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--2011 08 17日---
=d20110819歴史講座.mem=調べを書く
==========d20110819調査.mem========
少し調べた。以下だ。
 城山・覚王山のお茶席めぐり
 1.洗心軒 城山八幡宮境内にある
 2.茶筅塚 相応寺境内にある、筅をかたどった供養塚。
 3.三賞亭 (株)松坂屋を創業した伊藤次郎左衛門祐民の別邸「揚輝荘」北園にある「煎茶」の茶室。
 4.草結庵 日泰寺境内。三畳台目の茶席。
 5.知足庵 古川美術館・爲三郎記念館の庭園にある。
城山八幡宮は行ったし、古川美術館も、つれていってもらった様だ。
そのほか、殆ど知らない。
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序でに私事だが乍、実家の墓は、日泰寺にある。と、言っても、道路沿いのビルの中の墓だ。
このお盆にも行った。墓参りと言っても駐車場に入れず玄関前の駐車で済ます。短いものだ。
ゆっくり墓参りしろと言われたみたいに思える。で、「覚王山巡りしろ」と。
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桃厳寺(織田信秀墓)も、行きたいと思っている。只、茶は分らん。俺流の飲み方で、何時も飲む。
この関係で次ぎ揚輝荘が、出てきた。http://yokiso.org/ 揚輝荘
松坂屋だ。話は本能寺の変まで、さかのぼる。伊藤次郎左衛門。そして、大阪の陣に話は進む。
乱世が終わり、松坂屋が出てくる。(津と松坂の話はしない。)
徳川の世と、信長の考えの天下とは、違う。再度、考えたい。
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尾張について、その後少し調べた(HP探しただけ)。
尾張国司と尾張守護が有り、結論から言うと、良く分らない。だから、個人の感想になる。
国が大きいか小さいかでは無い。どんな要素、特徴があるかだ。
武田信玄の甲府の治水を考えると、川の両側に田が有り、この川を治めたといえる。
一般の田を考えると小川の曲がりの所に湿地が出来、そこが「田」になる。
濃尾平野とか、新潟平野の様に見渡す限りの平野は、悪水処理等で、逆に田になりにくい。
江戸時代になり、半田山方新田や緒川子新田などが、田になる。
戦国時代の田は、山裾に有ると考えたい。
話を尾張に戻す。
清洲辺りは、比較的大きい田が有ったと思う。小牧辺りとかも、そうだろう。
知多も、比較的小さい田だろう。逆に、蟹江辺りは田は無いと考えるべきだ。
尾張と美濃の国境は時々変わる。此処に川が有り、国境を変える。
農民から考えるとどうなる。先祖代々の「田」の考えが育たない。 つまり、農民は育たない。そこで信長と津島が出る。
三河を考える。豊川辺りが国府である。大きな川というより、大きな平野(田)と考える。
松平郷は、とても多人数養えない。安城に出て、岡崎に出る。此処も豊川とにて、大きな田と思える。
信長と家康の違いだ。
-----------以上だ。
序でに尾張の武将について述べる。
織田信長、豊臣秀吉、柴田勝家、前田利家、池田輝政、山内一豊、//加藤清正、//福島正則、 蜂須賀正勝、堀尾吉晴、浅野長政。まあ、以上だ。
大体が、土豪クラスか。信長は少し大きいか。
秀吉も、「草履取り」とか「矢作橋の寝起き」とかは、後の文学の創作で、生駒家と関係が有り、 単純に足軽倅では済まない。
柴田も小さい土豪(生まれが良く分らん)。
前田、浅野は少し大きい土豪らしい。
堀尾はまあまあの土豪(丹羽郡大口町豊田)だろう。豊田という字名が、農民を思わせる。
蜂須賀をあま市に訪ねたが、まあまあ大きい。この辺りの平野に立ち思う事は、「多分、商業も」と考える。 蜂須賀を「盗賊」というが、これは、徳川からみた目だ。信長に言わせれば、「商人」だろう。
//加藤清正//福島正則辺りは、個人の性格で武将になる。特に家は無いのではと思う。 (少し、生誕地を探したぐらいで余り調べて無い)
武田あたり、今川あたりの武将は、もっと農民ぽい感じがする。
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1回目の講習では、知多が出てこないで、美濃ばかり。「慶長11年、知多郡を加増」此処から尾張藩だ。
この辺りの話が聞けると、期待する。
--------この雑文、読んでくれて有難う----

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