辺りの資料有りませんか。
------d20110701東浦古文書B.mem-------------------------------
灰舟弐そう入津
-----宛先----
  三月二十日
    急用書
 御苗喜衛門様
       役所
-----本文----------
      口上
一寸、申上候御注文之
灰舟弐そう入津
い多し俵数三百余り
御座候間、明日中二
御出披下候様、奉願上候
右御知らセ申上候処
如此二、御座候、以上
  三月二十七日
   御苗 喜右衛門
   同  八郎右衛門
------d20110701東浦古文書B.mem-----------------
「・・散歩」の12名に
喜右衛門は無いがそれらしい名がある。八郎右衛門はある。「三月二十七日」が、何年か分らない。
月の前に干支が欲しかった。急ぎの口上は無用なのだろう。商品「灰」は、米より重いか同等か。
代金は「銀」か、それとも「米」か。「俵数三百」は相当ある、全て受け取り運べるか、又は湊の倉庫に入れるか。
想像する、一部のみ受け取りで、代八車一台で米を代金代わりに運び、帰りは、「灰」を積んで来る。(相生辺りで、弁当)
田植えの前、土を肥やす。下田が上田程収穫でき、「夏になれば飲み食いしよう」と夢を見る。
汗を流す分、楽しみもある。多分、武士より、人間らしい生き方だろう。
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古文書の能力は、今一だが、想像は自由か。楽しいぜお。(まだ、土佐弁が残る、お江、姫はどうもである。)
------d20110701東浦古文書A.mem-------------------------------
---- end of d20110701古文書東浦.mem---------------

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