-----no.5806---2012/--01月27日(金、昼)
資料を頂いたので、メモとして残す
5枚10頁だ。半田亀崎の歴史らしい。
以前、パソコンの盛んに成る若い時、
お世話になった人も出てきたので、懐かしく・・
資料は、今後まとめられる、原本のようだ。
どの様に、まとまるかは知らない。
まとめないかもしれない
内容は図の様だ。
目を通だけで、これを書く。

以下は無責任な独白だ。
帝国時代が最も華やかな時と思う。
大正時代だ。
日露戦争が、「坂の上の雲」を目指していた坂の上なら、
大正は、登り坂の苦しさは無い。
戦利品として船がある。特務監「関東」と云う。
これが、カムチャッカ辺に行き。
日露友好の感じで過ごす。
さかの上の爽快感がある。
スケートをしたり・・狂言を見たり・・
返り、座礁で、艦の歴史は終わる。
記念誌が「カムチャッカ冬営記念写真帳」と云う。
座礁に関しては、福井県南条郡河野村糠に慰霊碑公園が有ると云う(現、南越前町)

大正年間は、大正天皇時代と云うよりも、
昭和天皇の摂政時代というべきだろう。
記事を探すと以下が読める。
一月五日、摂政宮殿下令旨奉賛
二月一日両殿下から慰問袋、感激
・・・
シベリア出征より、こちらの日露友好の記事のほうが、当時を示すかも

昭和天皇の評価は様々あろう、又、明治天皇の評価は「グレートGreat」でいいとも思う。
それは、時代である。個人は知らない、調べていない。
明治帝の場合、元老辺が個人として出てくるし、時代もそうだ。
この二人を比較する場合、側近も加えてしか、比較出来ないだろう。
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この資料、過去の人だけで無いので、少し躊躇した。
---------調べたら以下だ----------
特務艦関東 堪察加冬営記念写真帖(カムチャッカ)
特務艦関東写真帖委員
途中通報艦 「龍田」 が来たので之が回航護衛の任務を引継いだ。
  此の船は敵の御用船 「マンチュリー号」 にして
駆逐艦の材料其の他兵器を満載し旅順に向け航行中の途中であった。 
是が其の後特務艦 「関東」 (注) と名乗り、
我が帝国の為め忠勤を尽くした功績多い船である。
( 特務艦 「関東」  本家サイト所蔵 『帝国海軍艦船写真帳』 より )
(注) : 特務艦 「関東」 は、日露戦争中は仮装巡洋艦兼工作艦として活躍し、
その後は輸送艦、測量艦、工作艦等として使われましたが、
先に連載しました 『運用漫談』 にも出てきましたとおり、
大正13年12月12日佐世保から舞鶴に向かう途中悪天候のため
福井県の越前糠浦海岸に座礁、船体全損に加え、
死亡・行方不明者計96名という旧海軍事故史上に1頁を記してその最後を迎えました。
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