----no004417--2011 09月 10日---
前日、迷った、半田か、東浦か。
半田にした。
東浦定例会はメールで連絡。
---以下だ。---------------
写真で再確認。
集合は八幡社、何処だっけ。
時間は9時、8時20分出る。
あれ、車の時計8時50分と。
着いて余り居ない、まだ8時40分だ。
----------
研修チーム3班で、それぞれ出発。
C班はまづ南吉生家。
昭和61年立替らしい。
きれい過ぎるが
土壁は、崩れが無い。
床はコンクリ、当時はたたきか土間か。
観光施設として此れで良い。
間取りがわかる。
屋根の高さは、疑問が出た。
個人的には、家の位置が気になる。
地図もみせてもらう。
東に車道は無く、電車の線はある。車道は東西線はある。地図は、大正6年か、昭和6年かどちらかだった。
個人の家は、名前がある。
「創作もの」と「現実名」が,対比できるが、しない方が良い。説明でもそういう。
位置は、黒鍬街道沿いだ。駅も近い。
これで、俺は、「南吉」の生い立ちを想像する。人通りの数だ。きっと多い。
影響は、「家」だけでない。一般には、村人達がある。 「南吉」の場合、通行人が影響したと思う。
子供時代を考える時、現代と比較したい。今、家は密閉で、他人があまり入らない。 家の中も個室である。知識は、「人から」ではない。
で、南吉を考える。童話である。一生、子供である。
家で「母」を考え、村で、共同体を学び、通行人で、世界を創造する。
此れが俺の「南吉像」である。
あとで、岩滑小学校へ行く。此処は先生というより「上級生」を南吉に感じる。
此処の小学校、小級生に慕われると聞いた。そうだろう。
まだ、これ以上南吉に触れるには、南吉を読んでないからやめる。
その前に、一つ、狭い路地を歩いていて、老人の立ち話を邪魔して、通過した。 其の後、この老人が、何吉の話にも出てくる、「鍛冶屋」の家の人らしい。とわかる。 で、「南吉のお陰」という言葉を数回聞いた。「何が」かは、忘れた。
--------------
国家老「森家」前を素通りした。 光蓮寺へ行く。此処から彼岸花の葬列道があったらしい。岩滑小学校へ行き、信号を下り、 南北に歩くと、段丘を感じる。歩くと分る。矢勝川まで続く様だ。
旧黒鍬街道を歩き車の通れない道を歩き、矢勝川まででた。彼岸花で、狐の像の話も聞く。 町お越しだ。
家康の話は、どうもであるが、尾張徳川経費は、事実の様だ。 尾張徳川は、「家康と縁が深い」としたいと、考える。村人は助かったことは良い。
常福院へ帰る。「中山様」と「弥生、稲作」も聞く。最近の調査の話。 「登呂遺跡」も、戦時中の事もあり、後一歩の調査が欲しいが、此処もそんな感じだ。 水野の前の「中山様」も、そんな感じ。
戦国時代史を知りたい俺は期待したい。信長も分るし・・・。
日本人を知る為にも、稲作時代を知りたい。
八幡神社に帰り解散。最後のグループらしい。暑い日だある。
(誰が500年前と言い出した???)

9月メニューへ

トップメニューへ