----no004012--
--2011 08 17日---
--===d20110817歴史講座.mem======004012==
講座2回の内1回目
尾張と名古屋城下 
「なぜ地方城下町から六大都市のひとつになったのか」 が、済んだ。
六大都市とは、昭和10年頃の謂いである。
----
江戸以前の尾張をぼろ糞に言う。
尾張生まれの俺は、それなりに尾張の歴史も知っている。
白鳥に断夫山古墳もあり東海地方最大の前方後円墳だ
壬申の乱の時の、尾張氏は相当大きいと思う。
熱田神宮も古い、頼朝も生まれている。(いくじ塩もある)
これ等で、尾張は小さくない。
先生の話は、単に流通の上で美濃に負けると言うだけだ。
今後、平安、鎌倉時代の尾張国司などを調べよう
---
津島と信長を思うからだ。津島と天王社が有り、信長の財力は津島と思う。
美濃が交通の要衝と言われる。戦国時代はそうだろう。 しかし、信長時代は、大分南下している。中心は岐阜城辺りから、清洲辺りに移る。
そして、家康の時に、名古屋まで南下したと、考える。 家康は江戸を作った。この経験が、名古屋に生かされた。都市を造るという事を。
------
昭和、平成の都市の移りを考える。例として、東浦町。 旧街道(諸崎街道)が在り、今、数件の店が名残を留める。
仕出屋とか、饅頭屋とか。少し前まで、車が通る国道が、町として発展した。
次ぎに、イオンが出来、田んぼが町になる。地価は何倍にもなろう。
-----
上の2件の流通がダブル。船から車と、時代が進む。栄枯盛衰。 此れこそ、歴史を学ぶ人が自覚すべきで有る。その上で、未来を思う。 出来れば、町の発展まで考える。 --------
本題である。尾張藩である。その前に、御三家である。 今年三月、和歌山へ行った。雑賀から城下まで歩いた。 この間の感想は、一事で言うと「未だ昭和」なる。先生の言う通り取り残された。
一年前程には水戸も歩いた。今年は、常陸大田の西山荘に行った。此処も紀伊と同様と思う。
----
さて、尾張徳川である。家康が造ったといえる。清洲越だが、清洲は五条川がよく氾濫する川らしい。
新清洲城に登ると回りが見えるが、「低い」と感じる。 家康が造った江戸城は、二重橋から見ると海に面した城と感じる。
しかし、九段=半蔵門辺りから見ると、丘を削ったと見える。 家康は此処に縄張りをした。大田道灌は余り関係ない。
岡崎、浜松などを作り、大阪を見、伏見を見、 その家康が、考えた土地が、名古屋だ。名古屋城辺りを歩きたい。
西が少し低い浅間町。此処は少し台地ぽい。伊勢湾台風を思い出すと、南区は弱い。
俺の生まれた昭和区辺りは5センチ程の水だった。マンホールがぷかぷかしたが、朝は水は無かった。
御器所大根の産地である。畑で田で無い。つまり高い。御器所の名前も、漆と木の感じである。
御所に収めたというが、どうも分らない。いづれにしたも、台地だ。
東別院も台地の上の感じ。東に行くと低くなる。詳しく調べてないが、標高5メートルの土地が多い所だろう。
なだらかな丘陵で、東京より土地が良いと感じる。家康は鋭い、70歳の知恵だ。
家康は西に尾張名古屋、北に会津と考えた。そして盛んに名古屋を盛り立てる。そして家康は消える。
尾張大納言である。紀伊中納言、水戸黄門とは違う。
----
尾張徳川は、美濃を多く含む。絹は高級で、元禄以降盛んになろうが、木綿も庶民に欠かせない。
知多木綿と一宮繊維街と比較したいが出来ない。誰か、全国的にどちらが有名か?調べられたい。
-----閑話休題。
関が原以降を考えよう。此処で天下分け目と考えない。
大阪の陣で、徳川天下と考える。だが、徳川が優位は間違いない。
だから名古屋は、始めは軍事用で、少しずつ平天下に移ると、考えれば、良い。
慶長11年、知多郡を加増
  17年、美濃を加増
元和元年 、木曾三川加増
これが、家康の政策で、B元和元年はもう名古屋発展の為である。尾張大納言は違うと再度言う。
余り大きいので、だから「大きな田舎」として成長する。 将軍家と肩を並べる程であるが、将軍家に代わる意思は無い。
紀伊の吉宗は、将軍志向だが、宗春は、自分の考えがある。「大きな田舎」である。
霞ヶ関から、金を引き出すより、自分で作る。この心がある。此れが都市を造る。
---
話がそれる。東北である。金は、望んでも落ちない。此れが政府である。戊辰戦争後、学んだ。
今又、学び始める。申し訳無い。どうにも成らない。此れが日本である。松平容保は、死ぬまで何も言わない。
言いたい事が有るはずだ。再度、「容保」を出そうとしている。 「言わない人がいる。」これだけは、忘れ度無い。仙台は、「大きな都市(田舎)に成れ」
-------閑話休題。
岐阜奉行を調べた。知らなかった。「岐阜町は元和五年(一六一九)尾張藩領となると代官が置かれ、
元禄八年(一六九五)には岐阜奉行が置かれました。」以前、金華山に登り、町を歩き、加納城跡に行った。
でも、岐阜奉行は意識しなかった。(信長だけ探していた。反省)又行こう。
------------------
資料は流通手段として「川」が殆どだ。そうだろうが、桃助から「鉄道」らしい。少しは思い当たる。
生まれた所は、夜中汽笛が聞こえた。6歳頃か。もっと後か。 中央線の鶴舞から聞こえると教えてもらった。ひょつとして、木材の貨車なのだろう。
-----
武豊線はまだ貨物を運ぶ。遺産で現役だ。殆ど「車」に代わった。
武豊駅は貨物は終わったが、途中駅に貨車がいる。貨車がおれば、人も動く。がんばれ武豊線。
------
あとがき:流通が大切であるが、今、私は通信に興味がある。ホームページだし、スマートホンだし。
講習始めに「月見のお誘い」パンフがあった。
此処でHPアドレスを見ると、[bunkanosato.jimdo.com]とある。訪問した。よくあるページだ。
名古屋東区Jimdo
以下は私個人
ホームhigasiurahary Jimdo
最近、誰も見ないHPを開いたのがこの系統だ。
この輪も、注意しようと思う。簡単そうで、興味を持ち皆さんも是非開こう。
「東浦の自然」とか「東浦市政」とか。得意な、云いたい事の有る人は、是非、輪を作ろう。
此れが東浦市の発展の元と思う
--------この雑文、読んでくれて有難う----

戻る