haruharu Page

-----no.4856---2011/10/18---
有名な桶狭間。
有名過ぎて
2ッの行政区のガイドがある。
名古屋市緑区、
豊明市。
此の行政区名は新しい。
「緑区」あまりにも昭和の命名。
片や、「豊明」これも新しい。
「豊」が、愛知県は好きだ。
豊田、豊川、豊橋。
豊川は古そうだ。
だが、豊橋は確か明治で、
それ前は「吉田」。
「豊田」は言うまでも無い車屋だ。
この名は、今や世界的だ。
アメリカ人は、名古屋を知らない。
で、豊田の西どなりの町があり、
それが名古屋と説明するらしい。
此処までが
落語でいう「まくら」だ。
「時代」「歴史」を言う時、
現代を踏まえたい。
で、まくらを置いた。
どのガイドも、がんばる、
ただ、ガイド以前に、歴史研究家はいたろう。


「兵隊」経験者として、緑区の会の顧問がいる。
片や、「豊明」はお寺の住職がいる。
今回は豊明のお寺の住職のお話が聞けた。
それは、後で語ろう。
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朝9時、集合、出発。
乾坤院の稲荷から見ると、東浦の秋はのどかで、気持ち良い。
なだらかな丘である。私は、「地形で、昔を考える」と言う方針がある。 自家用車に分乗と言う事で、後ろ席である。十分地形を感じる。 大府のなだらかさが、桶狭間近くは、丘続きを感じる。
緑区からだ。公園の義元塚で花を供えるガイドさん。昭和に掘り返された碑だ。 これだけでここだと考える。又、桶が回る泉がある。此れ以前、最初に来た時あり、 その次訪問の時無くて、今又有った。名前の由来だ。 以前に聞く所ではここから、長福寺まで流れが有ったらしい、 今は、「どぶ」に変わっているが、でもある。
グルーッと歩いた。七ッ塚という名前は、塚が七ッ有った事で、此処の塚の名で無い。 ここも塚だったと確認する。石碑の後ろが、塚で、でも塚の形でないが、以前は塚と思う。 ブロックで囲まれたと考えるのが妥当だろう。
釜が谷。釜は窯かもしれない。東浦でも「かま」があり、知多半島ニモ多く、 ここも昔、知多半島と言える。「谷」は、今でもたしかに確認できる。 ここは、数年前、新聞で、大学の先生が認定したと知った。以前も聞いた。
長福寺も、落慶・晋山式が有る、十一月六日(日)、できれば行きたい。が、古い幹が有り、 古さがわかる。石も古い。
池を、一周する、戦評の松は、望視呑み。
最後、詩吟を聞く。太田錦城だとか、三河吉田藩の客分とか。この頃の城主は、松平かな。 松平氏は織田と今川とどちらに思いを持つのか。松平と言っても、いろいろあろうが。
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車で、移動は、有松へ。まず飯。「寿限無茶屋」で、定食。味は音痴で不明だが、 屋敷は結者ありそうな町家、板敷の間で頂いたが、ここは昔、多分、店、その奥の間が二ッ続き、 その奥は庭。街道沿いと言うことで、味が一割増し、否、値段が・・・。
まあ、街道筋として、今更という気分があり、有松駅へ向かう。高校の恩師が、駅前に住んで居た。 十八の頃だから、四十年、否五十年近く前の話。だが、俺には、その有松駅の方が、未だに見える。 今、全くそれが無い。まるで「浦島太郎」。でも、此処を歩くと、思い出す。 土地とは、其処に精霊が居ると感じる。駅は高架で有る。登って降りた。 高架駅には、看板「有松めぐり」「桶狭間古戦場」がある、名鉄はここだと言う。 中京競馬場の駅はどうなっているか気になるところだ。駅の南に、シャベルカーが有った。 また、変わる。できれば、低めの建物にして欲しい。
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隣の高徳院へ、車は、高台の駐車場。ここから、式場建物のエレベーターを使い下へ、 寺は、葬式屋と同じか?、葬式家業は、町の地下鉄出口に多いが、それを思い出す。 公園で、ガイド多数が、待って居てくれた。こちらは、法被。聞くと、特に理由は無いらしい。 目立つ感じで選んだとか。「桶峡七石表」と言うらしい。初めて聞く。多分最近の命名だろう。 中で、大きいのが「桶狭弔古碑」で、一八〇九年、津島神官氷室豊長が立てたらしい。 -----氷室豊長を調べた。----
名古屋藩士松井小十郎弘喬の次男で、
天明四年(一七八四年)閏正月二十三日を以て生れ、
文化四年(一八○七年)二十四歳で津島の神主氷室勘解由種長の為に養われ、
その女陳子と婚し、職を襲いだ。
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此処で、松井氏が出てきた。(取り敢えずこれ以上書かない誰か調べて)
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公園を一回りすると、高徳院本堂へ、。中は椅子が並び、大きなディスプレイが有り。 席に着くと、すぐ説明が有る。旧絵はがきを集めて居る様だ。其意外に、鎧の写真が有った。 説明は余り無いが、境川を掘ると、今でも、刀が出ると聞いた事がある。 只この「今」とは、「明治維新後」という意味かもしれない。今川が逃げる時、相当死者が出た、と いう事だろう。それを思い出した。
私なりの意見を言はして貰うと。ーーー
説明は、東海道であり、東海道とは、家康が天下を治める手段として、関ヶ原以後である。 其の写真を何枚みても、永禄三年は出て来ない。
だが、東海道から見ると、桶狭間は近い、 山道がある、高徳院を通る、で、一番高い所を通る、で、また、東海道に戻る。 私も、江戸時代にこの道が有ったと思う。登れば、名古屋が見える。名古屋を見たが、目的の 第一は、桶狭間であろう。「此処で、戦った」が観たいのだ。 旅人は、それ以上」、長福寺までは、遠い。思いを表すのは、東海道沿いが良い。で、碑を残す。
沼の田で、義元は死んだとする。と、その田んぼが感じれない。------------
話がそれる。例えばだが、死者を思う時、墓の前と、位牌の有る寺の中と、二ッある。 寺で偲ぶのが、豊明の東海道と考えれば、良いのでは。個人の意見である。
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だから、どちらも史跡である。
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右に、入手の資料を置いた。緑区が一枚と、次の三枚は、豊明で貰った。緑区は、桶狭間意外にも、観光は沢山ある。 その中の一部の人が、桶狭間に特化した。
豊明は、観光としては、新しいが、盛んだ。楽しみだ。
桶狭間が有名で、知らべられる事も、殆ど出尽くした感がある。 今後は、関連事項から、考察される様になろう。
松井宗信だ。子孫に尾張藩士が居る。ここら辺から、調べたい。
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ガイドに付いて、
どちらも盛んである。説明して頂いた方も、勉強している。
嬉しい。歴史が盛んになることを祈る。

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