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-----no.4921---2011/10/30---
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御神域を意味する人の手の入らない神聖な森を、
最小限の三本の杉の木で表現した紋章であります。
 描き手によってかなりの出来・不出来が生じてしまう紋章と思っております。
 どこかにある一つ一つの要素の必然性(たとえば枝の本数等)を
探りながらかなりの時間と試行錯誤を経て現在の形を決めた紋章であります。
 今日でも山をそのものを御神体として祭る大神神社様のゆかりを
伝える希少な紋でありますが、
なかなか美しく正しく描かれているものを見かけない紋章でもあります。
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上の文は、何処かの頁の引用である。
家紋は、重要かと意見があり、
最近、結婚式が有り、その時も、何ら話題にもならない。
春に、端午の節句の飾りで、少し話題になる。その時、「丸に三本杉」と伝えた。
出来上がりの飾り幡の紋は、右と大分違って居た。
「丸の太さ、杉の大きさ」。少しずつ違う。
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「丸に三本の杉」だが、少しずつ違う。
上文の「美しく正しく描かれて・・」と有るように、書きにくい。
書く物にも依ろう、提灯にか、紋付の様な布か、墓の様に石か・・・
偉い家なら、什器にそれぞれ付ける。
私は、新家の新家だ。だからか、紋入什器は見ていない。
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最近、「大河内松平」を調べている。
そのとき、資料で「三つ葉葵」紋を見せて貰った。
本家(将軍)、尾張、紀伊、水戸、どう違うが、話題に成る。
資料は、家により分けて有った。何を根拠にと疑問がある。 印刷で見せられると、信じやすい。
数年前、私も少し気になり、少し調べた。諸説有り、私は結論は出なかった。
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話は少しそれる。
能の面を少しやる。江戸時代の面打ちは、舞台の隅で、面を見て、真似て作る。
似せようと思うが、余り似ていない。江戸後期は良い面は余り無い。
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話を戻す。
「三つ葉葵」だ。
どれが正しい「三つ葉葵」か、である。
幕府が「家紋を届けろ」と言う話は聞かない。 只、家康に、「各徳川家に葉の裏表で区別したい」と、いつたらしい事をどこかで読んだ。 只、家康と御三家はずれる。尾張藩は、家康が造らした事は、分かる。 その後、大阪の陣の後、すぐ消える。紀伊とか、水戸とかは、天下のカタチは、家康以後で、 家康は、ただ「天下を取る」だけで精一杯ではないか。「家紋など細かい。」 天下が定まったから、そんな事を言い出す。つまり、家系はどうかは、・・・
武勲で、家を守立てれない。だから、家柄を言い出す。
普通の武家は、そうだろう。只、御三家は???
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此処から結論だ。
先にいう。「特に決めてない。」が、結論だ。
最近、御三家の水戸へ行った。此処で、右図は、水戸の徳川館の物。少しずつ違う。
葉の部分も、茎の部分も、違う。只、恐れ多く、「三つ葉葵」似た紋は遠慮して、
各家は似てない紋にしただろう。
そお言うもんだ。
尾張徳川の、徳川園へ行こう。調べて来て欲しい。
只、ここでも、美術館の入口の紋など見ないように。明治以降作成の紋は、いけない。
そもそも、紋や旗印、馬印は、区別の為のもの、
戦場で、主人に「頑張っている、誰か?」で、・・「あの紋は・・」と見せるためだ。
江戸で、大名屋敷など、表札が有るのは嘘だ。誰にも分かれば、表札はいらない。
「赤門様」「黄門様」で分かる。それ以下は、逆に知らせない方が良い。
「上杉様」「浅野様」「毛利様」「島津様」「前田様」
「丸二十は誰」「雀は??」「梅鉢は・・「一に三星は・・」
庶民に対し、これだけで良い。

今年の春、水戸の西山荘に行く。此処で、墓地の資料を購入。
墓の図が多くある。まだ調査中との事、墓石に紋など無い。
当然と言えば当然、一山全て墓。藩主、正室、側室、こんな所に紋がいるか??。
隣に他家の墓があるから、紋を入れようと考える。
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話の序に。
今でも「菊」紋は、誰も着けない様に。(菊水は時々みる。)
日本政府の紋は???-
演説などで、桐紋を時々見る。あれかな??
どこで、どう決めたか。全く知らない。-
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