haruharu Page

-----no.4995---2011/11/06---
舌足らずの質問をして、
今戸惑っている。

タイトルを見直すと、
「歴史・民族部」とある。
この意味を後から考えている。
政治とか、そんな事は、考えないで。。。
その研究かもしれない。
ただ、「紀州藩」となんども出てくるので、
「紀州」出身の「幕府将軍」吉宗が浮かんだまでだ。
で、今更だが、調べている。「米将軍」吉宗。
出てこない。まあ、それもそうだ。
今や将軍、「藩なんか気にすな」と成る。
ただ、あったかもしれない。あつただろう。
今の政治家を見てもそう思える???
菅は山口、野田は、千葉。
本人が言わなくても、耳に入る。
阿部正蔵は天保の改革期の大坂町奉行で、時代が遅すぎる。
大岡 忠相(おおおか ただすけ)が問題。
--------以下が見える。-----
在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、
山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟では、
紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという[1]。
----以上--------------
まあ、解らないと言うこと。今後に宿題。----------
いずれにしても愚問である。それに、質問の仕方を知らない。
立ち話などで、質問すると色々聞けるんだが。
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尾張藩と紀州藩の関係をこの回船に持ち込みたいと言うことが言いたいのだ。
明治以降、紀州は沈む、竜馬の「いろは丸」以降の感じ。講義の中、越前藩も少し出た。
藩と産業も、1800年頃から考えなくては。藩が、「産業で儲けよう」と考える。 少なくとも、借金は何とかしたいと考えて、「米」だけでは出来ないと考えている。
此処で「尾張藩」だ。上からと言うより、市場経済、自由市場で、尾張は、「勝てる」。 (その後の名古屋の発展は、独立の県民性である。此れが言いたい為、これを書く)。
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聞きたい事は、まだまだ有った。灘目と大阪と江戸の三角の図が、有った。要点は、 灘目と江戸の線が有るかどうかで、ある。これを考えるのに重要な事に気がつく。 「灘目と大阪」の移動方法である。陸路か、海路か、である。近いので、陸路も考えられるが、 海路なら、だれがやったか、大阪に下ろさず、「着いた、蔵入れした」と帳簿上そうすれば 楽であり、「尾張回船が入れる」。そこが、ミソだ。
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聞きたい事はまだある。
船の図がある。此れは、何時書かれたかである。帆である、前に小さい帆がある。 船の改造の問題である、一枚帆が原則の時代である。
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もう一ッ、聞きたい。これは、愚問をした続きである。
「美人?花柳はるみ」である。美人であるが、まあまあである。問題は、男である。
少し「女」を振り返り考える。江戸町民の女は、「女不足」気味で、相当自由であるらしい。 明治になる。徳川から、天皇制にかわり、儒教は却って厳重に変わった。 男は、益々「忠臣」を求められ、日露戦争が終わる。
1904年(明治37年)2月8日 - 1905年( 明治38年)9月5日)
「忠臣」は重い、忠孝はどうか、「それからの女である、花柳はるみ」はどういう教育を受けたか?
大正から昭和五年頃迄のイデオロギーが空白に見える。昭和十年には、再度、「忠臣」がおもくなる。 男は、その前に「忠臣」が重いから、女が「太陽」にする。
芸術家も、金持ちも「忠臣」より「太陽」を求めたと・・
私は、そう質問すべきだった。

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