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-----no.6190------2012、02月21日(火、午前)
司馬遼太郎の人生で、
どうしてもこれは考えなくては!
頁で以下の文が出てきた。
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歴史小説家の司馬遼太郎氏の『歴史と視点』のなかに、 司馬氏がヤスリで戦車の砲塔を削るエピソードが登場します。 九七式中戦車を削ったときは傷一つつかなったのに、 三式中戦車はヤスリで削れたので 司馬氏が装甲の劣化を嘆いたという話でした。
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1943年(昭和18年)11月に、
学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。
兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。
軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、
集合の合図には一番遅れて来た。
翌44年4月に、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。
戦車学校では文系であった為に機械に弱く、
戦車学校で成績の良かった者は内地へそして外地へ転属したが、
成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になったが、これが生死を分けた。
卒業後、満州牡丹江に展開していた 久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。
翌45年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、 ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
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簡単に図を説明する。 上が「九五式軽戦車」
下が「九七式中戦車 チハ」
カラーがロシアにまだ有るらしい九五式
九五式は主砲がこれしか見えない。
外国の戦車、例えばアメリカ、ドイツ、ロシアは良くご存知だろうから載せない。
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自分の事だが、時々、夢をみる。内容は、昨日の事は殆ど無い。 30年前、40年前の事だ。俺だけでないと思う。
作家・司馬も、同じだろう、陸軍少尉が出てくるだろう。
夢は書いていない様だが、「戦車」が、棺桶として出てくるのだろう。
生き物としての自分が、死者に成る瞬間を見てうなされただろう。
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司馬の本や意見を読むとき、この頁を前提としておく必要がある、
敢えて、調べて此の頁を作る。
序ながら、彼の文を読むと、海軍が解らんとよくある。
秋山兄弟や、日本海海戦や・・多く書いている。
世間では、(例えば半田で)戦前の飛行機の咄は時々聞く。
彼の人生が、日本歴史の一面だと断定して言える。
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良く議論になる事柄として、終戦前、佐野で上官の言葉として、 「逃げてくる国民と遭遇したとき、じゃまなら「ひき殺せ」がある。
これは、事実かどうかより、彼の中では「真実」で、時代としても「真実」だろう。
これを思う時、背景として、現代がある。
参謀本部=元政府や東電幹部で、県や原発所長が司令官。
其処に、作業員、住民がウロウロしている様に見える。

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