-----no.5841---2012/--01月28日(土、朝)
亀崎の古文書の「三の山巡」の第一部をまとめてみた。
ミスも多いと思うが、検索には、使えるだろう。

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(p2)三の山巡
    白山登上 
      三山といへば 白山、立山、富士山の事也
加賀の白山、越中立山、駿河の富士、此三ッの山を巡たく、年頃日頃、望むといへとも、
仕官の身なれば、伊勢、秋葉の外ハ願ふ事も成りがたくて、打ち巡しか、
天の恵ミや有ヶん、時節到来志テよき友いできて、
今年文政六癸未年入湯御暇の願、済て、当時の役所、水野の里を
(p03a)
六月六日未明に立出、此日ハ天気もよく、ゆるやかに歩行し,中水野地内、
嶺ヶ寺の山を打越、日出る頃、玉のの川を渡る。玉野村。外ノ原村。
西尾村、是を内津、北小木と行べきを山越の方、近きと聞しまま西尾地内、
白川口より左手ノ山へ登り、丹羽郡羽黒山え懸り、北東さして行くと、
半道余にして、同所字ハッソウという所に成瀬候の山守小吏の居家弐軒有、
前を少し東へ行バ、小流有、是、尾濃の境也という、是より
(p03b)東小木村の地内也、同郡同村内津街道の左右に有ゆえ、此村に北の字を添て、
北小木村といふ事、通用也、小木と斗ハ三之倉続きの尾州領の小木の事也、
此所より、小き坂一ッ越れば小木の郷也、
此村ハ内津西尾の間タより真北に当るなれば西尾の山を越る方、近かるへきにこの道も、
余程西へ張出して廻り込めバ、内津奥の院の道より行も大体同じ道のりなるべし
   小木ハ御旗本林賢次郎殿知行所にて、根本、大原、塩、エギラ、皆同じ知行所のよし、
此所より太田駅へ三里という姫へ懸るハ本道也、矢廻間へ懸れバ暫く近き由なれども
(p04a)山道にて知がたしと言いしまま姫へかかり半道ほど北へ行ハ峠有、
此峠打越せバ打開きたる在所にて姫も此谷間の内也、今村又半道程北え行、
根本、大原より、今渡への往還也、少し西へ行、姫村也、此姫ハ親村にて本名下切村なり
姫とハ、下切、今村、大藪、大針、塩河、此五ヶ村乃惣名也、姫の郷、姫の庄などにも
 あらんこと問へど其訳不分、暫く行て久々利川を越、又、蠏川を越也、此所川出会也、
出会の上を下田尻といふ、久々利川ハ砂川、蠏川ハ底一面に白子(ね)ば也
久々利川の北山ハ 、南山ハ赤土也、此辺より
(p04b)大田へハ大体戌亥さすと覚、舟岡村。徳野村を過て。今渡村渡場少し東、
人家の間へ出ん、太田川渡舟賃二十四文つつ)を越二丁程行ケバ、右手に一軒家有、又三丁程
行て、又一ッ家有、此軒下タより北へ入、高沢道也/是ハ間道にて少シ近し本道ハ太田宿を西へ
行(いき)越(こし)て行よし、此間道より東蜂屋村を通り加治田へ出しが、
松生或ハ田畑にて知にくき道也
蜂屋村を通りし頃、夕日かがやき口の乾く事、頻りなれば、茶菓子に枝柿一ッ給行んと尋ねしに
(p005)去年、柿、払底にて、至て乏しくて、ソコココえ行カバ、持合せもあらんと、
云しまま、道端の柿師と見へて、柿釣すべき小屋など有、家へ入尋しに御上りの下残、
三ッ有とて、是を出す、去年ハ至て、柿乏しく、青柿にても一ッ三十文ツツせしよしにて、
中々高料也、など其外、柿乃事に付、種々の自慢を云ふ人、其内に汗を休め
扨、柿の代を問へは、高料の品なれ共、御用の柿壱ッ御年貢米一升ツツ也)
只、三ッ迄に付、振舞共苦しかるまじ、壱ッ
(p05b)二十四文ツツ二致すへきよし、一ッたべ、此家を立出/是より・加治田え懸り、
同所片町吉野屋卯兵衛所に宿る、此所に清水寺とて、京の清水の写しのよし、
景色能(よし)寺なり由に付、詣でたり二王門杯(など)在、暫く登りて上二小院有、
観音堂の左手に滝も有、境内桜楓なども有て、花紅葉の頃ハよろしかるべし、
此村は、御旗本大島隼人殿知行所のよし、水野より加治田迄拾里よりハ遠く覚ゆ、
加治田ハ酒のよき所と云々
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(p06a)七日晴、朝の間、少し雲出、宿を出、町裏に巾三四間斗の川有、
此東堤を丑寅さして登る事、七八町にして、伊深村、此戌亥隅より山へ懸四五丁行、
峠に茶屋弐軒有、是より高沢迄、壱里半といふ、北へ半道程下りて、神野村、
此郷中に津保川有、是を越に石に水垢有て、すべる水をクルフシを過る有る也、
是より高沢へ 亥子をさして行壱里に近し、山坂を越て下り観音の門前也
家五六軒有、高沢とハ、地名にて下の保村の地内也、太田にて言高沢にてハ泊りなる
かたきよし(と)いへども不自由さへ)
(p06b)不厭ハヅ御番の居家にて泊り出来るよし/春ハ境内に茶屋懸して売物も有よし
是より観音え/二丁程有よし少し上りて二王門有古体の造り也、絵天井ハ文化の年号也、
是より壱丁程登りて、観音堂懸作り也、 京清水を写せし物とぞ、
石檀三十階梯二十登りて、室前の堂南向龍峯寺二十五番坊二ヶ寺あり
者流々々と尋ねて登塁 高沢乃三祢のあるじも法の声哉と、室前に額有、
御堂の後ロハ厳壁にて小き
(p07a)洞有て、五輪石仏等有、冷水湧出る堂の左に籠堂有、長五間巾二間畳弐拾畳敷也
近郷より雨乞とて三四十人も来り、千渡参りするとて、
此堂より壱町程まへ薬師堂え此観音堂と、あちこち廻りて、
銘々度の数取りに木の枝を持、一度参りてハ一葉つつちぎり置て通ふ事也、観音堂、薬師堂との
間に二重の塔有、薬師堂の西に寺も有と見へて鐘楼様見ゆ、須原へハ籠宮の左りより
登る上有知へハ二里有テ西にあたる須原へ戌亥さして登る、此山道二
(p07b)三十三所の観音壱町毎に立てり、是ハ山打越てあらたなる上有知の枝郷樋ヶ洞西の
坂口を一番として高沢観音迄三十三番を一丁毎二同当に立る也、籠堂より十町堂ほどは行
楢投山巳二当富士本宮 午未二当、籠堂十三町登りて、下り六町にて往還上有知より
津保金山への道是也/標石有、右ハ津保金山道左りハ高沢へ十八町とあり
 是を西へツマ下り七八町行、樋ヶ洞の入口此所より右手二細き道有、流に添行、須原えハ
壱里二遠しと言、樋ヶ洞より上有知へハ壱里二近しと云/郡上八幡え八里也、右入口、
流に添、三拾町も来つらんと覚しきに、左に西江、土橋有、是ハ保木脇村、河合村
(p008a)猶奥筋より上有地への往還のよし、此橋を左に見て、少し行ヶバ、郡上川也、
此川に添、東へ五六町も行、此間、日陰にて至て冷キ所也 郡上川にてもいうを
 是より又北えゆく事/四五町にして保木脇村也郡上川にて手いなを持鮎をとるを見、
此辺の畑桑梶茶第一にして作物ハ桑楮の間ダ、間ダに作り有、須原ハ河西渇
にて河和へ廻れバ、半道も廻り也、須原の宮川手前より、舟を呼ハ、須原の舟にて、
渡し呉る由河和へ廻れバ、舟賃三文須原ハ舟賃十二文と云 保木紹郷の端シ寺の前より
(p08b)左へ田面中を川端へ出レバ、上手の方ニ須原宮見ゆ、此所の川向、
須原の御山の由にて桧雑木立にして、苗木の城山を川東より見るに似たり
此川端、少登り舟を呼ハ渡呉也、川端に鳥居有門ハ、熱田宿の御門に似たり、
本宮左右に三棟有/拝殿、其外、都て桧ハた葺神前、正一位白山大神と有、
都ての造作手をこめてコウコウたり、宮の左ハ、社家数軒あり、
菅葺の屋根なれ共皆立派也、神殿の絵馬、貞享、元禄等にて夫より
(p09a)古ハなし、寛延年、郡上城主より上り神馬の絵馬有、本社並門の箱棟にハ、
弐ッ巴を付たり門に戸なし、門の右手に小き石のそり橋あり/熱田二十五梃橋の風也、
此橋の所より郡上八幡への/往還有、須原の祭三月十七日、四月八日此日
加賀の白山へ、御出のよし、近辺迄神輿出候由/大に賑々敷祭と云、
十月晦日に白山より御帰りなれハ、此節ハ御留守なりと云、是迄尾州領
なれども是より郡上郡にて、加賀白山御境内
(p09b)と云、是より郡上郡、木尾、半在、根村此所に八幡/城下より五里の
棒杭有、是より先、壱里毎に棒杭有、先年飛騨ノ国、中山七里と云
所通りしに一里毎にありありと棒杭有、連の人、語りて云此棒杭ハ
先年金森城主の頃に立置れし也、当主宝暦年国替ニテ八幡へ
来たれしか、今以金森殿成置れしまま里数の杭有と云、サスレバ飛騨も金盛領分なりし故
高山よりの里数杭立しと見ゆ、下田村にて郡上川を東へ越/舟ちん四文ツツ
 須原より壱里といへとも一里半余も有らんと覚ュ/福野、下刈安、上刈安、
武儀郡牧谷と郡上境にフクベヶ嶽とて/高山有、名古屋より見る恵那山の形也雪の
早く懸る山也、此裏山を四月刈安より見るに雪のこりており、三日市、相戸村 友四郎と云
者に宿る、木尾村ニ郡上郡三り杭有りすべて郡上郡の内ハ夏日蚊帳なし、此辺鮎の
名物のよしにて、漁人鮎を取て来りしを
(p10a)友四郎買取一番鮎を酢にして食せしに風味至てよし、此辺の鮎ハ、首小り、
腹広く丸く丈ヶ短く覚ゆ、夕飯のさいに焼鮎を呉、又夜に入て、又、塩焼を好て喰、
三度製し方の違ひし右の風味格別にありし、城下の入口の辺に梁有て、鮎を取事夥し、
夜中雨の音頻り也/七ッ頃と覚しき頃、目覚しに、糸引の哥唱ふ/聲して、賑なれバ、
夜明るを待て、起出しに/小雨降ッて不止
(p10b-八日)
八日雨糸引ハ一粋、まゆ五合として、一鍋に五合入也/湯くぉぬるまして、
まゆを入かき廻す内に湯も/煮る枠を水にて濡し糸引也、糸引は子供の
つぎ(ひらがな)枕程の物尻に敷左の膝を立左の手の/平を左の膝の上に置、指にかけ様、
左のごとし/枠にウツス方/まゆ口下ヨリ ヒキテ上ヱトル/シけ(あら糸)ヲカケル木 ワク 
一ヘン毎ニ湯ヲカヘル ナベ ブツ付 ココニブツケル/クド
(p011a)木を立、上ニ板ノ丸キ打、其上ニカサヲノセ置、マユノヒキカラヲスクヒテノセ置也
カサ// 又、マユヲ分テノセ置鍋の内湯玉かへレバ、水をさす竹の箸にてかき
廻す、水野辺にてハ桑の枝ナラテハ糸口出らすといへとも左にあらざる也、
初にかき廻す節の口を取、是を大フツッケと云、二三尺も長き手ガラに似たる物”
一シケ”トハ’ロ’の出さるを云、ソロといふは枠木ニかける也、
初にかき廻す時も打ち水を入一引終て、又枠ノ糸を水にてぬらす也
宿立出る頃、小雨降、此辺、茶所にて茶の頃ハ物貰いに茶をやる、茶ハ四月の内、古葉共に
(p011b)摘、サナにてむし、飛騨へ送り、夫より越中へ送るといふ・梅原、名津佐、
東乙ッ原、此辺蚋多きに//て/如斯なる物を作りて腰にさける、上ハ竹の皮
又ハ、ホウの木の葉に包ミ、中ハ稗ノ穂のタタキカラ又ハ、古筵ニ火を付、いぶす、
蚋ハ煙りを嫌ふゆへなり多ばこ火にも用ゆ、たばこ入はケヤキにて
作るホクチ入ハ角にて作る、ホクチハ麻カラを焼て作る、又、栗の木ニ出る、
猿の腰ヶけを焼て、ホクチニする由
(p012a)ヒモ  タバコ入  ホクチ入/此辺ハ、大かたフトキ麻を着る、立ツケかモモ引か
分らぬ物をはく、カルサン/ナラン  麻も有、藤の皮を織たるも
あり、所謂、藤の衣也、藤の皮にて織と云、東乙原入口に八幡より二里の棒杭あり、
此辺大がい、北西へ行/千虎村入口、右手にホウデンの瀧とて、七八間も
上より落る瀧有、道端にて下ニ不動の小社有/甚、景(とる)能所にて、是迄の内、目覚しき処也
(p012b)此所の前に 音羽の瀧や、養老にまけす/おとらぬ宝殿の瀧とうたふよし、此所より少し
行ヶハ、右ハ岩壁、左ハ深二十間余もあらん切崖にて/狭き曲り角なれハ、五六寸角の木を以、
三四間の間、高三尺余の手擦りを付たり、其余危キ所ニハ大材を投渡し、
人馬の怪我なき為の手当とす此辺、楓なども多く見へて秋通らハ、詠多からん
此所に、ホラ貝草の黄咲有、春秋ならハ珍敷/花も有べけれども夏の末なれハ、目にとまる物も
(p13a)なし、花咲ものハ、合歓斗にて常ハ美しきと思ふ花なれど先キの赤きに日の照称ふて殊に
あつき心地して、見ゆるもうし、郡上郡の内へ入てハ、欅大栃等の大樹多く、道端に豆蔦、
岩たばこ天文字草、孔雀草、カタクリ草等、大体間なく有也、此辺の村々の出口に村名を記して、
立棒杭有て、よくしれて、道はかの便りとなる、この辺のかぶり傘、檜傘の六角也、
是ハ、檜の根を薄くへぎ、あじろあみて、作りたるもの也、八幡城下より三里程奥
(p013b)往還より左手/一リ程山江入 ヲチべ村の産のよし、此辺平家の落?先也候云 一蓋
五六拾文よりよきハ弐匁程も有と云、おちべ傘といふ穀見村、中野村辺より、雨晴て、
雨具をおさむ、中野村にて、麦のから先をもやして、野にも捨、川のも流シ居るゆへ、
農夫に問へば、此辺にてハ、麦ハ皆、穂首よりもやしてこなせば、大に早しと云う、
麦からハ用に取立、屋根ハ山萱にて葺ゆへ、麦から入用になしとぞ、扨、此辺ハ、瓶類ハ、
一向なく都て、桶にて、中野村より、田面の肥溜、皆桶にて一ッに屋根葺きたり
(p014a)八幡の城ハ山城にて、四万八千石青山大善亮領也/城下の見付西向へ入町口丑寅向、
新町といふ一町半もあらん、行当塩屋町左白山、道なり、城下を見んと、右へ廻り
見物す、町中ハなへて糸引也、真綿を作る所を見ゆ/是ハ二ッ三ッ一諸に作りたるまゆを撰出、
わたにする事也、わら灰のあくにて煮る也、灰汁ハ至て強かよく、砂越にて清水の如し、
藁の灰汁なれハ不出来也、まゆにあくをしたしたに入、煮加減ハ、ツマミ
見るにヌメ〃する内ハ、不煮也、ハシカユリ成たる時
(p014b)よしと云、素人にてハ一ッ取、水へ入て見、まゆ形の有内は不煮也、
グシヤリとしたる頃あげるなり綿に、作る事ハ、水へ入、まゆを割て、中指より末三本
の指に懸、まゆの裏を外出し虫並糞を悉く洗取、まゆの薄厚によりて、四ッも五ッも同様に
重子ル也、水よくシホりて、其後、板にて、三枚ツツ重ねつぎに包ミ、能しぼり干也、
よくしぼらされハ、白くならぬよし、巾八寸、長壱尺五寸という物なれと長ハ
壱尺二三寸斗也、と云、是を二ッに折、ひもにかけ
(p015a)乾かせる也、まゆむくハ、口よりむく、横よりむきても宜しきよしなれとも、
口の薄き方よりむく方よしとすワたむきハ一向なき様にて、此城下にも四五人なら
テハなく、在々にハ、一村に壱人位ならてハなきよし 如斯、’フゴ’ヲ’ゴザと’云、
ナラの木、又ハ/竹にても作る、色々の物を入、背負/ありく也、茄子様も入売歩行を見る
折角行き参れといふ事をタメラウと云、オタメライ、ナサレテ行カッシヤレと云、
ケガナク大事に行ヶと云事也
(p015b)城下町中に大橋有、長三十間もあらん、郡上川なり/此名、聞洩しつ、
夫より大手先様見物して、本町鍛冶屋町、職人町、大手先横丁を南へぬけコクラ川の
橋を越、尾崎町江出、此処肴屋有、鱧勝れて風味よし、皮和らかにして、
モチモチとして大也、コタラ谷より出るを、殊によしとす、又、あまごと云魚、
賞玩なり、其色并フますに似て身の白し、骨至て和らかにて、老人歯なく、又、
子供食して骨立事なし/上有知辺にあるよりハ、大にして鮎よりハはるか賞
(p16a)味す、此尾崎町を四五町行ケバ、西より巾ノ七八十間もあらんすか川流ル、
城下大橋の川と一ッに成、是より下、郡上川と云、西の方より来る川ハ上ノ保川といふ
大体亥をさして行、五町村、北瀬古村ニ一里の棒杭有、河部村出離に二里の杭有、
クルス川、土橋徳永村大豆川橋有、鶴来村、此辺の屋根、皆図の如く、鰹木
のようなるさま也 、勾配至て急也、雪のたまらぬ為也、中津屋村の出離三里の杭有、
大島村屋根に押木なし、オンドリ也、山萱葺にて、其ダダクサ
(p16b)なる事限なし、大風の跡なりとも、かかる埒もなきハ尾州辺の在中にハなし、
又、川有、クロゴ川、尺四五寸の材木を四本双へ、石の中嶋有て、又材木並べし橋也
前のクルス大豆、此クロゴ共、皆石川にて巾弐拾間程づつもあらん、是を越、為実村、
五六町行、白鳥村、是ハ町並にて、八幡より是迄の村立也、左手に佐二郎後家
とて福家有、先年、八幡町中へ用金三百弐拾両当りし時、此佐二郎ハ六百両出せし時にて
此領分の福家と云、此家十年程已前、飛騨の大工の建し由
(p017a)宿並の本陣体の家也、表にトツナキ有て、御成門も有、表がは、五六尺ニハ、
節一ッなく京大阪にも有ましきやうに所にてハ、いへとも熱田赤本陣よりハ
小く覚ゆ、勝手より裏迄も入て見しに、随分富家とも見ゆれとも、
其所の分現者にて他にくらぶへき物にあらず、先六百両の調達を日本一のやうに咄すにて
知へし、此村ハ都て、板葺にて、板押迄も竹ハなく皆木也、寒国にハ竹ハ
 生たらぬ物也、此村の瀬之上、新兵衛にやとるに/庭に小便所有と云しまま、
尋るに、不見、能みらバ
(p017b)大成桶(だいなるおけ)を埋、上に、木を渡し少し口を明ケわら
宛有しを、漸く見付て、是にすル。所にて色々替り物也、焼物類ハ更になし、
紺屋斗ハ瓶にあると云、竹も雪にて不立、たまさかの藪ハ雪降前に拾本二十本程つつ
一ツに縄にて包置とぞ雪国にハ巻竹と云事有、此事か、是迄八幡より五里といふ
九日朝曇四ツ頃(午前10時)より晴、白鳥を立出、郡上川西へ打越、二日町村、
長瀧村、此処に長瀧寺と云寺有
(p018a)此辺の大地也、奈良の都の時の鬼門除の寺也しとぞ、門前に下馬杭あり、
是より三町も行、大門也/両側に寺家有、大門を入ハ、向に拝殿長十四間/巾八間 本社
白山権現也、社箱棟に鷹の羽を付たり、左手に大コウ堂と云物有、近年建替たる由、
古へハ二十間四面なりしか、今ハ十八間四面也、講堂中壱丈弐尺の大日左釈迦、
右ハ弥陀拝殿に横九尺竪六尺乃/神馬二ツ有一ツハ神馬/一ツハ野馬天正十六年八月三州池鯉鮒
宝泉寺書之と有、是絵馬の作様、戸のやうに
(p018b)横にサンを打、竪に板を何枚も双へたる物也、今の様、上を/山形なりにせす
又三尺ニ弐尺斗の古き絵馬二ツ有、年号不見、神馬にて是も至て古体にてフチハ
別になく墨にて塗たるまま也、古法眼ともいふへき体の絵也、
拝殿の隅に光仁天皇御寄付のよし、釈迦普賢文殊の三佛を安置す大コウ堂の南に経蔵有、
此経立/庵より渡しまま虫も不食寒国/ゆへか 唐の世の一切経にて
聖武天皇御寄付のよし也、今日本にて往古/渡し経の全きハ此寺斗也とぞ、扨、鐘楼堂至て
(p019a)古体にて珍らしき作也、鐘ハ奥州秀衡寄付の由にて、古き物と見へ、無銘にて年号なし
 丈ケ五尺余有、此鐘楼ハ文明ニ/ 建しよし、堂柱十二本にて/八角ニ建しもの也
 此所凹ミテ、ヒクシ/石灯籠有、正安四年と有、高壱丈位也、古代ニハ手をコメ
タル燈籠なり、外にかな(金)燈篭/知多郡より上りし由、年号元応也
(p019b)正安四年より文政六年迄、五百二拾三年になるなり
寺中六坊有由、昔ハ三拾六坊 / 有しよし  外に門、並、殿堂破壊し
門も堂も立ながら屋根破、壁落、草茫々として/狐狸の住かと成やと、見へて、
いたましき体也、往古ハ/天下作事なりし由なれ共、今ハ八幡よりの作事にて
大コウ堂も文政元の棟上と云、木材ありて其余に/千金も入しと云、因、
外々迄も手入不行届、と見ゆ/此所、越前へハ程近く、至テの辺土也、此辺迄も女ハ
都テ、糸を引、厚キ木の皮にて、箕を作る、何ノ木と
(p020a)問へハ、コウタルミと云、沢クルミの事也 八幡の城下にて槻(ケヤキ)の
皮の箕(ミ)も有、近所より出ると云しか、此辺より出るか、此村を/出離、
木賊の細き物多く有、此辺、川端に柳を多く/植ゆ、水の防にてもなし、
又、葉を肥(こや)しにもする由/二十町余も行くあたり、皆柳にて、珍らし、此先川
東西より落合、東より来るをスミノ川と云、奥にスミ村/有と、
西より来る前谷川少し行て手引石あり/右飛(騨)州/左白山 左へ行、前谷村也、
此村にて昼也、爰(ここ)に越前の者、休ミ居、胸に、ムナシメといふものを当居ル
(p020b)是をムネにあて穴より着物のエリを引出し/針にて突通し胸のあかぬやうにしたるもの
真鍮にて作り、針ハ蝶番ひ(ちょうつがい)にした物也、阿弥陀ヶ瀧
村間ヶ池といふも、此村地内にて壱里斗の廻りの由
に付、案内をとり見物す、賃銭百文並外道連とも三人/荷物、被持候付、外に三拾弐文取
半道余、山を登、東へ行、村間ヶ池、是ハ山の上に長さ
四五十間巾三十間もあらんが、くろにハ藻なと生真中、
五六間廻りハ藻なともなく深き様子なり/此池、百日の日照たり共、水減する事なく、いかなる
(p021a)大雨にも、溢る事なしと也、鍬を入れバ、大に天気/忘ると云、蛇の住たると、
近郷言ならハす也、干損の/節ハ、此池へ雨乞懸る由、夫より北へ当、二十丁及も行
阿弥陀ヶ瀧の入口也、此辺の山、所々焼て、作物仕付る也
此節、焼所も有、今、木草を刈倒し、暫くからして/やかんとせしも有、此節、焼分ハ、
菜、大根、そばを蒔、と云、石斗の所も、焼て、あるゆへ、何を蒔といへば石の間ニハ、
菜を蒔に、土斗よりハ却て、よしと云、此辺、土用に入レバ、大根、蕎麦を蒔と云、扨、阿弥陀
(p021b)ヶ瀧を見んとて、背丈に越たる木草、踏分、登る事/六七町余、西さして行也、
瀧壺の辺、拾間余、四方の/平にて、西と南ハ、岩壁、北ハ山にて、樹木生茂り、
岩の間にも、木草生て、西の方、岩の真中より、瀧落る其景いわんかたくなく近辺、
霧雨にて、寒き事、堪かたし/瀧にうたるる事は、成かたし、瀧壺ハ青ふちにて、深く
側へも寄かたし、着物をぬぎ、片側へも、廻り後ろへ入裏瀧を見し也、瀧の左手に岩窟、
横拾間余、奥行五六間も有て、石佛あり、瀧の落る高、百間と
(p022a)いへども、左にハあらす、三,四十間余にも見ゆ、大山を登り下りたる目には、
都て、小ク見下すゆへ、慥(たしか)には見極めがたく片側より、つたひ、
後へ廻り、瀧を裏より見たるに景いと面白し、此瀧の山を前山と云、白山の南の
はしの前と云事也、此山より白山の奥の院まで、山続き、是より白山の山也、
さるゆへ遣境、此瀧壺へ石杯、投込投して、いらふ事あれバ、不時に空あれてひやう杯降て、
田面の害になる事あれば此前谷村より番所へ、執取りみだりに人を入ざる也
(p022b)此瀧、郡上川の始り也、白山ハ加賀といへとも、奥の院/少しかがの地に懸るゆへ、
加賀の白山といへとも山ハ此郡上境より北へ長て、西ハ越前、東ハ越中の境にて
加賀にはあらず、此所より越前道へ山を越行事近しといへども、
中々踏分かたきよしなれば跡へ戻り前谷村の北の出離へ出る、此瀧の辺、夏雪の花盛り
紅ノホラカイ草杯有、立木にてハ桂、シナ、其外、見馴ぬ物あり、
此村出離に国境の番所有、足軽体の者壱人、有之、此所に立寄、茶を貰ひ、飲てこれより
(p023a)坂を登る峠(美濃、越前)境迄壱里といへども遠く、境此峠、
東西へ続き東ハ飛騨信濃等へすぎたると覚、左の並ハ日本の地も此辺にて、馬の背中の根ニ
高くなり、両方へ下り辺様に成たる物と見ゆ、或書に信濃ハ日本の中にて地面の
最、高き国なりと/尾州より北の端と覚しき高山ハ此嶺辺りにてやあらん、
尾濃案内の者云、北の豊に見ゆる高山ハ前に見へたるぬくべか
嶽にて此山に支へて越前辺の山々ハ篤とハ見へなりかたし、此東少し寄り高き山ハ大日ヶ
嶽といふて、二三月頃迄に雪、不消、岐阜などよりよく見ゆるよし、の山も小松迄も
見へて十二三町もあらんと
(p023b)覚ゆ、阿弥陀ヶ瀧に道にて、見しに、此山のミ雪か々りし山なれど、
今ハ前ニ云如く、間近く見る白山も此峠にて、初て見る、雲かかりて不始ハ見へず
扨、南を見、晴れに正敷、ミロク、富士、本宮、小牧の山々ありありと見ゆ小牧山、
巳午、富士本宮巳、是東弥勒山見ゆる、白山ハ戌亥ニ当レハ、方角も的当
せり、前にいへる、ふすべヶ嶽へ登りたる人の云、ふくべヶ嶽ハ、大日ヶ嶽より、
近けれハ、西美濃下笠輪中、尾州の地ハ猶更好らかに御舟蔵様もよくなりて見へ舟は
(p024a)木の葉のことく帆柱なども、河に渡るゆへに箸の細き如くに見ゆるよし
・是より越前へ一里ほど下りて大野郡石徹白(イシトシロ)村山たばこ多し、是より
白山の麓、社家住居の方迄、八町といへど十四五町にも覚ゆ、此辺、松絶てなし、
田面中、其外、森、林、山共、杉多し、尤、雑木ハ有、森林、都て杉なり、
今宵ハ社人杉本周防守所ニ宿る、倅を政丸といひて十二才也とそ、先ツ、
宿へ着ケハ直に’コリセヨ’トテ神前の川にて垢離掻く、其まま湯あみもせずして寝る、
朝未明ニ
(p024b)起出、又、コリセヨ’と云まま、前夜の如く手水をも遣ハす、右川にて、
コリスル、霧雨降て天気いかがといふに昨朝も斯のことく、随分宜しからんと云しまま登山
の用意する内、夜明て、見れハ、雨にてハなし、’ナゴノ内の霧雨也、石などぬれる事なし、
郡上郡へ這入しより日々北に雲有しも此辺、高山ゆへ雲の絶間なきニとぞ、
前夜に案内者を引合置壱人弐朱也/若、雨天等にて、山に幾日逗留しても賃銭に替る事
なしとぞ、朝ハ案内の者宅より弁当持出つれとも
(p025a)其後は雇ひなる人より、支度される也、山上にて焚へき米も、持登るへきの処、
当年ははや、山上へ持行て売由なれハ、夫ニ不及、石徹白の社人ハ、麓の宮の守斗にて、
山上の事ハ越前平泉寺持にて、別山の室、麓より(六里)本宮の室麓より(八里)
平泉寺百姓のよし山ニ詰罷在也/是を強力と云、上石徹白、中徹白、下徹白、小谷堂、
三面(サツラ)、右六ケ村、白山領にて、何程の高を社人、何程ツツ持居候と申極もなく、
社人、百姓先ニ々持伝の高を作取のよし、社人ハ国々ニ檀家有て、廻檀致す事
(p025b)のよし、扨、白山の麓に宮有、此宮の軒下ニ印籠石と云有、といひしゆへ、
さがして一ツ二ツを得、猶、社人拾ひえしを、貰ひ来、<>如此也、色ハ赤も黒も有、また
小谷の内、川筋に俵石といふ物有、俵形なる物とぞ石どしろより、三里程西、折波村川筋へ、
何にても入れ置けバ、石に成とぞ、黒百合、雪鳥の事ハ、熱田大宮司へ
此社人より図を遣せし事有と云、黒百合も今、盛ならんと云、国元にて聞しに、
白山ハ六月土用に入たれハ登山成かたき由、又、途中の咄ニハ六月朔日、道切
(p026a-d20120113)よし云者も有。社人に是を尋ねしに、道切
(生茂し木草を)(伐て道直す)ハ、朔日二限らず、田方の耕作を仕廻(しまい)て
其翌日、道切する事にて、年々極りなし。当年ハ明日、道切する、
道切ハ前にいふ六ケ村、皆出、一夜は途中に野宿して、当日に上迄切開くよし
(明日とハ六月)(十日の事也)当年ハはや一両度も登山の者有り
毎(つね)の土用央(なかば)頃程、雪も消たる由にて山上え米も
持上り居るよしにて、摸通宜しと云。夜前食の菜にアマ菜と云物を煮て呉し。
是ハ山上に有物にて
(p26b)山上の案内せし者、取来る事とぞ。甚珍らてよき物也。当社家にて御山の図、
御礼出ス。泊り賃三人にて五百文出す。わらんず(わらじ)三足ツツ持、壱足拾文ツツ。
山上の砂並木草等取にハ代りを持行ケバ苦しかるまじきかと、云によろしと答ふ。
山上するに刃物、角類、皮の類を忌(イム)とて、禁ず、因て、腰もの角皮の類、
案内の云に包みて、背負世たり(是迄)(社家)(にて聞)(たるなり)
十日朝、一面のなご(もや)にて、霰、雨、降、(前に)(見ず)されとも雨に
(p27a)あらず。コマカキ物ハ降(フレ)共。石様(など)ハシメラザル也。扨御山に
登らんとするに。木山三里、笹山三里、砂山三里と云。
社家宿を立出。鳥居有て道端に猿田彦の御腰掛石と云有。
宮川橋(昨今コリシタル川也、橋ハ大材を)(二本両方より投渡、中に橋台有)
本社入口、大チヤウ大師と云ありて詣ス、是ハ最初山を開し人と云。
本社前夜詣せし故、一寸拝して行印篭石ハ、此軒下也。昨夕詣てんとて、コリせしに
近辺の子供、賽銭を拾ハんとて、大せいつどひ待構居、なげし賽銭奪合て、拾取、
猶も、なげよと
(p27b)云しママ、ばら銭を投れば、コロビタオレテ拾ふ、右本社の御前を通直に山へ
登る雲霧、覆ふて天気の程、覚束なく、おもふ。此辺、榛多し、十町程も
来つらんとおもふ頃、左手二大チヤウ大師の斧の跡とて、石に跡有。
斧を打立しとも可云あとなり/是迄、弐丁ならてハ、不来と云、暫く行て少し下り
川端にかかる、メツト川、カオレ川等有、川端の石飛越〃木の根等にとまり、或ハ、
岩の足懸場もなきを上り下り中々難所也、四十才以上、可行所にあらず
(p28a)(サレトモ六十七才の者参詣せしと云も)
(あれば必しも云かたし、壮年ならでは行かたし)又、木草踏分行
此辺色々草花あり、若ウド?の壱丈余も延立先きに莟持たるをも見、
暫く行て麓より一里の場所とて此所にて手水仕(つか)ふ(弐り及び来つらんと)
     (云へば此壱り大二遠シと云)是より又登る事急也、
ブナと云木の大樹多く有、又左手に今清水と云小社有、此少し先キに大杉有り、
七抱有、此先キ右手に大石有をヲタケ石と云とぞ、暫く行、又右手に小社有、
この鰐口の銘、尾州春日井郡小牧郷住人大馬次郎衛門勝家、天正四年金剛童子とあり
(p28b)是より八丁程上、女公石とて石有、此手前、馬の背の様成所行しに、
左手の谷底より、夥敷雲出、風と共に山に添、登り通る道を打越、又右手の谷に下り
前後見へわかす珍らしく面白き様にて恐し此前にて三里来りしとて支度して暫く休む
西より黒雲出、東北の山間より白雲眼下に行違ふかとみれハ、又後へ北の谷より黒雲覆来て
雨をふらし、須萸の間にさまた(?)と替る也、此辺よりハ笹斗にて春の草々、
夏雪、升麻、其他花咲出る
(p029a)風ハ十月十一月頃のさまにて、篠笹、カタトリ、日受に
居さへ寒し、是より暫く平を行、一ノ峯、二ノ峯、三ノ嶺と云を登る事、甚急也、
皆登り多くて、下り少し二ノ嶺の辺より黒松五葉松等、皆ひらみ、先ハ枯たり
草花いろ々有、此跡、母公石の手前にて、前後も見へす、真黒に成、少し薄らきたる時、
向の山に(一,二りモ、アラン)高サ二三丈もあらん、巾八九尺斗有、白きもの
立たり、案内ハ暫く先え行いヶ成物やと、肝も消能く見れハ、谷間の雪也。此所にて初て雪見る
(p29b)二ノ嶺少し下り、釈迦堂有、此鐘に春日井郡蓮花寺村、文禄四年とあり、
三ノ嶺甚高し、鬼岩て鬼の面に似たる岩道の向に有、三ノ嶺越、初白雪を踏、
是より一里半と云、(別山の、室迄也)是迄四里半と云しか、七八里も来し様におもう、
(朝早き積りにて、出たれとも雲霧(籠り居たれハ、日の出頃二もあらん乎)
此所にて七ツ頃と覚、是迄水も不飲、漸、此雪にて口をウルホス、此辺にアマ菜も有、
黒百合も少し有其他、種々の草花、今を盛と咲乱甚見事也
刈安坂、銭坂、ワカ尾、大石持、小石持などこへて夕方   
(-p30a-d20120119)過に、別山の室に並(此辺の笹原に雷鳥の)
 (羽落居候事有よし)大に草臥たれハ、飯をたべ早々寝る。米味噌、室にて、買、汁ノ実ニ
アテ菜を途中にて、取持並イサヲイと云木の根取来て是を
煮(イサヲイハブナの木ニ出来るものにて鼠色也、木山の内にて取、ブナノ木、大樹の倒レ、朽)
(クサリニ)(生ス) 此室、長六七間ニ梁三間室にて一人前二十文
是ハ宿並鍋等借候代也、山銭百文、美濃の国須原より、
奥郡上郡の者並越前飛騨の者ハ氏子なれバ山銭一人七十二文ツツのよし、別山にて出す、
別山ノ宮の賽銭十二銅も、此所ニ置行ケとて、差置せる也
(p30b)
十一日、朝晴、未明ニ出、別山の宮ニ詣、(神にあらずして正観音(にて葵の御紋付なり)
案内のもの自身ニ戸張を開く故、勿体なし、開かずに、置ケよと云ハ、
参詣に来て不来に行事の有べきかとて、戸張を開き、よく拝メよと云ま々
室にて賽銭ハ済たれとも又二三段上て詣、此崎案内のもの取て行也、麓より、
所々に詣行有、其崎ハ皆案内のもの取行也、此所にて日の出を拝ム、
今御来迎の出来るらんニ、拝メと云、西の方に雲の立たる在、あの雲にデキルと申せしゆへ、
見居たるに
(p31a)雲中少し白ジャケたりしかハ、今拝マレサセンと云しが、是ままデキズなりぬ、
少々雲の遠きゆへデキザリシとや、イカナル物と云に、アノ雲の中に丸く虹の色したる物
出来ん、是を御来迎と云となん、日と雲の照合のあんばい也、暫、日上り玉いてハ
出来ざるよし、是より前、別山室と別山宮との間に屏風岩、四海波なと云所有、
扨、別山の宮を越、小ノゾキ、大ノゾキ、アブラ坂、(至て急なる下り坂なり)是を下り切て
谷川有、畜生谷とて、足のも、水を付るなといふ
(p31b)是を越して、又登り少し下りて、又流レ有、’コリ’スル川也、馬頭観音有、
此川片側に雪有て、此水のつめたし事、手拭ひを洗ひだして、しぼらんとせしに
手でへてしぼりかねたり、御前坂といふを登るに、サイノカワラとて、
石を色々に積たる原あり、是を越せハ、御前室、是にて昼支度して嶺にて、
’わらんじ’ぬぎ替る事のよしにて、一足代りを持行事也、此途中に池二ッ有、
一ッハアイの色ミトリケ池、一ッハ’アフラノヤウノ色カキ色の様ニ覚
(p32a)扨、絶頂本社十一面観音也、当年焼失「イワウ」の吹しか、雷火にあらんかと云、
雷火にても有べし、当四月頃にも候と云、此焼失の跡に、白山大権現と棒杭に記し立たり、
此所にて’わらんじ’ぬぎかへる事也、奥の院ハ弥陀如来也、(わらんじをぬぎ捨去
 (土を惜ミ玉ふゆへといへとも)
(左もあらハ麓より、少しツツ土持上り度事也、かかる高山ニハ正清に有度
(事か、然かと、古わらんじぬぎ捨事残念也、皆此愚痴より申ならわし(たる事)
(なるべし)(先きに畜生谷の所にて、案内ハ先へ行、谷越に呼り此
 (川にて、手水使かひ候わんといへども、不聞若此先に水なくてハと
手洗口すすぎなどして行、追付て、案内ニ咄たればアレハ、畜生谷とて足にも足不付所也、
ココにて、コリ手水ツカウ所也と云しかハ少し心もちあしくて又手水口すすぎ手拭までも
洗ひ出したることそおかしけれ、畜生谷の水つかひてもさしていかがと云うかわりめもみへず
(p32b)(善悪ともに皆所の)(云いならハしか) 奥の院より返り六道の地蔵あり
是まで強力也、(室に結居るもの也是ハ平泉寺の百姓のよし
  (強力と云、案内の時ハ白きものを着る、所へ銭投させ
持返る也、戸張を悉く開きて拝ませる、此もの小便したるままの手にて
矢張戸帳をこぶりたれども、仏師の罰当たり事なきものとみゆ、ソレニ
少しにても遅れルものあれハせきたて案内のもの少しおくれても
ただならぬ場所ゆへ、大事等いへど是も銭を取の謀なるべし、尤高山故
沖と同じものにて、須更の間にて、天気おこす案内願事なれ
とも是ハ天地の変にて人間の後生などの論にあづかる事にハあらざる
(べきか)奥の院も近き頃建替り金鍍金の葵の御紋光りかがやきたり戸張の中に小笠原相模守
と云札有(一ノ瀬にて聞しに公儀御作事と云へば最寄の勝山の領主、小笠原相模守殿より
取斗らはれたる事しか)六道の地蔵堂、黒百合有事夥し。白山乃
(p33a)黒百合ハ名高きものなれとも、百合よりも貝母江近きものなり、別山の御山前迄
の間、種々の草花・咲盛、雪の消を待て、芽をいだし、いまだ雪、不消、所ハ土中にメクミ
消かかるより芽を出し、花咲さま、春夏の花/一時也、金梅草と云ハ、黄金の色をなしたるもの
誠に目ざまし、一一、取来りしに途中にて、むせ
(p33b)くさりしハ、好士に見せんと持来りしも其詮なくなりぬ、此嶺より尾添通り九里、
加州尾添村へ下る九りケ間、下りにて人家なし、越前一ノ瀬村江ハ四り半八町を下る、
是も甚、急にして、物に取付て下ル、坂幾ッも有、御前室より十町斗りも下りて、
暫く原有、此所にて雷鳥子を連れ居しゆへ、其所へ行しかハ、子ハ隠れ、親ハ其辺を
立さらず、三四間ニ隔てて、少、寄ハ少し退き一向人におぢざる様子(是ハ子が隠れしゆへ
其場を得立ざるか)雉子の雛に
-(p34a)能似たり、目の上少し赤く、羽ハ鼠色に茶のごまがらの様成もの也、後白く足ニ毛有、
目もやさしく、首も細く尾ハくひなの様なる立あんばい也、羽を呉よと立へハ、羽を
落と云しママ、さ(ひらがな)そへども羽も落ず、其内に跡より、人来り、笹の内へ入、
然処出しまま笠にてふせとらへんに雉子の子に少しも、不違、(去頃雉子の
卵拾ひ来て)
XX(鶏にあたためさせ近所に飼置たるを日々に見出立の頃、見しに、大さも同やうに付、
かくいふ)足は雉子の子も太、けれとも、又少太きやうニ覚、指の
(p34b)裏の外ハ、不残、毛有、ヒヨコなれハ、足の毛、少し黄なれとも、親鳥ハ、
白く少しうみたる様に覚ゆ。腹とも、同色、風切ハ、雪白にて、フチに少し黒き
所あり、是ハ御前室にて、強力の持居たる羽を見たり、けふ見しハ、雌なるよし、
雄ハ黒めなる物といふ、羽をタテハ、雌雄とも羽裏、腹共白しと云、月樵画し雷鳥ハ、
黒色なり、雄にてあるべし/雄、黒きながらも、ゴマガラのフハ有と覚ゆ、此雷鳥見し場所、
笹原にて、五葉松と、ヒラ
(p35a)ミテ、上へハ不立、此所、少し行くハ、真急なる下り坂にて難所也、然処、
左手より、夥敷、雲来りて既ニ雨も降んとして、前後も見へす、案内のものいふにハ、
雷鳥を手させハ必、空荒る也、子をとらへし故也、といふ、いぶかし、
(雷獣ハ雲を乞て、雷を催し雲に乗、歩行と咄に聞ケハ雷に)
(いか成、縁有事か是わけ分らず) 常に雲中に住故、斯いへるか、雌のミ
見てハ、足に毛有て、たくましき所ハあれど、目さし、其外、恐しきといふ、鳥にあらず、
此所、段々下りて、谷有、雪にて埋て、口元、五六尺雪消て
(p35b)穴に成たる、側の岩を使ひ、雪の上へ上り、向へ越,仙人の室といふ所を越、又、
剃刀の窟といふ所へ行しに、雨降出、(八ッ過にもあらん) 此岩屋へ、這入、雨宿りする、
巾三間に奥行二間もあらん中に剃刀の様成,岩壱ッ出たり、此所に佛、数躰有て、皆、首様、
損じたり、いかにと問に、去年の春、地震にて上の岩下りて、斯、損じたりといふ、
尾州にて去春かかる地震なし、此辺より、布引瀧、見ゆるよしなれども雲有て、見へず、
雨も大かた止たるまま、此所を立
(p36a)右手に谷川の音、はるかにきこへ、いと、しん々たり、(下へ行て、
湯治場へ出る川のよし)此岩屋にて二里もあらんと云,此道、大体西へ行、段々下りて、
鳥居有、別山より一ノ瀬え、行にハ、此所へ、出ると云、此辺より案内より先へ
来りしに、雲も晴、日も照しや、(七ッ過と思ふ)案内の者跡より来り、布引の瀧、
見へしと云、行越て見へず残念なり、扨、一ノ瀬村少手前に急成坂有、八町といふ、
其急なる事少しも、足たまらず、中ほどにはしごにて、下る所有、はしこの子、十三あり
(p36b)急成事、おもひやるべし、下るさへ中々難所也、
登る事ハ嘸(さぞ)おもひやられたり、此坂八町といへとも
十町程にも覚、下り切て、手引石(右、本宮四り半八町,左、湯治場とあり)
====end of=d_3yama2012A1.mem=== 三の山巡-------

2012年01月へ