-----no.5394---2011/12/21---
--2011/12月22日(木)夜
古文書を取り敢えず今までをマトメタ。以下だ。
------------d2011三の山巡.mem-----------------
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三の山巡
白山登上
三山といへば 白山、立山、富士山の事也
加賀の白山、越中立山、駿河の富士、此三ッの
山を巡たく、年頃日頃、望むといへとも、仕官の
身なれば、伊勢、秋葉の外ハ願ふ事も成
りがたくて、打ち巡しか、天の恵ミや有ヶん、時節到来
志テよき友いできて、今年文政六癸未年
入湯御暇の願、済て、当時の役所、水野の里を
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六月六日未明に立出、此日ハ天気もよく、ゆる
やかに歩行し。中水野地内、嶺ヶ寺の山を
打越、日出る頃、玉のの川を渡る。玉野村。外ノ原村。
西尾村、是を内津、北小木と行べきを山越
の方、近きと聞しまま西尾地内、白川口より左手ノ
山へ登り、丹羽郡羽黒山え懸り、北東さして
行くと、半道余にして、同所字ハッソウという所に
成瀬候の山守小吏の居家弐軒有、前を少し
東へ行バ、小流有、是、尾濃の境也という、是より
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東小木村の地内也、同郡同村内津街道の
左右に有ゆえ、此村に北の字を添て、北小木村といふ
事、通用也、小木と斗ハ三之倉続きの尾州
領の小木の事也、此所より、小き坂一ッ越れば
小木の郷也、此村ハ内津西尾の間タより真北に当るなれば西尾の
山を越る方、近かるへきにこの道も、余程西へ張出して
廻り込めバ、内津奥の院の道より行も
大体同じ道のりなるべし 小木ハ御旗本林賢次郎殿
知行所にて、根本、大原、塩、エギラ、皆同じ知行所
のよし、此所より太田駅へ三里という姫へ懸るハ
本道也、矢廻間へ懸れバ暫く近き由なれども
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山道にて知がたしと言いしまま姫へかかり半道
ほど北へ行ハ峠有、此峠打越せバ打開きたる
在所にて姫も此谷間の内也、今村又半道程
北え行、根本、大原より、今渡への往還也、少し西へ
行、姫村也、此姫ハ親村にて本名下切村なり
姫とハ、下切、今村、大藪、大針、塩河、此五ヶ村乃
惣名也、姫の郷、姫の庄などにも
あらんこと問へど其訳不分、暫く行て久々利川
を越、又、蠏川を越也、此所川出会也、出会の上を
下田尻といふ、久々利川ハ砂川、蠏川ハ底一面に白子(ね)ば也
久々利川の北山ハ 、南山ハ赤土也、此辺より
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大田へハ大体
戌亥さすと覚、舟岡村。徳野村を過て。今渡村
渡場少し東、人家の間へ出ん、太田川渡舟賃二十
四文つつ
を越二丁程行ケバ、右手に一軒家有、又三丁程
行て、又一ッ家有、此軒下タより北へ入、高沢道也
是ハ間道にて少シ近し本道ハ太田宿を西へ
行(いき)越(こし)て行よし、此間道より東蜂屋村を通り
加治田へ出しが、松生或ハ田畑にて知にくき道也
蜂屋村を通りし頃、夕日かがやき口の乾く事、頻り
なれば、茶菓子に枝柿一ッ給行んと尋ねしに
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去年、柿、払底にて、至て乏しくて、ソコココえ
行カバ、持合せもあらんと、云しまま、道端の柿師と
見へて、柿釣すべき小屋など有、家へ入尋しに
御上りの下残、三ッ有とて、是を出す、去年ハ
至て、柿乏しく、青柿にても一ッ三十文ツツ
せしよしにて、中々高料也、など其外、柿乃事
に付、種々の自慢を云ふ人、其内に汗を休め
扨、柿の代を問へは、高料の品なれ共、御用の柿壱ッ
御年貢米一升ツツ也
只、三ッ迄に付、振舞共苦しかるまじ、壱ッ
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二十四文ツツ二致すへきよし、一ッたべ、此家を立出
是より・加治田え懸り、同所片町吉野屋卯兵衛
所に宿る、此所に清水寺とて、京の清水の
写しのよし、景色能(よし)寺なり由に付、詣でたり
二王門杯(など)在、暫く登りて上二小院有、観音堂の
左手に滝も有、境内桜楓なども有て、花紅葉
の頃ハよろしかるべし、此村は、御旗本大島
隼人殿知行所のよし、水野より加治田迄拾里
よりハ遠く覚ゆ、加治田ハ酒のよき所と云々
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七日晴、朝の間、少し雲出、宿を出、町裏に巾
三四間斗の川有、此東堤を丑寅さして登る
事、七八町にして、伊深村、此戌亥隅より山へ懸四五丁
行、峠に茶屋弐軒有、是より高沢迄、壱里半
といふ、北へ半道程下りて、神野村、此郷中に
津保川有、是を越に石に水垢有て、すべる水を
クルフシを過る有る也、是より高沢へ 亥子をさして行
壱里に近し、山坂を越て下り観音の門前也
家五六軒有、高沢とハ、地名にて下の保村の地内也、太田にて言
高沢にてハ泊りなるかたきよし(と)いへども不自由さへ
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不厭ハヅ御番の居家にて泊り出来るよし
春ハ境内に茶屋懸して売物も有よし 是より観音え
二丁程有よし少し上りて二王門有古体の
造り也、絵天井ハ文化の年号也、是より壱丁程
登りて、観音堂懸作り也、 京清水を写せし
物とぞ、石檀三十階梯二十登りて、室前の堂
南向龍峯寺二十五番坊二ヶ
寺あり
者流々々と尋ねて登塁 高沢乃
三祢のあるじも法の声哉
と、室前に額有、御堂の後ロハ厳壁にて小き
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洞有て、五輪石仏等有、冷水湧出る堂の左に
籠堂有、長五間巾二間
畳弐拾畳敷也 近郷より雨乞とて三四十人も
来り、千渡参りするとて、此堂より壱町程まへ
薬師堂え此観音堂と、あちこち廻りて、銘々
度の数取りに木の枝を持、一度参りてハ一葉(ok)つつ
ちぎり置て通ふ事也、観音堂、薬師堂との
間に二重の塔有、薬師堂の西に寺も有と
見へて鐘楼様見ゆ、須原へハ籠宮の左りより
登る上有知へハ二里
有テ西にあたる須原へ戌亥さして登る、此山道二
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三十三所の観音壱町毎に立てり、是ハ山打越て
あらたなる上有知
の枝郷樋ヶ洞西の坂口を一番として
高沢観音迄三十三番を一丁毎二同当に立る也、籠堂より十町堂(
字はこれですが、読み仮名は「ほどは)行
楢投山巳二当富士本宮 午未二当、籠堂十三町
登りて、下り六町にて往還上有知より津保金山への道是也
標石有、右ハ津保金山道左りハ
高沢へ十八
町とあり 是を西へツマ下り七八町行、樋ヶ洞の入口
此所より右手二細き道有、流に添行、須原えハ
壱里二遠しと言、樋ヶ洞より上有知へハ
壱里二近しと云 郡上八幡え
八里也、右入口、流に添、三拾町も来つらんと覚
しきに、左に西江、土橋有、是ハ保木脇村、河合村
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猶奥筋より上有地への往還のよし、此橋を
左に見て、少し行ヶバ、郡上川也、此川に添、東へ五
六町も行、此間、日陰にて
至て冷キ所也
郡上川にてもいうを 是より又北えゆく事
四五町にして保木脇村也郡上川にて手いなを
持鮎をとるを見、此辺の畑桑梶茶第一にして
作物ハ桑楮の間ダ、間ダに作り有、須原ハ河西渇
にて河和へ廻れバ、半道も廻り也、須原の宮川
手前より、舟を呼ハ、須原の舟にて、渡し呉る由
河和へ廻れバ、舟賃三文
須原ハ舟賃十二文と云 保木紹郷の端シ寺の前より
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左へ田面中を川端へ出レバ、上手の方ニ須原宮
見ゆ、此所の川向、須原の御山の由にて桧雑木
立にして、苗木の城山を川東より見るに似たり
此川端、少登り舟を呼ハ渡呉也、川端に鳥居
有門ハ、熱田宿の御門に似たり、本宮左右に三棟有
拝殿、其外、都て桧ハた葺神前、正一位白山
大神と有、都ての造作手をこめてコウコウたり、
宮の左ハ、社家数軒あり、菅葺の屋根なれ共
皆立派也、神殿の絵馬、貞享、元禄等にて夫より
-----p09a----------------------------済み
古ハなし、寛延年、郡上城主より上り神馬の
絵馬有、本社並門の箱棟にハ、弐ッ巴を付たり
門に戸なし、門の右手に小き石のそり橋あり
熱田二十五梃橋の風也、此橋の所より郡上八幡への
往還有、須原の祭三月十七日、四月八日此日
加賀の白山へ、御出のよし、近辺迄神輿出候由
大に賑々敷祭と云、十月晦日に白山より御帰り
なれハ、此節ハ御留守なりと云、是迄尾州領
なれども是より郡上郡にて、加賀白山御境内
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と云、是より郡上郡、木尾、半在、根村此所に八幡
城下より五里の
棒杭有、是より先、壱里毎に棒杭有、先年飛騨ノ国、中山七里と云
所通りしに一里毎にありありと棒杭有、連の人、語りて云此棒杭ハ
先年金森城主の頃に立置れし也、当主宝暦年国替ニテ八幡へ
来たれしか、今以金森殿成置れしまま里数の杭有と云、サスレバ
飛騨も金盛領分なりし故
高山よりの里数杭立しと見ゆ、下田村にて郡上川を東へ越
舟ちん
四文ツツ 須原より壱里といへとも一里半余も有らんと覚ュ
福野、下刈安、上刈安、武儀郡牧谷と郡上境にフクベヶ嶽とて
高山有、名古屋より見る恵那山の形也雪の
早く懸る山也、此裏山を四月
刈安より見るに雪のこりており、三日市、相戸村 友四郎と云
者に宿る、木尾村ニ郡上郡三り杭有りすべて
郡上郡の内ハ夏日蚊帳なし 、此辺鮎の
名物のよしにて、漁人鮎を取て来りしを
------------p10a-------
友四郎買取一番鮎を酢にして食せしに
風味至てよし、此辺の鮎ハ、首小り、腹広く丸く
丈ヶ短く覚ゆ、夕飯のさいに焼鮎を呉、又夜に
入て、又、塩焼を好て喰、三度製し方の違ひし
右の風味格別にありし、城下の入口の辺に
梁有て、鮎を取事夥し、夜中雨の音頻り也
七ッ頃と覚しき頃、目覚しに、糸引の哥唱ふ
聲して、賑なれバ、夜明るを待て、起出しに
小雨降ッて不止
---p10b-八日--------------
八日雨糸引ハ一粋、まゆ五合として、一鍋に五合入也
湯くぉぬるまして、まゆを入かき廻す内に湯も
煮る枠を水にて濡し糸引也、糸引は子供の
つぎ(ひらがな)枕程の物尻に敷左の膝を立左の手の
平を左の膝の上に置、指にかけ様、左のごとし
枠にウツス方
まゆ口下ヨリ ヒキテ上ヱトル
シけ(あら糸)ヲカケル木 ワク
一ヘン毎ニ湯ヲカヘル ナベ ブツ付 ココニブツケル
クド
-------------p011a------------
木を立、上ニ板ノ丸キ打、其上ニカサヲノセ置、
マユノヒキカラヲスクヒテノセ置也
カサ 又、マユヲ分テノセ置
鍋の内湯玉かへレバ、水をさす竹の箸にてかき
廻す、水野辺にてハ桑の枝ナラテハ
糸口出らすといへとも左にあらざる也、初にかき廻す節の
口を取、是を大フツッケと云、二三尺も長き手ガラ
に似たる物”一シケ”トハ’ロ’の出さるを云、ソロといふは
枠木ニかける也、初にかき廻す時も打ち水を入
一引終て、又枠ノ糸を水にてぬらす也
宿立出る頃、小雨降、此辺、茶所にて茶の頃ハ
物貰いに茶をやる、茶ハ四月の内、古葉共に
-----p011b-----
摘、サナにてむし、飛騨へ送り、夫より越中へ送る
といふ・梅原、名津佐、東乙ッ原、此辺蚋多きに
よつて 如斯なる物を作りて
腰にさける、上ハ竹の皮
又ハ、ホウの木の葉に包ミ、中ハ稗ノ穂のタタキカラ
又ハ、古筵ニ火を付、いぶす、蚋ハ煙りを嫌ふゆへなり
多ばこ火にも用ゆ、たばこ入はケヤキにて
作るホクチ入ハ角にて作る、ホクチハ麻カラを焼て
作る、又、栗の木ニ出る、猿の腰ヶけを焼て、ホクチニする由
-------p012a---------
ヒモ タバコ入 ホクチ入
此辺ハ、大かたフトキ麻を着る、立ツケかモモ引か
分らぬ物をはく、カルサン
ナラン 麻も有、藤の皮を織たるも
あり、所謂、藤の衣也、藤の皮にて織と云、東乙原
入口に八幡より二里の棒杭あり、此辺大がい、北西へ行
千虎村入口、右手にホウデンの瀧とて、七八間も
上より落る瀧有、道端にて下ニ不動の小社有
甚、景(とる)能所にて、是迄の内、目覚しき処也
-------p012b---
此所の前に 音羽の瀧や、養老にまけす
おとらぬ宝殿の瀧とうたふよし、此所より少し
行ヶハ、右ハ岩壁、左ハ深二十間余もあらん切崖にて
狭き曲り角なれハ、五六寸角の木を以、拾三四間
の間、高三尺余の手擦りを付たり、其余危キ所ニハ
大材を投渡し、人馬の怪我なき為の手当とす
此辺、楓なども多く見へて秋通らハ、詠多からん
此所に、ホラ貝草の黄咲有、春秋ならハ珍敷
花も有べけれども夏の末なれハ、目にとまる物も
--------p13a--------------
なし、花咲ものハ、合歓斗にて常ハ美しきと
思ふ花なれど先キの赤きに日の照称ふて殊に
あつき心地して、見ゆるもうし、郡上郡の内へ入
てハ、欅大栃等の大樹多く、道端に豆蔦、岩たばこ
天文字草、孔雀草、カタクリ草等、大体間なく
有也、此辺の村々の出口に村名を記して、立棒杭
有て、よくしれて、道はかの便りとなる、この辺のかぶり
傘、檜傘の六角也、是ハ、檜の根を薄くへぎ、あじろ
あみて、作りたるもの也、八幡城下より三里程奥
--------p013b-------------
往還より左手
一リ程山江入 ヲチべ村の産のよし、此辺平家の
落?先也候云 一蓋
五六拾文よりよきハ弐匁程も有と云、おちべ傘といふ
穀見村、中野村辺より、雨晴て、雨具をおさむ、中野村
にて、麦のから先をもやして、野にも捨、川のも流シ
居るゆへ、農夫に問へば、此辺にてハ、麦ハ皆、穂首
よりもやしてこなせば、大に早しと云う、麦からハ用に
取立、屋根ハ山萱にて葺ゆへ、麦から入用になし
とぞ、扨、此辺ハ、瓶類ハ、一向なく都て、桶にて、中野村
より、田面の肥溜、皆桶にて一ッに屋根葺きたり
----------------p014a--------
八幡の城ハ山城にて、四万八千石青山大善亮領也
城下の見付西向へ入町口丑寅向、新町といふ一町半も
あらん、行当塩屋町左白山、道なり、城下を見んと、右へ廻り
見物す、町中ハなへて糸引也、真綿を作る所を見ゆ
是ハ二ッ三ッ一諸に作りたるまゆを撰出、わたにする
事也、わら灰のあくにて煮る也、灰汁ハ至て
強かよく、砂越にて清水の如し、藁の灰汁なれハ
不出来也、まゆにあくをしたしたに入、煮加減ハ、ツマミ
見るにヌメ〃する内ハ、不煮也、ハシカユリ成たる時
-------p014b-----
よしと云、素人にてハ一ッ取、水へ入て見、まゆ形の
有内は不煮也、グシヤリとしたる頃あげるなり
綿に、作る事ハ、水へ入、まゆを割て、中指より末三本
の指に懸、まゆの裏を外出し虫並糞を悉く
洗取、まゆの薄厚によりて、四ッも五ッも同様に
重子ル也、水よくシホりて、其後、板にて、三枚ツツ重ね
つぎに包ミ、能しぼり干也、よくしぼらされハ、白く
ならぬよし、巾八寸、長壱尺五寸という物なれと長ハ
壱尺二三寸斗也、と云、是を二ッに折、ひもにかけ
-------p015a------------
乾かせる也、まゆむくハ、口よりむく、横よりむきても宜
しきよしなれとも、口の薄き方よりむく方よしとす
ワたむきハ一向なき様にて、此城下にも四五人なら
テハなく、在々にハ、一村に壱人位ならてハなきよし
如斯、’フゴ’ヲ’ゴザと’云、ナラの木、又ハ
竹にても作る、色々の物を入、背負
ありく也、茄子様も入売歩行を見る
折角行き参れといふ事をタメラウと云、オタメライ、
ナサレテ行カッシヤレと云、ケガナク大事に行ヶと云事也
---------p015b---
城下町中に大橋有、長三十間もあらん、郡上川なり
此名、聞洩しつ、夫より大手先様見物して、本町鍛冶
屋町、職人町、大手先横丁を南へぬけコクラ川の
橋を越、尾崎町江出、此処肴屋有、鱧勝れて風味
よし、皮和らかにして、モチモチとして大也、コタラ谷より
出るを、殊によしとす、又、あまごと云魚、賞玩なり、
其色并フますに似て身の白し、骨至て和らか
にて、老人歯なく、又、子供食して骨立事なし
上有知辺にあるよりハ、大にして鮎よりハはるか賞
-----p16a-------
味す、此尾崎町を四五町行ケバ、西より巾ノ七八十間も
あらんすか川流ル、城下大橋の川と一ッに成、是より
下、郡上川と云、西の方より来る川ハ上ノ保川といふ
大体亥をさして行、五町村、北瀬古村ニ一里の棒杭有、
河部村出離に二里の杭有、クルス川、土橋徳永村
大豆川橋有、鶴来村、此辺の屋根、皆図の如く、鰹木
のようなるさま也 、勾配至て急也、雪のたまらぬ
為也、中津屋村の出離三里の杭有、大島村屋根に
押木なし、オンドリ也、山萱葺にて、其ダダクサ
-------p16b-----------
なる事限なし、大風の跡なりとも、かかる埒もなきハ
尾州辺の在中にハなし、又、川有、クロゴ川、尺四五寸の
材木を四本双へ、石の中嶋有て、又材木並べし橋也
前のクルス大豆、此クロゴ共、皆石川にて巾弐拾間程
づつもあらん、是を越、為実村、五六町行、白鳥村、是ハ
町並にて、八幡より是迄の村立也、左手に佐二郎後家
とて(やはない)福家有、先年、八幡町中へ用金三百弐拾両
当りし時、此佐二郎ハ六百両出せし時にて此領分の
福家と云、此家十年程已前(以前と同じ)、飛騨の大工の建し由
----------p017a---------------
宿並の本陣体の家也、表にトツナキ有て、御成
門も有、表がは、五六尺ニハ、節一ッなく京大阪にも
有ましきやうに所にてハ、いへとも熱田赤本陣よりハ
小く覚ゆ、勝手より裏迄も入て見しに、随分富家
とも見ゆれとも、其所の分現者にて他にくらぶへき
物にあらず、先六百両の調達を日本一のやうに咄すにて
知へし、此村ハ都て、板葺にて、板押迄も竹ハなく
皆木也、寒国にハ竹ハ
生たらぬ物也、此村の瀬之上、新兵衛にやとるに
庭に小便所有と云しまま、尋るに、不見、能みらバ
-------p017b---
大成桶(だいなるおけ)を埋、上に、木を渡し少し口を明ケわら
宛有しを、漸く見付て、是にすル。所にて色々
替り物也、焼物類ハ更になし、紺屋斗ハ瓶に
あると云、竹も雪にて不立、たまさかの藪ハ雪降
前に拾本二十本程つつ一ツに縄にて包置とぞ
雪国にハ巻竹と云事有、此事か、是迄八幡より
五里といふ
九日朝曇四ツ頃(午前10時)より晴、白鳥を立出、郡上川西へ
打越、二日町村、長瀧村、此処に長瀧寺と云寺有
---------p018a----------
此辺の大地(主はない)也、奈良の都の時の鬼門除の寺也し
とぞ、門前に下馬杭あり、是より三町も行、大門也
両側に寺家有、大門を入ハ、向に拝殿長十四間
巾八間 本社
白山権現也、社箱棟に鷹の羽を付たり、左手に
大コウ堂と云物有、近年建替たる由、古へハ二十間
四面なりしか、今ハ十八間四面也、講堂中壱丈弐尺の
大日左釈迦、右ハ弥陀拝殿に横九尺竪六尺乃
神馬二ツ有一ツハ神馬
一ツハ野馬天正十六年八月三州池鯉鮒
宝泉寺書之と有、是絵馬の作様、戸のやうに
-------p018b---
横にサンを打、竪に板を何枚も双へたる物也、今の様、上を
山形なりにせす
又三尺ニ弐尺斗の古き絵馬二ツ有、年号不見、神馬
にて是も至て古体にてフチハ別になく墨にて塗(てはない)
たるまま也、古法眼ともいふへき体の絵也、拝殿の
隅に光仁天皇御寄付のよし、釈迦普賢文殊の
三佛を安置す大コウ堂の南に経蔵有、此経立
庵より渡しまま虫も不食寒国
ゆへか 唐の世の一切経にて
聖武天皇御寄付のよし也、今日本にて往古
渡し経の全きハ此寺斗也とぞ、扨、鐘楼堂至て
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--------p019a------------
古体にて珍らしき作也、鐘ハ奥州秀衡寄付の由
にて、古き物と見へ、無銘にて年号なし
丈ケ五尺余有、此鐘楼ハ文明ニ
建しよし、堂柱十二本にて
八角ニ建しもの也
此所凹ミテ、ヒクシ
石灯籠有、正安四年と有、高壱丈位也、古代ニハ手をコメ
タル燈籠なり、外にかな(金)燈篭
知多郡より上りし由、年号元応也
--------p019b-----
正安四年より文政六年迄、五百二拾三年になるなり
寺中六坊有由、昔ハ三拾六坊
有しよし 外に門、並、殿堂破壊し
門も堂も立ながら屋根破、壁落、草茫々として
狐狸の住かと成やと、見へて、いたましき体也、往古ハ
天下作事なりし由なれ共、今ハ八幡よりの作事にて
大コウ堂も文政元の棟上と云、木材ありて其余に
千金も入しと云、因、外々迄も手入不行届、と見ゆ
此所、越前へハ程近く、至テの辺土也、此辺迄も女ハ
都テ、糸を引、厚キ木の皮にて、箕を作る、何ノ木と
-------p020a---------
問へハ、コウタルミと云、沢クルミ
の事也 八幡の城下にて槻(ケヤキ)の
皮の箕(ミ)も有、近所より出ると云しか、此辺より出るか、此村を
出離、木賊の細き物多く有、此辺、川端に柳を多く
植ゆ、水の防にてもなし、又、葉を肥(こや)しにもする由
二十町余も行くあたり、皆柳にて、珍らし、此先川
東西より落合、東より来るをスミノ川と云、奥にスミ村
有と、西より来る前谷川少し行て手引石あり
右飛(騨)州
左白山 左へ行、前谷村也、此村にて昼也、爰(ここ)に
越前の者、休ミ居、胸に、ムナシメといふものを当居ル
-------p020b------
是をムネにあて穴より着物のエリを引出し
針にて突通し胸のあかぬや(よ)うにしたるもの
真鍮にて作り、針ハ蝶番ひ(ちょうつがい)にした物也、阿弥陀ヶ瀧
村間ヶ池といふも、此村地内にて壱里斗の廻りの由
に付、案内をとり見物す、賃銭百文並外道連とも三人
荷物、被持候付、外に三拾弐文取
半道余、山を登、東へ行、村間ヶ池、是ハ山の上に長さ
四五十間巾三十間もあらんが、くろにハ藻(も)なと生
真中、五六間廻りハ藻なともなく深き様子なり
此池、百日の日照たり共、水減する事なく、いかなる
-----------p021a---------
大雨にも、溢る事なしと也、鍬を入れバ、大に天気
忘ると云、蛇の住たると、近郷言ならハす也、干損の
節ハ、此池へ雨乞懸る由、夫より北へ当、二十丁及も行
阿弥陀ヶ瀧の入口也、此辺の山、所々焼て、作物仕付る也
此節、焼所も有、今、木草を刈倒し、暫くからして
やかんとせしも有、此節、焼分ハ、菜、大根、そばを蒔、
と云、石斗の所も、焼て、あるゆへ、何を蒔といへば
石の間ニハ、菜を蒔に、土斗よりハ却て、よしと云、
此辺、土用に入レバ、大根、蕎麦を蒔と云、扨、阿弥陀
----------p021b-----------
ヶ瀧を見んとて、背丈に越たる木草、踏分、登る事
六七町余、西さして行也、瀧壺の辺、拾間余、四方の
平にて、西と南ハ、岩壁、北ハ山にて、樹木生茂り、岩の
間にも、木草生て、西の方、岩の真中より、瀧落る其
景いわんかたくなく近辺、霧雨にて、寒き事、堪かたし
瀧にうたるる事は、成かたし、瀧壺ハ青ふちにて、深く
側へも寄かたし、着物をぬぎ、片側へも、廻り後ろへ入
裏瀧を見し也、瀧の左手に岩窟、横拾間余、奥行
五六間も有て、石佛あり、瀧の落る高、百間と
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いへども、左にハあらす、三,四十間余にも見ゆ、大山を登り
下りたる目には、都て、小ク見下すゆへ、慥(たしか)には見極め
がたく片側より、つたひ、後へ廻り、瀧を裏より見たるに
景いと面白し、此瀧の山を前山と云、白山の南の
はしの前と云事也、此山より白山の奥の院まで、
山続き、是より白山の山也、さるゆへ遣境、此瀧壺へ
石杯、投込投して、いらふ事あれバ、不時に空
あれてひやう杯降て、田面の害になる事あれば
此前谷村より番所へ、執取りみだりに人を入ざる也
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此瀧、郡上川の始り也、白山ハ加賀といへとも、奥の院
少しかがの地に懸るゆへ、加賀の白山といへとも山ハ
此郡上境より北へ長て、西ハ越前、東ハ越中の境にて
加賀にはあらず、此所より越前道へ山を越行事
近しといへども、中々踏分かたきよしなれば跡へ戻り
前谷村の北の出離へ出る、此瀧の辺、夏雪の花盛り
紅ノホラカイ草杯有、立木にてハ桂、シナ、其外、見馴ぬ
物あり、此村出離に国境の番所有、足軽体の者
壱人、有之、此所に立寄、茶を貰ひ、飲てこれより
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坂を登る峠(美濃、越前)境迄壱里といへども遠く、境
此峠、東西へ続き東ハ飛騨信濃等へすぎたると
覚、左の並ハ日本の地も此辺にて、馬の背中の根ニ
高くなり、両方へ下り辺様に成たる物と見ゆ、或書に
信濃ハ
日本の中にて地面の
最、高き国なりと 尾州より北の端と覚しき高山ハ
此嶺辺りにてやあらん、尾濃案内の者云、北の豊に見
ゆる高山ハ前に見へたるぬくべか
嶽にて此山に支へて越前辺の
山々ハ篤とハ見へなりかたし、此東少し寄り高き山ハ大日ヶ
嶽といふて、二三月頃迄に雪、不消、岐阜などよりよく
見ゆるよし、の山も小松迄も見へて十二三町もあらんと
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覚ゆ、阿弥陀ヶ瀧に道にて、見しに、此山のミ雪
か々りし山なれど、今ハ前ニ云如く、間近く見る
白山も此峠にて、初て見る、雲かかりて不始ハ見へず
扨、南を見、晴れに正敷、ミロク、富士、本宮、小牧の山々
ありありと見ゆ小牧山、巳午、富士本宮巳、是東
弥勒山見ゆる、白山ハ戌亥ニ当レハ、方角も的当
せり、前にいへる、ふすべヶ嶽へ登りたる人の云、ふくべ
ヶ嶽ハ、大日ヶ嶽より、近けれハ、西美濃下笠輪中、尾州の
地ハ猶更好らかに御舟蔵様もよくなりて見へ舟は
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木の葉のことく帆柱なども、河に渡るゆへに箸の
細き如くに見ゆるよし・是より越前へ一里ほど
下りて大野郡石徹白(イシトシロ)村山たばこ多し、是より
白山の麓、社家住居の方迄、八町といへど十四五町にも
覚ゆ、此辺、松絶てなし、田面中、其外、森、林、山共、杉
多し、尤、雑木ハ有、森林、都て杉なり、今宵ハ社人
杉本周防守所ニ宿る、倅を政丸といひて十二才也とそ、
先ツ、宿へ着ケハ直に’コリセヨ’トテ神前の川にて
垢離掻く、其まま湯あみもせずして寝る、朝未明ニ
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起出、又、コリセヨ’と云まま、前夜の如く手水をも
遣ハす、右川にて、コリスル、霧雨降て天気いかがといふに
昨朝も斯のことく、随分宜しからんと云しまま登山
の用意する内、夜明て、見れハ、雨にてハなし、’ナゴノ
内の霧雨也、石などぬれる事なし、郡上郡へ
這入しより日々北に雲有しも此辺、高山ゆへ雲の
絶間なきニとぞ、前夜に案内者を引合置壱人弐朱也
若、雨天等にて、山に幾日逗留しても賃銭に替る事
なしとぞ、朝ハ案内の者宅より弁当持出つれとも
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其後は雇ひなる人より、支度される也、山上にて焚へき
米も、持登るへきの処、当年ははや、山上へ持行て
売由なれハ、夫ニ不及、石徹白の社人ハ、麓の宮の守
斗にて、山上の事ハ越前平泉寺持にて、別山の室、
麓より(六里)本宮の室麓より(八里)平泉寺百姓のよし山ニ詰罷在也
是を強力と云、上石徹白、中徹白、下徹白、小谷堂、
三面(サツラ)、右六ケ村、白山領にて、何程の高を社人、何程ツツ
持居候と申極もなく、社人、百姓先ニ々持伝の高を
作取のよし、社人ハ国々ニ檀家有て、廻檀致す事
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のよし、扨、白山の麓に宮有、此宮の軒下ニ印籠石
と云有、といひしゆへ、さがして一ツ二ツを得、猶、社人拾ひ
えしを、貰ひ来、<>如此也、色ハ赤も黒も有、また
小谷の内、川筋に俵石といふ物有、俵形なる物とぞ
石どしろより、三里程西、折波村川筋へ、何にても入れ
置けバ、石に成とぞ、黒百合、雪鳥の事ハ、熱田大宮司へ
此社人より図を遣せし事有と云、黒百合も今、盛
ならんと云、国元にて聞しに、白山ハ六月土用に入たれハ
登山成かたき由、又、途中の咄ニハ六月朔日、道切
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--end of d2011.mem----------