haruharu Page

-----no.4831---2011/10/16---
---d20111016江.mem---
殆ど、
否、全部、
見ている。
NHK「江」の事。
十六日で四十回
タイトル「親のこころ」
後六回。
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貴方、見ているか?。
見ていない?
歴史好き程、見ないか?
私の感想を書く。
歴史として、「違う」と、
言いたくなる。
女が、家族を、
突き詰める作品として、
側面を見ると観賞の耐える。
例えば、タイトルを見る。
二回「父の仇」、
七回「母の再婚」
八回「初めての父」
九回「義父の涙」
十三回「花嫁の決意」、十四回「離婚せよ」、十八回「恋しくて」、二十二回「父母の肖像」
二十六回「母になる時」、二十九回「最悪の夫」、三十回「愛しき人よ」
三十四回「姫の十字架」、三十六回「男の覚悟」、四十回「親の心」
で、ここまで見ると、メロドラマ。
以下も、特定の固有名詞で、歴史ものと分かるが、方針は変わらない。
十七回「家康の花嫁」、十九回「初の縁談」、二十回「茶々の恋」
二十一回「豊臣の妻」、二十八回「秀忠に嫁げ」、三十三回「徳川の嫁」
三十七回「千姫の婚礼」、三十八回「最強の乳母」
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男として、余り面白い物で無い。それでも、私は毎回見る。
NHKという、金を考えない集団が作る、作品である。
襖や、杉戸や、鴨居・・美術として、美しい。
安土桃山と前は言った。いま織豊時代という。其を徳川がどれほど受け継いだか。
安土、大阪が燃える。でも、名古屋城は昭和まで有った。
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納得できる所とできない所は何処か考えながら見る。
この見方、歴史では重要である。歴史は「嘘を書く」
「本能寺の変」は、有った。が、何故かは、わからん。
それを書くのは、「嘘」である。大きい声の人が、嘘をいう。それが、歴史だ。
真実は個々人の中にある。
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さて、写真だ。常識は一般的に違う。男は良いとしよう。女が違う。作者の嘘だ。
御台様に長男、次男が並ぶはずだ、個々を時代考証の小和田さん教えて。
多分、意見のやり取りが有っただろう。秀忠乳母、家光乳母が何故居る。
配置が、江と福が、対象的だ。おかしい。
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俗説的には、秀忠、江、家光、国松に四人。後は側近。家康は「国松、控えろ」と言う。
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只、此の絵、美しい。襖の、老松が良い。服装は、まあ良い。
後ろの侍、ここでは名もない武士、部屋が大きいなら、両側に並べたい。
直接、家康の顔を見ている。それなら、控えの間を後ろに置き、間に御簾を入れたい。
NHKの金の問題だろう。
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蛇足ながら、茶々が「般若面」を連想させる。演技が良いのだろう。
「傲慢」と言うより、「執念」を感じる。茶々を再考すべきか。
------------以下、十六日分-親の心の抜粋と次回分である。

------------以下、十六日分-親の心
芦田愛菜ちゃんからバトンタッチ。
おしとやかな女性へと成長した千を演じるのは、忽那汐里さんです。秀頼の子を産みたいと願う、
“怱那千”のせつない表情にも注目。
豊臣への処遇をめぐり意見が衝突する、家康と秀忠。
いとおしく思いながらも歩み寄ることができない、江と竹千代。
離れゆくそれぞれの心をつなぎとめるのは…。
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江(上野樹里)は、8歳になる長男・竹千代が病弱に育ったのは福(富田靖子)のせいではと思い悩む。
そんな母をけなげに励ます聡明な次男・国松が、江にはいとおしくてならなかった。
 一方、大坂では淀(宮沢りえ)が、秀頼(太賀)と側室の間に生まれた子・国松を
ことのほかかわいがり、常高院(水川あさみ)は、
家族の輪に入れずにいる千(忽那汐里)をふびんに感じていた。
 秀頼との対面以来、家康(北大路欣也)は大坂城を取り囲むように築城を行っていた。
豊臣との戦に備えるかのような父の動きを、秀忠(向井理)は不快に感じるが、
いまだ実権を握る大御所に苦言を呈することもできない。
 江戸城内で、江の国松溺愛を察した家臣たちから「世継ぎは国松」といううわさがささやかれ、
焦った福はなんと自ら駿府に出向き、「竹千代を世継ぎに」と家康に直訴する。
ほどなく江戸に現れた家康に「世継ぎは竹千代」と告げられ、江は激怒し家康に詰め寄る。
家康は、むしろ跡継ぎをめぐって家中が乱れている状況を嘆き、秀忠の将軍としての自覚を促す。
しかし、跡継ぎ問題は解決せず、城内では、国松を推す江と、竹千代ひとすじの福との争いが続いていた。
 そんな折、大姥局(加賀まりこ)が病に倒れる。大姥局は、秀忠に父子でよく話し合うよう忠告。
江には「何があろうと、母が子を諦めてはならない」という言葉を残す。
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生きるか死ぬか、食うか食われるかという厳しい状況にあった戦国時代。 次男・秀康ではなく、三男・秀忠が徳川家の家督を継いだように、器量が重視され、 「家督は年齢順」というルールが確立されていたわけではありませんでした。 能力のない者が家督を継げば、すぐに滅亡という憂き目を見ることになったからです。
ところが、これには難しい問題もありました。親が子どもの能力を計る基準が曖昧だったからです。 能力はあるが反抗的な子と、能力には劣るが素直な子。 あなたなら、どちらの子の方が器量に優れていると思いますか?
.これが武士の中でも下位であれば、家族内での問題となります。 しかし、次期将軍のポストがかかっているとなると、それだけでは収まりません。

物静かで、病弱な兄・竹千代。聡明で、容姿端麗な弟・国松。
夫・徳川秀忠との間に五女二男をもうけ子宝に恵まれた江ですが、この2人の息子のうち、 竹千代を嫌い、国松をかわいがっていたことは、古文書によって確かめることができます。
.残念ながら原文書ではなく、写しの形で徳川林政史研究所、 国立公文書館内閣文庫などに伝わるもので、「二月二十五日付お江宛の家康訓誡状」と よばれる古文書です。この訓誡状は、全文二十七条にも及ぶ長文ですが、この中で家康は、
 ・国松をちょう愛するのは、あるべきことではない
 ・惣領の竹千代は主人で、国松はその家臣である
 ・惣領の竹千代より、国松が力があるのは、家の乱れのもとである
といった忠告を行い、江をたしなめています。徳川家政権を盤石のものとするため、 「兄が惣領となる」というルールをつくり、不要な家族間の権力争いを収めたというわけです。

----------以下、予告二十三日分
江戸城では、江(上野樹里)と福(富田靖子)の徳川家跡継ぎをめぐる争いが続いていた。
 一方、秀忠(向井理)は、家康(北大路欣也)による
打倒豊臣の動きを察し、秀頼(太賀)に「共に泰平の世を築こう」と文を書く。
 そんななか、ついに家康が動き出す。
家康は、豊臣が方広寺に鋳造した鐘に、徳川に対する呪詛(じゅそ)の文字が刻まれていると抗議し…。
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なんとしても豊臣を追い詰めたい家康が次に目をつけたのは、
方広寺の鐘! 豊臣が秀吉の十七回忌に合わせて鋳造した鐘に、
徳川をおとしめる文字があると言いだし…。

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