-----no.5655---2012/--01月15日(日、午後)
昨日午後、空白時間が出来た。
で、吉良へ行く。
午前は、お客が有ったが、
是以上は言わない。
事前資料は以下だ。
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姫山陣屋 (ひめやまじんや)
■所在地:愛知県幡豆郡吉良町大字乙川字孫三
■形式:陣屋 ■築城年:慶長年間 
■築城者:吉良義定 ■遺構:説明板・石垣
近世吉良氏2代目・義定が饗庭・小山田・乙川・鳥羽の4ヶ村を支配するため慶長年間に設けられる。
乙川に隣接する富好新田は、元禄元年(1688年)に忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の命を 受けた姫山陣屋の代官たちが開発を推進した。
また、新田では製塩も行われ饗庭塩として江戸や信州方面に輸出された。
吉良氏に仕えていた斎藤氏と渡辺氏の子孫は現在もこの地に健在だが、
訪れた際に斎藤氏の子孫の方に会って話を伺って見た所、元禄事件による吉良氏の没落などで色んな資料が
失われた影響で陣屋に関する歴史は良く分からないと言っていた。
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小牧陣屋 (こまきじんや)
■所在地:愛知県幡豆郡吉良町大字小牧字郷中
■形式:陣屋 ■築城年:1561年 ■築城者:松平元康 
遺構:碑・説明板・門
松平元康(徳川家康)が東条城の吉良義昭を攻めた際に本陣を構えたことから始まる。
小牧砦(小牧陣屋)に本多広孝、津平砦に酒井忠次、糟塚砦に 小笠原長茲をそれぞれ配して東条城を落城させることに成功する。
江戸時代になると大河内氏の所領の一つとなり、代官役所として明治維新を迎えた。
---------陣屋址 移築現存門と伝わる門
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始めの写真が、衣浦大橋で、14時22分、帰りの写真も衣浦大橋で、16時24分、 まあ、吉良は、実質一時間強になろう。
帰り、碧南の陣屋も寄ろうか考えたが、 寒そうだし、いつでも行けそうで止め。
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姫山陣屋は山裾で、小牧陣屋は田んぼの中の集落である。
概念としては逆。戦国時代が、平野で、江戸時代が山裾となる。
又、姫山陣屋は看板と石碑があるだけだが、小牧陣屋は小公園てきである。
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行程を言う。先ず花蔵寺前の駐車場に行った。此処で、住所をカーナビに入れた。
吉良町大字乙川字孫三
此処に来てから、目印に何か無いかと探す。山裾は見当が付く。 直ぐ見つかる。農家地区だから、整理、掃除等は、無い。
陣屋跡も、観光でも利用価値は余り無い様だ。だが、立派な石碑がある。裏は藪があり、見るのは、 諦める。何もないのかも。平地があるが、物置的で、私有地かも。わかるのは、その広さだけ。
陣屋でも、此処には「倉」は不要だろう、眼下の農地がよく見える。それが、目的だろう。 百姓が平穏に農作業をしているのを「武士」が、見れれば良いのだろう。
今は名鉄が、走るのが見える。平和である。(が、今日は寒い、みんな、家の中か)
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次、ナビ同リに「小牧陣屋」ここは村の中、ひょっとすると、慶長の頃から、路は変更してないかもしれない。 車がやっとの路である。車の為、少しは広げたろうが。基本的にそのままかも。
散歩コースになっている。東条城から南へ二キロ無いと思える。1561年は永禄4年である。 家康の戦法を考える一つとなる。平野の中である。後の大阪の陣の城責めも、これらのまとめである。
ここは、七十以上の人には、人生劇場の青春扁、「郷村を去る」の寺として、宝泉寺の方が、知られているかも。 私は、尾崎士郎を読んでいない。
東条城には、寄らずに帰る。西尾市街も行かない。でも、東浦は近いと感じた。

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