------------no.4786--------------2011/10/11------------------
東浦の新田ガイドの日。午前中、ガイドをした。
天気は良い。これ以上の日は無い。
新田地区は、秋日和。
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ガイドと言うより、
被ガイドの気分が俺に似合う。
まあ、それなりに、少ない参加者の筈、
何とかなろうと、集合9時半の
大分前に、行く。
でも、もう数名いる。
天気がいいので、欠席はいない。
事前のビラまきも効果が、
有ったらしい。
最後のグループでも2名の応募。
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始めは、緊張していた。
が、知識豊富なメンバーが、
補足してくれる。
そのうち、半分、
「お任せます」気分もでる。
私は、知識はあまり無い。
無くても良い位の考えが、ある。
基本は「日本人は何?」の答えを求めて、
ガイドする。
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まず、山神社。ここが、村(?)の中心だ。江戸も、終わり近い頃だ。俺の疑問は、緒川新田で、 阿久比新田でない事だ。水の流域から考えると、阿久比川だ。此処の悪水(下水)は、阿久比川に入る。 境川の方では、豊明、大府の悪水が緒川を、通る。緒川にとり、めんどくさい水だ。 村々、何とかしてきた。「お上」が、決めたのだろう。で、いいのか。緒川で。
人が住んで居なければ、「山の神」で良いが、住むなら、まともな神が要る。勧請したが、 明治に、「大山祇」と認識する。そんなもんさ。祈れれば、大差無い。例えば、雨乞い、 農民は、まず「祈る」すると、いつか「雨が降る」。理屈でない。降らなければ、苦しい。 それだけだ。弥生時代以来、農耕民族はそんなモンだ。
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万栄教会。これは、対外的な名称。地元では、「万栄庵」である。「万」は、万助だろう。 ここで、話あう。水の事が多いだろう。万助」さんが、言い出し。異議なく、従う。 そんな会議だろう。村として独立はほとんだ無い。 本郷では、開く土地も無く、商品経済に汚染されている頃だが、ここではまだ、開拓地が、ある。
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八巻窯跡。道路工事中である。いずれ消える。瀬戸で復元された窯がある。こちらは、猿投窯の復元とか。 平成の開発で消える。だが、阿久比など、開発と関係無い処で、残っている。それで良い。
ただ、ちょっと考えたい。此処の製品と、弥生土器との差だ。相当進歩しているだろう。 製品だが、皿だ。弥生は主に壺だ。弥生時代の皿は、木の葉だろう。そして、野焼きで、窯は無い。 此処は皿で、窯がある。この進歩だが、文化は朝鮮から平安時代以前に入ったと思う。 それが、平安鎌倉頃、ここまできた。で、燃料が無くなり終わった。
弥生時代は広葉樹があり、栗、柿など食べた。それが、松に変わる。つまり、痩せ土地に強い。
江戸時代、藩は森林保護した。知多半島の建物で、柱や梁で立派なのを余り見ない。 内海の半七屋敷は幕末。半田も幕末。どうも、大木で柱になりそうなものが半島で余り見ない。 松は、白砂青松でありそうだが、あまり無い。 ------------
お墓も訪ねる。「播隆」もよくわからん。平民の味方か、上に付くか、よくわからん。 犬山の成瀬の補助が有ったらしい。お互いの計算の行動か?。
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後、のどかな秋空の下を歩く、良いところだ。保育園は新しいが、その他は余り土地にブルトーザーなど、 器械ははいつていないと思う。多分、昔の地形はこんな物だろう。

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