----no,004640--2011 09月 24日---
新田の散歩の事前歩きがあった。
集合9時半で、大分前に、
農協前まで着いた。
車送りで。
が、車にカメラを忘れて。
で、電話も通じない。
ああ、俺のカメラ・・・
呼んでも、歩いてこない。
送ってもらう発想がまずい。
個人的な事情は此れ位でやめ。 ---------------
兎に角、
9時半にあつまる。
先ず、山神社。
(俺として、新田で、
此処だけぐらいしか知らなかった)
瀬戸内海の大美嶋。
一度、40年前に尋ねたことがある。
嶋のサイズの割りに、
大きい社だと感じた事だけ、記憶にある。
それより、瀬戸内海の気候のよさに酔って候。
そこが、御祭神である。
由来は不詳だ。
昭和にも祭神由来の話が出、それには、碑まである。
その点より、「村立」と神社とどちらが先かが興味ある。
江戸時代、先ず、畑が出来、その後、七戸、五戸と住み、それが独立は昭和だ。
その間、生活は如何か。何に祈り、何を教育し、何処へ税を納め、何処で、物を買う。
祈りの場所は、神社の隣である。が、寄り合いの場所でもあろう。
此処が、分岐路で、お地蔵さん型の道しるべ。 常夜塔もあり、つまり、公共の道である、村の銀座通りだろう、 此処の南斜面に最初に、住人ができる。住居は上畑並の課税だからそれほどでも無いだろうが、 畑が、回りに広がっていたろう。今としては、地形で感じる以外ないと思う。
つまり、道と坂である。これは、余り変化はなかろう。
「道」だが、大変な物を作っている。窯跡がまさに消えようとしている。思うに北斜面だろうは、今想像できる。 此処も、写真だけの記憶に変わるだろう。時間の問題だ。
丘だ。登れば、気持ち良い。中腹に住み、丘に登り遠くを眺めた江戸人が見える。 今は、田だが、その頃は、畑か?秋空は風が雲が、絵になる。 丘を下り、其処に墓がある、共同体のサイズがわかる。
此処からは、道の南側になる。保育園も新しい、卯の里小学も新しい。 (余談だが、この命名、気に入っている。最近、東西南北の名が多い、管理しやすく考えての命名を感じる。 教育者の感じがしない。)
当然、南側も住む。が、最近(といっても、30年程だが)、団地が出来、もう一万の人が住む。 高根台とか、丸池台とか(おれも住人)。山が台に変わった。当然、機械で地形が変わった。
秋の日、野原、里山ここらは気持ち良い。
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序で乍、午後、知多の古文書の会にでた。
展示は、灌漑だ、愛知用水前の時代が示される、

水で少し、もどる。
緒川新田は、水系で図ると、阿久比川系だ、半島に盆地があり、そこの水は阿久比に行く。
行政区は緒川だ、分水嶺が低いので、それで良いのか。
開墾者が緒川からだから、そうか。阿久比から、来なかった。
何も無い時、地形をみれば、東も西も山、南に開けていたと思う。

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