-----no.5888---2012/--01月310日(火、昼)
「東浦かるた」を調べはじめた。
少し分かる。百々力道だ。
-d20120131百々力童.mem(石浜)---------
むかし、石浜が、片葩の里と呼れていたころ、
そこから明徳寺川をへだてて、
緒川村へ渡し舟が出ていました。
渡守の長四郎さん夫婦には、子供がなくて、
毎日さみしい思いをしておりました。
ある日のことでした。
長四郎さんが、緒川村へ人を渡して引返してくる途中、
雷をともなった大夕立に見まわれました。
長四郎さんが、大急ぎで舟を岸に着ようとしていますと、
「ガラガラ、ピシャ。」と大きな音がしたかと思うと、
突然、舟の中へ雷が落てきました。
びっくりした長四郎が、
かいを振り上てなぐりつけようとしますと、
「助けてくれ。助けてくれたら子供を授ける。」と言ます。
「ほんとか。」
「ほんとだ。立派な子供を授けてやろう。
そのかわり、楠で舟をつくり、その中に水を入れて、
竹の葉を浮べてくれ。」と、必死になってたのみます。
長四郎さんが言われたとおりにしますと、
雷は、大変喜び、何度もお礼を言うと、
その舟に乗って天へ帰って行ました。
それから数か月が過ぎて、
ほんとうに長四郎さん夫婦に元気な男の子が授かりました。
雷神の授かり子らしく、首に蛇を巻つけておりました。
長四郎さん夫婦は、この雷神の申子を大切に育てました。
この子は、大きくなるにつれて力が強くなり、十歳くらいのころには、
二メートル四方もある大石を軽々と差し上げ、それを十メートル以上も、
ほうり投るほどの力持ちになました。
投る時に足をふんばった地面が、十センチもめり込んで、大きな足型が出来たといいますから、
それは大変な力だったのでしょう。この怪力のうわさが天皇の耳にも達つし、
ついに宮中のお抱え力士として召し出され、「百々力童」の名をたまわりました。
それから、小いさい子が、足をどんどん踏み鳴してむずがり、
大人を負してしまうことを「百々を踏む」と言うようになったということです。
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「百々力道」「百々力童」どちらも同じだろう。本来「駄々」だろう。
扨、是以降は、私的な感想である。 「百々を踏む」いう言葉である。これが、先にあったのだろう。
それを、石浜の老人が「子ども」に語ったと云う事だろう。 一般的な話を「石浜の老人」が特化したのだろう。
特化は以下だ。子供がなく,天皇、宮中のお抱え力士,,,
この辺、桃太郎と似ている。多分、下地はこれだ。「百々」はももだ。 でも、こちらは、夫婦から生まれるので、普通だ。宮中へ行くのは、一寸法師だ。作者は、 此の話を子どもに語る場合、時々「桃太郎」「一寸法師」が混じる。
渡守,長四郎,,石浜で語るには、渡しがある藤江が良い。村内では具体的すぎる。 「長四郎」だが、長は長坂さんで、その4男である。当然架空だが、親しい名だ。 民話であり、勝手の程面白い。時代は、明治二十年と勝手に思っている。
参考までに、図は藤江の燈篭だ。新美忠治。 知多新四国88ケ所霊場版画集 が 価格273800円で購入出来る。 誰か買って!!!。

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