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-----no.6795 ---2012、04月07日(金、10時)----------
HPを見て出かける。
HPは、右の地図と、
下の説明を読んでから行く。

碧南市と隣り合わせである。
碧南には、西端がある。
対である。
成り立ちを考えると、
河があり、
低地で池になる。
「油が淵」だ。
淵というから深いのだろうか。
江戸時代末、色々土木をする。が、
今、西暦1600年以前を考えている。
ひょつとすると、此処が川岸かも知れない。
城とする所として、なかなかの所かもしれない。
城蹟に立つと、それが分かる。
碑に「居館城」と有る。又「郭内城」ともある。
これが少しわからん。調べると
-----外郭 [編集]詳細は「総構え」を参照
城が中世の臨時的な軍事基地から恒久的な統治拠点になると、
城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、
さらにもう一重外側に防御線が設けられることがあった。
これを「外郭(がいかく)」または「外曲輪(そとくるわ)」
「惣構(そうがまえ)」などという。
普通、城という場合、内郭だけを指し、
外郭は天然の地勢(山・河川)をも含むため、
どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。
逢左文庫に「絵地図」が有るらしい。見たいものだ。
連郭式と言う。
天正八年(1580)築城、大浜から来た。
大阪の陣以後、廃城とある。
我「緒川城」と同じ様に廃城である。
歴史は短い。「大浜の出張所的」である。

---------d20120406東端城.mem------------
三河・東端城
史跡指定
市指定史跡 /
形態 平城 /
歴史
天正8年(1580年)長田尚勝によって築かれた。
天正12年(1584年)小牧・長久手の合戦で
尚勝の弟直勝が豊臣方の将池田恒興を討ち取る功を
挙げ兄にかわって羽城より移って東端城主となった。

直勝はその後も家康に従って軍功を挙げ、
元和3年(1617年)常陸国笠間で三万二千石を領している。
-------------説明
現在は城跡の片隅に正一位城山大明神があり、
大半は畑となっているが、周りには土塁跡が残っている。
周辺地より数メートル高い所にある。
--------------- 城主
長田尚勝,永井直勝
-------------所在地
愛知県安城市東端町中縄手
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