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-----no.5391---2011/12/21---
--2011/12月21日(水)深夜
今日は名古屋行き。
昼前に出る。
名古屋は避けて居た訳では無い。
故郷は遠くに有て思うもの。
的な感傷がある。
名古屋の姉と2人ずれ。
名古屋は広い。
今回、覚王山辺。
発展しているのは、勿論知っている。
何度も通る。
だが、歴史的には田舎である。
小学生時代、この辺、松が生え、赤土が露出している感じである。
それは、地下鉄が無い、
市電の時代のイメージだ。

まず、桃巌禪寺(とうがんぜんじ)
今年の夏頃知った。
名古屋市自体がPRしている様だ。
調べると以下だ。
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桃巌寺2010年9月16日ページの概要:桃巌寺の紹介
桃巌寺(とうがんじ)
.織田信秀の菩提寺として二男信行が建立した。
本尊は聖観世音菩薩。守護神は弁天像である。
中でも「ねむり弁天」は有名である。
本堂には直径1mという日本一大きな木魚がある。
境内には、信秀の墓と座高10mの青銅製の名古屋大仏や
珍しい四方竹などがある。
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城山八幡宮の西南に位置する揚輝荘の敷地南端に面した 一角(かつての桃巖寺領)に、信秀の墓石と三基の五輪塔があった。
墓石は信秀250回忌の寛政13年(1801年)に再建されたもので、 信秀と信行に加えて柴田勝家の名も記されていた。
昭和26年(1951年)、信秀没後400年にあたって桃巌寺境内に移された。
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場所を見る気で来たが、昭和の移築だ。 上記を、日泰寺近くが、(松坂屋)別荘などで、手狭になり、此処に移したと読んだ。 つまり、こちらは、山林だった。
起点はやはり、城山八幡宮である。有名な事だが、末森城である。信長親、信秀が津島辺から東を狙う。 信秀子、信長に兄弟、織田信行、家臣柴田勝家が、此処に絡む。
つまり、信秀と信行、柴田勝家を信長が責めたと言える。
此処で、大須万松寺が、絡む。つまり、「信長公記」の信秀葬儀である。此れをそのまま読むかどうか。 「うつけ」信長を演出する、が、余りにもこれが、文学的、つまり小説として面白い。
この事件、柴田勝家が知っている。これから、相当生きる。信長よりまだ生きる。それが、北乃庄で消えた。 其処に、何か残って居ないか??。
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ねむり弁天があると書いて有ったが、拝観1千円と張り紙が有り、遠慮した。
四方竹と書いてあるが、よく解らん。直径十五センチ程の立派な竹は目立。孟宗竹か?。
その他は省略する。只、墓に、「近衛兵・・日露戦」とかがある。ほかに、個人の墓もある。 墓は西入口付近以外、東奥は、最近の物らしい。

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