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-----no.5023---2011/11/07---
最近、迷っている。
金吾だ。
調べて分からん。
きっかけは、
南知多郷土史「みなみ」73号。

こうある・・・
「一、信長のいくさ」に 「信長こそ主軍で、信元は客軍であった」
戦国時代とは、大きい勢力の間に
小さな領主が居り、どちらかに付く。
これが、戦国時代だ。
此処で大きい勢力とは、義元と信長である、
小さな領主とは、緒川城である。
敢えて、「水野」と言うに留める。

さて、信長で有るが、六年後の桶狭間がある。
この戦いを明治陸軍が奇襲と言うが、それはもう殆ど訂正された。
つまり、信長が先陣を自身で率いたから勝てたと。
そういう男だ、信長は。
だから、誰の為に来たと言う問題は小さい。

村木砦は義元が作る。
信長は、静観。
だが信元にしろ、忠分にしろ、気が気でない。
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「金吾」はどちらかとしても、多分決定的な史料は出て来ないだろう。
只、金吾は唐名で衛門府だという説は面白い。
刈谷と緒川が信長側で、城主が一人づつだと、
刈谷に信元、緒川に忠分となるのか。
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衛門府で、調べると、図が出てきた、
だが、これははるか平安時代の昔の話で、
「金吾」で引くと、小早川秀秋がでてくる。
そういえば、滋賀の小谷城にも、金吾丸が、有ったが、あれは誰か・・忘れた。
いずれにしても、史料は少ない。
もう、小説の世界かもしれない。
だが、面白い。結論を急ぐ事は無い。
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しつこい様だが、村木砦の位置を載せる。
境川の制海権は、義元側にあったのか、
ないとしても義元は、それを狙っているといえる。
義元が南から北へ攻めるなら、亀崎辺でも良いと思う。
猿渡川を下るとやはり、村木辺が良いかも。

信長のこの頃は、対外戦と言うより、尾張統一戦が主体である。
そんな彼は、自分で戦うのが、基本である。
信長自身が嗣子であったとは、確定出来ない。
人を頼るより、自分で勝てるものなら、自分で戦うと言う、意識だろう。

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