-----no.6680------2012、03月31日(土、13時)

夜が明け29日朝だ。
実は、何も予定はして無い。
でも、高槻市に付いて述べたのは、まだ不足だ。
駅はJR高槻と阪急京都線高槻市がある。
ほぼ平行で間は200メートルか。
この間が繁華街だ。
鉄道は北東から南西に走るし、道路は東西南北だから、どうもまとまらない。
まとまらないから、ごちゃごちゃと感じる。
物理的にしょうがない。
鉄道は淀川とほぼ平行なんだ。
京都、大阪を直線で結ぶにはこうなる。
高槻の位置は、淀川の作る平野の北側となる。
シャワーを浴び、コンビニで飯を買い、宿で給べでた。
此処等辺がごちゃごちゃ感じるのは、狭い道をバスが通る。
それに止まった隣りや前は駐輪場だ。
駅を北に越え、少し行くと「天神さん」が、有った。
全く不案内に歩いている。
只、昨日は南に歩き其処に、城を築いた。江戸時代はそうだが、高山右近もそうだ。 すると、此処は平地で、北側の山に、戦国時代迄遡れば、古城がありそうだ。
天神さんに登った。大分上だった。見晴らしは良さそうだった。
見晴らしと言えば、駅前が相当高いビルがほぼ完成していたが、営業はまだだった。
根上の木が有り、古墳が有り、竹が有った。
絵馬も有った。
絵馬は、日清、日露戦の様だ。

少し調べると
高槻藩
高槻は戦国時代、織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名で有名な高山右近が治めていた。
右近は秀吉の宣教師追放令で大名の地位を追われ、その後、新庄直頼が3万石で高槻に入ったが、
1600年の関ヶ原の戦いで改易され、その身柄は蒲生秀行に預けられた。
元和元年(1615年)内藤信正が近江国長浜より4万石で入り高槻藩が立藩した。
信正は高槻城を改修し本丸・二の丸を建設した。
元和3年(1617年)山城国伏見城代となる。
永井家は早くからきた、3万6000石 譜代 (1649年 - 1871年)
1898年(明治31年)10月14日 高槻村が町制施行、高槻町となる。
1943年(昭和18年)1月1日 高槻町が大阪府下で9番目に市制施行、高槻市となる。
廃藩置県の頃が未調査だが、いずれ調べる。
大体、以上が、材料として、「高槻」を考える。
と、言っても、以上で大体分かった。
京、大阪の間の都市である。これは、戦国、江戸、明治、現在、すべてに言える。 此処で、同窓会をするのも納得出来る。
そう言えば、(同窓会)食事のあと、時間を余り、遊びたい気分も有った。
「京」も「大阪」も近い。「行って帰れる」という意見も有った。
私は、静かに宿に引いた。
京、大阪へ出るより、「高槻==宿場」として充分、繁盛している様で有った。
京、大阪で高く泊まるより、安く「高槻」という案が妥当と思える。

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