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-----no.6925 ---2012、04月16日(月、9時)----------
天気は晴れ。15日朝8時半集合。
何故か近場
半島一周
大体、行っている。
だから、咄が聞きたいぐらい。
ドウイウ訳か、恋の水。
歴史を感じない。
現代商売を感じる。
コップ二〇〇円。
印刷あり。
これで、普通のコップが、二〇〇円。
扨、水だが、誰か飲むのか??
疑問である。

清盛を探すが、これも古い。
だから、商売しか感じない。
つまり、新しい看板、畑、案内板。
只、時期は良い。桜筵か桜筏、
風も甘い。
「お吉」、「音吉」、「千賀」、「河和水野」、
知多半島住人は、
やはり、知多半島を見たがる。

歴史紀行的な旅だから。
そんなもんさ。
江戸、戦国、平家、色々飛ぶ。そんな旅さ。

序ながら、余話。
歴史と文学の感想。
「織田信孝」の咄がある、
「河和水野の姫」の咄がある。
是を同思う。
私は、「織田信孝」が切腹で内蔵を投げた」は文学で、
逆に「水野の姫の泣き言」は、ホントだと思う。
勇ましい咄は、後の想像しやすい。江戸時代は、
「血」の無い時代だから、「血」が好きの様な気がする。

唐人お吉の咄が車中で出た。
美人と云う咄だから調べて見た。
以下だ。
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下田一の人気芸者
[編集]グレゴリオ暦 1841年12月22日(天保12年11月10日)、
尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に
船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ、
4歳まで内海で過ごし、
その後、一家は下田へ移る[1]。
7歳の時河津城主向井将監の愛妾
村山せんの養子となり琴や三味線を習った。
14歳で村山家から離縁され芸者と
なりお吉と名乗ったきちは、
瞬く間に下田一の人気芸者となる。
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それ程でも・・と
判断したい人は、自分で画像を探そう。

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