----no004480--2011 09月 16日---
夜、半田の講習、南吉に参加した。
南吉が、少しづつ見え出す。
帰宅して、
資料はスキャナーして、
一冊にまとめた。
未読の部分も読む。
内容は、右の通り。
1.中学進学事情。
此れは小説。
2.中学時代の南吉。
此れは、日記。
3.経験は「火事」の事。
題が摩り替わる。事情や反省が、普通だろう。
帰り、「張紅倫」を3ページ読む。
此れでは、分らん。題は、「古井戸に落ちた大佐」で分る。
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南吉が大分見えてきた。
一事で言えばやはり「子供」だ。
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今まで、此処で言ってきた事と逆の作業がある。-
つまり、今までは、
「歴史に、文学が入り、歴史がぼやける」。と
南吉の場合、文学を、歴史と比較したがる。-
「日記」が、文学少年を目指す事が分る。実に自由に書いている。- 日記に見えない。小説に見える。
それに、少年の日記はそんなもんだ。大人はもっと、文章が、理論的に書こうとする。
だが、これは、感情が表に出て、理論は小さい。
おこがましい言い方だが、俺に似ている。
人のHPの文は筋が有るが、俺の文は、子供の文脈だ。
でたらめな方が、発展して、創造に変化しやすい。
ただ、南吉の文は、きれいな花が咲き、俺のは、腐る様だ。
「少しずつですが仕上げてまいりますので、温かく見守っていただければと思います。」的な文が かけない。
俺だと「まだまだ、見てて、どうなることやら」ぐらいになる。
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ダイジェスト版しか、読んでない。これからだ。
「ふるさと」として読むが、何時か、文学として意見が聞きたい。
一人で読んだ「張紅倫」は、それが期待できるかも。だって、中国の話で、 「人の立場を考え、去る」人が、半田に居ただろうか。

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