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-----no.5922------2012、02月02日(木、朝)
朝起きても、大した雪で無い。
心配していたが。
道路は乾いている。
庭の土は2ミリ位うっすら。
一月資料まとめている。
先ずは、右図。是は亀崎古文書で頂いた資料だ。
一番上は、参考で、知多の巡りの地図だ。
その他、寺や柿や地図である。
クイナも追加。
--------------
下は、独自に調べた文章で、
ほぼそのまま載せた。
(此の頁は、頁内のジャンプを使用した。)
=======目次===========================
20111208長瀧寺.mem
水野代官所(陣屋)跡=
d2011126村間ヶ池.mem
ケヤキ(欅、学名:Zelkova serrata)
d20111206文字.mem

羽黒村
水野陣屋
正安(しょうあん)
中水野駅
内津峠(うつつとうげ)
熱田25丁橋
大野屋惣八
嶺が寺
須原宿
阿弥陀ケ滝
d20111206沢胡桃.mem
道切り

2012年02月へ

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-----------20111208長瀧寺.mem-------
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索 /長瀧寺(ちょうりゅうじ)
所在地 岐阜県郡上市白鳥町 /宗旨 天台宗
本尊 釈迦如来 /創建年 718年(養老2年) /開基 泰澄
長瀧寺(ちょうりゅうじ)は、
岐阜県郡上市(旧郡上郡白鳥町)にある天台宗の寺院。
本尊は釈迦如来。
--------目次 [非表示]
1 歴史/2 文化財/3 所在地/4 アクセス/5 その他/6 外部リンク
------- 歴史 [編集]
この寺は、718年(養老2年)勅命により泰澄が創建したと伝えられ、
828年(天長5年)天台宗に改められたという。
古くから白山信仰と深いかかわりがあったが、
明治初年の神仏分離により白山神社と長瀧寺に分けられた。
1899年(明治32年)火災により堂宇を焼失し、
現在の堂宇はその後に再建されたものである。
---------- 文化財 [編集]重要文化財
木造釈迦如来及び両脇侍像 - 鎌倉時代
木造四天王立像 - 鎌倉時代
宋版一切経
----------岐阜県指定重要文化財
木造地蔵菩薩立像
木心塑造韋駄天立像及び木造善財童子像
木造沙弥行兼坐像
牛皮華鬘(ごひけまん)
金銅華鬘(こんどうけまん)
経机 附:版本法華経
荘厳講執事帳
----------所在地 [編集]岐阜県郡上市白鳥町長滝大門92
-------アクセス [編集]白山長滝駅(長良川鉄道越美南線)
その他 [編集]寺号の長瀧とは白山中宮として創建した泰澄が、
夢の中で女神から霊泉があるとのお告げを受け、
山中に入り見つけた滝(阿弥陀ケ滝)に由来している。
白山の美濃馬場(登拝拠点)であり、
白山3馬場(平泉寺、白山寺)のひとつ。
-------------------長滝白山神社
拝殿(2008/11) /所在地 岐阜県郡上市白鳥町長滝138
位置 北緯35度55分15.46秒/東経136度49分50.30秒
主祭神 菊理媛神、伊弉諾尊、伊弉冉尊 /社格等 県社
創建 伝・717年(養老元年) /別名 長滝白山神社
例祭 1月6日:六日祭(花奪い祭)/5月5日:でででん祭り
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市にある神社である。
日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。
白山信仰の美濃国側の中心である。
-------
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、
明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。
神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである
(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。
宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
-----------目次 [非表示]
1 祭神/2 沿革/3 主な行事/4 文化財/5 所在地/6 交通 /6.1 公共交通機関/6.2 車7 脚注
---------- 祭神 [編集]
菊理媛神(白山比盗_・白山権現),伊弉諾尊/伊弉冉尊
-----沿革 [編集]
伝承によれば、717年(養老元年)、白山中宮長滝寺として泰澄が創建したとされる。
722年(養老6年)には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、
元正自作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の本地仏を安置し、
白山本地中宮長滝寺に改称したという。
828年(天長5年)にはそれまでの法相宗から天台宗寺院へ改宗。
833年(天長9年)には白山三馬場の一つになる(『白山之記』)。
馬場とは禅定道の起点のことであり、白山三馬場とは、
美濃国の白山中宮長滝寺、加賀国の白山寺白山本宮(現白山比盗_社)、
越前国の平泉寺白山神社である。
平安時代の長滝寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、
三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたという。
1271年(文永8年)には火災により半数の建物を焼失。
1290年(正応3年)には本殿が再建された。
江戸時代には白山嶺上の管理を巡り、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺、
加賀馬場の白山寺白山本宮、越前馬場の平泉寺との論争が起きる。
日本全国の白山神社の半数以上が白山本地中宮長滝寺系統の白山神社であったという。
1868年(慶応4年・明治元年)、神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離した。
白山本地中宮長滝寺の建物のうち、白山三社、拝殿は長滝白山神社となり、
大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺となる。
1899年(明治33年)に火災で社殿を焼失し、現在の建物は大正時代の再建である。
------- 主な行事 [編集]1月6日:六日祭(花奪い祭)
国の重要無形民俗文化財に指定されている「長滝の延年」の舞の途中で、
拝殿の土間天井に吊された桜、菊、椿、牡丹、芥子の花輪を奪いあう祭り。
5月5日:でででん祭り
豊作、豊蚕、無病息災を祈願する祭り。独特の太鼓を敲く音から、でででん祭りと呼ばれる。
-------文化財 [編集]重要文化財
鉄蛭巻手鉾(てつひるまきてぼこ),鉄製斧(入峯斧)
銅仏餉鉢(どうぶっしょうばち)3口 うち内1口に正和三年、1口に元亨三年、1口に延文二年の紀年銘あり
古楽面 26面 鎌倉時代から江戸時代に至る古楽面群で、能面の源流を知るうえで重要な資料である。[1]
古瀬戸黄釉瓶子 2口 正和元年十二月施入の銘がある - 正和2年は西暦1312年
石燈籠 正安四年壬寅七月日願主伝燈大法師覚海の刻銘がある - 正安4年は1302年
黄地蝶梅文様繍狩衣・黄地牡丹文様繍狩衣
-----所在地 [編集]岐阜県郡上市白鳥町長滝138
-------交通 [編集] 公共交通機関 [編集]長良川鉄道白山長滝駅より徒歩約5分
郡上市自主運行バス白鳥ひるがの線(旧名金急行線)「長滝神社前」下車
車 [編集]国道156号、道の駅白鳥の北、約500m
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=======================================水野代官所(陣屋)跡===========
  愛知県瀬戸市上水野町鳥林   Visit :2005-09-26 13:00
 尾張九代藩主 徳川宗睦の時代に、藩政の大改革があり、藩内に大代官を置き、その出先機関として各地方に
所附代官所十箇所を設け、各地の庶政を司った。
 所附代官所は、天明元年(1781)五月、まず最初に中水野村鳥林に水野代官所が設置された。所轄は、愛知、
春日井の一部と美濃の一部に跨り、百九か村 六万一千三百五十七石余を管理し、徴税事務、申請事務、司法
事務などの全般処理を行った。つまり今日における市役所・税務署・警察署の仕事を一手に扱う強い権力を握っ ていたことになる。
他の所附代官所は、鳴海、北方、佐屋、上有知、横須賀、鵜多須、太田、小牧、清洲の九箇所に設置された。
  代官所は別称「陣屋」ともいい、役所の組織は、代官一名の下に、補佐役の手代が四名、その属官の同心八人
が主となり、管下の各所に配置する番人若干名によって、村々の動勢連絡、治安状況報告、犯人検挙に当たらせた。
 初代代官には、第六代御林方奉行水野権平正恭が、奉行を兼摂し就任した。このことから、水野氏が当地で権勢
を振るっており、藩としても無視できず、当地に代官所を設置し代官に起用したことで、当時の強大な支配力が伺える。
 しかしながら、代官は世襲制の御林方奉行とは異なり、その後、水野一族からは第三代に水野平右ヱ門、第十三
代に水野竹太郎が就任するに留まったが、別表のように代官職は維新まで十九代続いた。
 陣屋構内には、司所、吟味所、道場、管宅、倉庫、火薬庫、牢屋などの建物および藩士の子弟を教育する尾張藩の
学府明倫堂の分校「興譲館」という学校も設けられ、配下の武士が日を定めて出仕し、道場に集まって訓練を受けたり、
少青年が論語や孟子を素読する声が聞こえたり、付近には、遠来者のための合宿所もあって、商人達の出入りで賑
わったとある。

 山の中でも水野は城下     地方山方両役所
と謳われ、水野はこの代官所と御林方奉行の両所が設置されたことで、尾張藩の地方に在っても、さながら文化の中
心的存在であったことが伺われる。これらの存在は水野村民の気風に大きな影響を与え、優雅穏健で茶事・築庭を好
み、和歌俳諧に親しむ風流人も現れ、どことなく上品な感じのみえる「水野ことば」が話されていたと伝わる。
☆旅硯青鷺日記
 代官所跡の碑は、現在水野小学校正門前にあり、正門を入ったところに、天保十二年(1841)時点の水野村図が、
“ せともの ”の町に相応しく陶板六枚を繋いで再現されており、当小学校の三年生が社会科の授業に利用していると
聞かれた。また代官所跡の碑が在る場所は、『水野代官所之図』に書かれている「官舎」辺りに建てられており、現代
地図の赤い矢印の箇所に相当する。

水野代官所代官名:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/efb1b15689a494a7eefe5cbc09ec95d8
水野代官所(陣屋)発給文書:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/f671cf8003e4b89bdbddebe5e9a5a485
桓武平氏水野系図:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/777ff67bab506fc94b32ecf3b04681f4
赤い矢印の先が「水野代官所跡」碑設置場所であり、『水野代官所之図』の官舎付近に当たる。
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------------d2011126村間ヶ池.mem-------
大蛇が住むという伝説が残る神秘的な池
ハートピア四季本館から数分のところにある村間ケ池は神秘的な深い緑色をした水を湛えています。
不思議なことに山の頂上にありどこからも入る水も出る水も
無いのに年中を通して水量の変化が殆どありません。
 昔からこの池には大蛇が住むという伝説が語り継がれている神秘的な池です。
穏やかな水面にはコウホネや羊草が花を咲かせ、
岸辺にはモリアオガエルや多くのトンボ類をたくさん見ることができます。
 (標高は約700メートル、最大水深は約20メートル)
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八大竜王伝説/池にまつわる伝説
 昔、前谷から石徹白へ通じる街道に番所がありました。
あるとき番所の役人の子供がふざけて池の中に鎌を投げ入れてしまったそうです。
すると急に天が真っ暗となり雷鳴とともに暴風雨がおこり、何時までも止むことなく続き、
人々は荒れ狂う天と大地に恐れおののくばかりであったそうです。
 この時、明方より移住してきていた気丈な一人の百姓がおりました。
彼は意を決して池に潜り遂に鎌を拾い上げるたそうです。
すると、その異常な暴風雨はまもなく収まり、天は晴れ渡り、
池は又いつもの静けさを取り戻したそうです。
 それから、この里に住む私たちは、池に鎌など金物を投げ入れてはいけない、
蛇は金物が嫌いだからという祖先からの言い伝えを守っています。
卵をお供えすることもあるようです。
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有限会社阿弥陀ヶ滝観光,ハートピア四季
〒501-5101 岐阜県郡上市白鳥町前谷1080-1
電話(0575)85-2001 FAX(0575)85-2755--------------------
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ケヤキ(欅、学名:Zelkova serrata)は、ニレ科ケヤキ属の落葉高木。ツキ(槻)ともいう。
-------------目次 [非表示]
1 特徴/2 木材/3 シンボル
4 日本の著名なケヤキ /4.1 特別天然記念物/4.2 天然記念物(国指定)
5 日本の著名なケヤキ並木/6 関連項目
--------------- 特徴 [編集]
東アジアの一部と日本に分布。日本では本州、四国、九州に分布し、
暖地では丘陵部から山地、寒冷地では平地まで自生する。
街路樹や庭木などとしてよく植えられる。
高さ20 - 25mの大木になるため、巨木が国や地方自治体の天然記念物になっていることがある。
葉の鋸歯は曲線的に葉先に向かう特徴的な形であり、鋸歯の先端は尖る。
雌雄同株で雌雄異花である。花は4 - 5月頃、葉が出る前に開花する。
秋の紅葉が美しい樹木でもある。
個体によって色が異なり、赤や黄色に紅葉する。
木材 [編集]木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じる。
堅くて摩耗に強いので、家具・建具等の指物に使われる。
日本家屋の建築用材としても古くから多用され、神社仏閣などにも用いられた。
現在は高価となり、なかなか庶民の住宅には使えなくなっている。
伐採してから、乾燥し枯れるまでの間、右に左にと、
大きく反っていくので、何年も寝かせないと使えない。
特に大黒柱に大木を使った場合、家を動かすほど反る事があるので大工泣かせの木材である。
また、中心部の赤身と言われる堅い部分が主に使われ、
周囲の白い部分は捨てられるので、よほど太い原木でないと立派な柱は取れない。
-------------- シンボル [編集]
多くの自治体が、「県の木」「市の木」といったシンボルにケヤキを指定している。
ケヤキをシンボルに指定している都道府県 /宮城県 - 福島県 - 埼玉県
ケヤキをシンボルに指定している市区町村
------------
宮城県仙台市在住の歌手「さとう宗幸」は、
仙台市にある定禅寺通りのケヤキ並木をイメージし
「欅伝説」という歌曲も作成した(1998年4月24日)。
-------------- 日本の著名なケヤキ [編集]
特別天然記念物 [編集]東根の大ケヤキ(山形県東根市) - 樹齢1500年
天然記念物(国指定) [編集]文下(ほうだし)のケヤキ(山形県鶴岡市)
高瀬の大木(ケヤキ)(福島県会津若松市)
原町の大ケヤキ(群馬県東吾妻町) - 樹勢の衰え顕著
練馬白山神社の大ケヤキ(東京都練馬区)
御岳の神代ケヤキ(東京都青梅市)
鵜川神社の大ケヤキ(新潟県柏崎市)
専福寺の大ケヤキ(福井県大野市)
上野原の大ケヤキ(山梨県上野原市)
三恵の大ケヤキ(山梨県南アルプス市) - 樹齢1000年
根古屋神社の大ケヤキ(山梨県北杜市) - 樹齢1000年
八代の大ケヤキ(兵庫県朝来市) - 樹齢1600年
野間の大ケヤキ(大阪府豊能郡) - 樹齢1000年
竹の熊の大ケヤキ(熊本県南小国町)
下野八幡宮の大ケヤキ(宮崎県高千穂町)
なお、東京競馬場の第3コーナー内側に、俗に「大欅」と呼ばれる大木がある。
数々の逸話があり、「欅ステークス」という名の特別競走まで開催されているが、
実際は榎(エノキ)であってケヤキではない。
------------ 日本の著名なケヤキ並木 [編集]
馬場大門のケヤキ並木
定禅寺通り
志村けんの木(東村山市)国の天然記念物
馬場大門のケヤキ並木(東京都府中市)
日本の道100選(旧建設省)
定禅寺通り(宮城県仙台市) 中央分離帯2列と両側歩道2列の計4列
新宿副都心街路(東京都新宿区)
久屋大通(愛知県名古屋市)
みなと大通り公園(鹿児島県鹿児島市)
新・日本街路樹百景(読売新聞創刊120年の記念企画)
定禅寺通り(宮城県仙台市)
前橋駅前通りケヤキ並木(群馬県前橋市)
国道463号(埼玉県さいたま市)約17kmにわたって続く日本最長のケヤキ並木
常磐平けやき通り(千葉県松戸市)
表参道ケヤキ並木(東京都港区、渋谷区)
本郷町通り(岐阜県岐阜市) 600mほど
けやき大通(和歌山県和歌山市)
けやき通り(福岡県福岡市) 国道202号線の一部分で約100本
年中行事としてイルミネーションが行われるケヤキ並木
SENDAI光のページェント(宮城県仙台市)
定禅寺通りと青葉通りの計250本のケヤキ並木に計100万個の電球
六本木ヒルズArtelligent Christmas(東京都港区)
けやき坂通りに約37万個の青や白のLED
Light-Up Christmas In SHIBUYA(東京都渋谷区)道玄坂や宮益坂など
渋谷地区のケヤキ並木に約65万個の電球
NIIGATA光のページェント(新潟市)
新潟駅南口広場とけやき通りの計208本のけやき並木(約1km)に26万個の電球
香林坊地区ツリーファンタジー(石川県金沢市) 歩道250mの両側のケヤキ29本に10万個の電球
その他
志村けんの木(東京都東村山市) 東村山駅東口。
同市出身のコメディアン、志村けん(ザ・ドリフターズ)の
「東村山市の知名度を高めた」功績による感謝状授与記念と志村への
激励の証として植樹された。
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槻(つき)はニレ科の落葉高木の欅(けやき)のことです。
室町時代あたりから欅(けやき)と呼ばれるようになったそうです。
山や公園で普通に見かけることができる木です。
たくさんの枝を出し、春から夏には良い木陰を与えてくれます。
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万葉集には7首に詠まれています。
0210: うつせみと思ひし時に取り持ちて.......(長歌)
0213: うつそみと思ひし時にたづさはり.......(長歌)
0277: 早来ても見てましものを山背の高の槻群散りにけるかも
1276: 池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ
2353: 泊瀬の斎槻が下に我が隠せる妻あかねさし照れる月夜に人見てむかも
2656: 天飛ぶや軽の社の斎ひ槻幾代まであらむ隠り妻ぞも
3223: かむとけの日香空の九月の.......(長歌)
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------d20111206文字.mem------------
筧(かけい)箕(み)番い(つがい)藻も賃賃労働
------------槻
部首: 木 + 11 画総画: 15画,,
字源意義1.つきけやき。けやき科に属する樹木の一種。------------
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---------箕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箕(竹製)
持ちやすいように、手がかり部分に穴があいている
箕を使った穀粒とワラ屑を選別する作業
ミレー作箕(み、みの)とは、
農作業で使う手作業用道具。手箕(てみ)ともいう。 箕は、収穫物の採り入れや、運搬、穀物の選別など様々な用途で古くから
用いられてきた道具である。
農作業に応じて、適当な大きさ・形状のものを選択することになる。
選別には適量の材料を入れた箕をあおるようにして内容を
放り上げ再び箕で受けることを繰り返すことにより、
自然の風や箕自体が起こす風によって軽い夾雑物を 除外し、
重い穀物だけを箕に残すように使う。
かつて日本の農村では箕による選別は農家の主婦の重要な仕事であった。
素材としては加工性に富む竹や木の皮(経木)がよく利用されてきたが、
近年では石油を原料とするプラスチック製の箕が一般的である。
金属製のものもある。
プラスチック製の箕は軽量かつ丈夫であり、
安価であるという理由から、現在ではこれが多く普及している。
今日に至っては、箕が塵取りの代わりとして利用されていることもある。
この場合、箕はプラスチック製・金属製であることが望まれる。--------
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羽黒村 (愛知県)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽黒村 /廃止日 1954年4月1日 ./廃止理由 新設合併
都道府県 愛知県 /郡 丹羽郡 /総人口 4,156人/(1954年)
隣接自治体 愛知県丹羽郡犬山町、楽田村,大口村、扶桑町
羽黒村役場 /所在地 愛知県丹羽郡羽黒村
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羽黒村(はぐろむら)は、愛知県丹羽郡にかつてあった村。
現在の犬山市の南部に該当する。
歴史 [編集]江戸時代末期、犬山藩領であった。
1878年(明治11年) - 羽黒村と十吉新田が合併し、羽黒村となる。-----------
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-------尾張 水野陣屋
-----お城のデータ
所在地: 瀬戸市小田妻町2丁目22
遺 構: なし。
形 式: 陣屋 築城者: 尾張徳川氏 築城年代: 天明元年
----見 ど こ ろ
 水野陣屋(水野代官所)は、現在水野小学校の敷地となっている。
 小学校の校門脇に石碑が建てられているだけで、
陣屋の遺構は何も残っていない。
-----歴     史
 水野陣屋は、天明元年に尾張藩が春日井郡と
愛知郡の一部109ヶ村を治めるために設けた代官所。
 初代には当地随一の名門水野氏に嫡流として、
すでに御林方奉行職にあった水野正恭が兼任を命じられた。
------お城へのアクセス
鉄 道: 愛知環状鉄道中水野駅〜徒歩10分
 車 : 名神春日井IC〜国道155号線/中水野〜県道210号線
駐車場: なし。
-----ひとくち MEMO 尾張藩の春日井・愛知郡内109ヶ村支配した代官所。
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-----正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。
永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。
この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。
鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。
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中水野駅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中水野駅
駅全景(2006年12月) なかみずの - Nakamizuno
21 瀬戸市 (2.8km)(3.4km) 高蔵寺 23
所在地 愛知県瀬戸市三沢町二丁目
北緯35度15分0秒/東経137度4分19秒 /駅番号 ○ 22
所属事業者 愛知環状鉄道 /所属路線 ■愛知環状鉄道線
キロ程 41.9km(岡崎起点) /電報略号 ミス /駅構造 高架駅
ホーム 2面2線 /乗車人員/-統計年度- 1,292人/日(降車客含まず)-2009年-
開業年月日 1988年(昭和63年)1月31日
備考 駅員時間配置駅
中水野駅(なかみずのえき)は、愛知環状鉄道・愛知環状鉄道線の駅である。
瀬戸市の北西部にあたる水野連区にある駅である。
愛知環状鉄道線の開業にあわせて、1988年(昭和63年)に開業した。-------
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内津峠(うつつとうげ)は、
愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ標高320mの峠である。
この峠の北側を中央自動車道が通過し、南側を国道19号の内津トンネルが通過している。
----歴史
『日本書紀』によれば、日本武尊が当地で副将軍の建稲種命が
水死したという報を聞いて、「あゝ現(うつつ)かな」と嘆き悲しんだことが
地名の由来とされている。---
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは
森長可に属した妻木城主である妻木頼忠が内津峠に布陣し、付近の町が焼失した。
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江戸時代には中山道での輸送に使われており、明治時代に入ると難所ゆえにトンネル建設の声が高まった。
1880年には下街道の改修が行われて荷車や馬車の通行が
可能になったが、1900年に中央本線が名古屋駅〜多治見駅の間に開通すると、
物流は鉄道を使うようになって峠は急に寂れた。--
1952年(昭和27年)- 新道路法の施行により、国道19号は1級国道に指定される。
1958年(昭和33年)- 国道19号は多治見市池田町から
恵那市大井町まで舗装が完了。
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-------熱田25丁橋-------
熱田と西行法師
鎌倉時代の初期のある夏、西行法師が東国への旅の途中熱田神宮を訪れました。
西行法師といえば北面の武士として鳥羽上皇に仕え、
23歳で出家し諸国に漂泊の身を置き 花を愛で花に生き花に死んだ天才歌人で、
彼の和歌は新古今集に94首も選ばれています。
熱田神宮の森陰にある25丁橋の前に腰を下ろし、一首詠みました。
「かくばかり 木陰涼しき 宮だちを だれが熱田と 名ずけめん」
すると白衣を着た人が現れ
「やよ法師 東の方へ 行きながら なぜ西行と 名のりそめん」と
返歌した西行はこの白衣の人物は熱田大権現に違いないと思いそこそこに熱田の森を後にした。
   この話しが名古屋甚句の一節となり今でも残っています。
熱田の25丁橋のいわれは25枚の石が用いられているところから名ずけられたのだといいます。
今は熱田神宮境内の南神池の脇にその優美な姿を残しています。
実際にはこの橋が架けられたのは室町時代 といわれていますが、名古屋市内では最古の石橋です。
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国立国会図書館蔵、和綴写本、各頁毎に「大野屋惣八」の印があるところから、
名古屋城下貸本屋「大惣」の蔵書であったことがわかる。
=================== ーーー嶺が寺
玉野村の太平寺は宝永6年(1709)まで水野村の山中に
あったところから、嶺ケ寺と呼ばれ、移転後も地名が残ったという。
【春日井市玉野町1108】【0568-51-2090】 普光山 太平寺【たいへいじ】
【臨済宗妙心寺派】【本尊/聖観世音菩薩】「尾張三弘法第三番札所」昭和17年3月
【 駐車場 】 山門前駐車 【 おぼえがき 】
【福禄寿】【玉野冬至弘法】【瀬戸定光寺末寺】
【明応六年(1497)室町】【南屋敷→玉野】【春日井郡玉野村】
【東春日井郡高蔵寺村大字玉野字新田1108】【東春日井郡高蔵寺町大字玉野新田1108】
【東春日井郡玉野村/玉川村】【玉野】【玉野町/たまのちょう】
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天保15年西尾村絵図によれば白川御林と五ケ村定納山の
間の道を行き、分かれ道を右へとれば濃州大原村道、左へとれば濃州北小木村道となっている。
1里の半分。約1.95キロメートル。
尾張藩附家老、犬山3万石成瀬家所領の山林を守る役人。
五条川の支流にあたる。
下之保村の高澤観音(日龍峯寺)へ行く道。 約39キロメートル。
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------d20111128須原.mem---------------
須原宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
須原宿(すはらじゅく)は中山道39番目の宿場(→中山道六十九次)で、
現在は長野県木曽郡大桑村。
----歌川広重「木曽街道六十九次・須原宿」木曽川の氾濫で流失し、
享保2年(1717年)に現在地へ移転した。
---------目次 1 特徴/2 最寄り駅/3 史跡・みどころ/4 ゆかりの人々/5 隣の宿
------- 特徴
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、
須原宿の宿内家数は104軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒で宿内人口は478人であった。
------ 最寄り駅
JR東海中央本線 須原駅
-----史跡・みどころ
水舟:木をくり抜いて作られた水汲み場。
大和屋 (桜の花漬):蔵本 (造り酒屋:地酒「木曽のかけはし」)
定勝寺:本堂・庫裡・山門が国の重要文化財に指定されている。庭園も見所。
野尻宿までの史跡・みどころ
-----岩出観音
京都の清水寺を思わせる懸崖造りの堂が印象的。道の駅 大桑(→道の駅一覧 中部地方)
------ゆかりの人々
幸田露伴 - 小説『風流仏』は、須原宿を舞台にした作品。
隣の宿 [編集]中山道
上松宿 - 須原宿 - 野尻宿
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阿弥陀ケ滝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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----------d20111206阿弥陀ケ滝.mem--------
所在地 岐阜県郡上市白鳥町前谷
落差 60m /滝幅 7m /水系 木曽川水系長良川支流前谷川
阿弥陀ヶ滝(葛飾北斎『諸国滝廻リ』)阿弥陀ヶ滝(あみだがたき)は、
岐阜県郡上市白鳥町前谷(旧郡上郡白鳥町)にある滝。
落差約60m、幅約7m。昭和33年に県指定名勝となり、
昭和61年には「岐阜県の名水50選」、
平成2年には「日本の滝百選」に選ばれている名瀑である。
白山信仰の修験道(滝行)の地である。
長良川の源流の一つ、前谷川の上流に位置する。
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由来723年(養老6年)、白山を開山した泰澄により発見され、
長滝と名づけられる。
戦国時代の天文年間、白山中宮長滝寺の道雅法師が
長滝の近くの洞窟で護摩修業を行なっていたところ、
目の前に阿弥陀如来が現れたという。
このことから、阿弥陀ヶ滝と呼ばれるようになったという。
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交通アクセス 東海北陸自動車道高鷲ICより、岐阜県道45号高鷲インター線、国道156号、岐阜県道314号
石徹白前谷線経由で約15km。
長良川鉄道美濃白鳥駅より郡上市自主運行バス石徹白線で「阿弥陀ヶ滝」バス停下車、徒歩20分。
その他 [編集]7月には一般参加者による「みそぎ祭り」が行われる。
阿弥陀ケ滝に隣接する飲食店に「元祖流しそうめん発祥の地 
阿弥陀ケ滝」と記された石碑が存在する。
しかし この店が発祥ではない 滝壷で行っていたらしい-------------
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-------d20111206沢胡桃.mem-----さわぐるみ
クルミ科の落葉高木。山中の谷間に生える。高さ約20メートル。
葉は枝先に集まって互生。雌雄同株。
春、長い尾状の花穂を下垂し、秋、二個の翼のついた堅果を結ぶ。
材は下駄・器具材などにする。川胡桃。藤胡桃。-----------
●わが国の北海道南部から本州、四国・九州に分布しています。
山地の川沿いの砂礫地に生え、高さは10〜20メートルになります。
葉は奇数羽状複葉で互生し、長楕円形の小葉が5〜10対つきます。
4月から6月ごろ、雌花序と雄花序をだし下垂します。
果実は堅果で、小苞が発達した翼があります。
材は柔らかく、桶や下駄、経木などに利用されます。
●クルミ科サワグルミ属の落葉高木で、
学名は Pterocarya rhoifolia。英名は Japanese wingnut。
クルミのほかの用語一覧クルミ: 手打胡桃 樫胡桃 鬼胡桃
サワグルミ: 支那沢胡桃 沢胡桃 沢胡桃
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さわぐるみ (沢胡桃) Pterocarya rhoifolia
【くるみ科さわぐるみ属】 分布地は沖縄を除く全国
5月頃開花   30cmまでの細長い緑の紐のような花を咲かせる
花や実も、遅くまで形が残り見つけやすい
実も翼をもって小さく、鬼胡桃のようには食べられない
すこし高地の沢ぞいに生える
葉は複葉で大きいが鬼胡桃より小型
高さ30mまでの落葉高木  雌雄異株
  画像の上にMPを乗せると実になりかけの写真に変る
       全体画像を見る利用:公園樹、器具用-----------------
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道切り『ウィキペディア(Wikipedia)』
「辻切り」は、この項目へ転送されています。
刀による加害については「辻斬」をご覧ください。
---------------集落の入口に飾られた辻切りのしめ縄
銚子市小浜町の辻切りのしめ縄の飾り。タコやサイコロなどが吊られている。
道切り(みちきり)とは、村(地域)の出入り口にあたる道や辻で行われる民俗習慣のひとつ。
辻切り(つじぎり)とも称される。
日本の村落においては、村と山の境界にあたる野良(ノラ)、 あるいは村と村の境(サカイ)には古くから魔や疫病を
はやらせる神などが出入りすると考えられ、出入り口にあたる道には魔を防いだり、
追い払うために道祖神が祀られたり、
注連縄(または藁で作った蛇)を張ったり草履や草鞋が供えるなどの道切り行事が行われていた。
なお、この行事の行われる時期については、地域によって異なるが定期的に行われるか、
時により臨時に行われることがある。-----------------
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