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-----no.5138---2011/11/23---
最近調べていた事をまとめる。
先日、知多市歴史館で、東龍寺宝物を見て以来の事。
東龍寺と信長探しである。
上の画像だが、(小さく申し訳無い)。
於大が納めた、家康幼少の像。
真贋決定は、今はまだ早い。
多くの人の意見を聞きたい。
右隣は、当龍寺本堂を開けて、
いただいてきたパンフ。
つまり、浄土宗。
徳川の宗派。
それ以上、特に意味は無い。が、
今年三月頃の物で、その後、余り活動が見えない。

今問題にしているのは、下のA、B、C、Dだ。
これ、東龍寺誌である。
コピーだ。
図書館で借りた本もそろそろ返そう。
必要なら又借りれば良い。
繰り返すが、大野は近い。

Cだが、神君家康は伊賀越後、此処で三泊したと言う記事。
真贋決定は、別として、そういう伝えが寺に有ると言う事。 それは、それなりの、物が残るから、そう考えて妥当である。家康幼少の像もあるし。

この資料は、永禄三年と、天正十年の資料だ。
つまり、「桶廻間」と「本能寺」である。
この二事件が、私としても、勿論だが、多くの歴史好きも、気になる所である。
私自身、まとまらないが、
信長を考える時、大野をどう扱ったか、考えると大きい。
信長の出発が「桶廻間」とする。この時、知多をどう考えたか、。 信長は、武将である。只、尾張兵は弱い、其の武将だ。
とすると、裏で、商人である、桶狭間は、清須からだが、 鳴海、大高、この辺、城だが、又、港だろう。そうかんがえながら、大野を見る。 (信長時代は、家来の大きさの比較は「貫」であるが、家康は「石」にした。 これは国家を、商人から、農民に変えた。)
大野を港と考え、其処に商人を置く、反面武士の顔を持つものを。 ここで、「戸田孫七郎」が出てくる。本貫は、渥美かもしれないが、大野に進出する。 初めは、武力で来ない、商人として来る。儲かる。儲けを領主が取ろうとする時、 商人は、武士になる。武力で、商いを守る。
此処に「東龍寺が絡む」。そう、考えるべきだろう。

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