haruharu Page

-----no.7070 ---2012、04月25日(水、19時)------
「むかしのお医者さんとお薬」がタイトル。
医者も薬も「お」が付いている。
今は、国民全員が「医者」である。
60才以上が、数人集まると、病気の咄。
テレビやラジオまで、病気の咄。
おいおい??
でも、私が行った時は、見学者が居ない。
おいおい??

私がタイトルを付けると、
「明治維新の医学」だ。
維新の時、医学は変わったと言える。
但、良いものは最近まで続いていた様だ。
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大して書く事ない。順天堂だけ調べた。
順天堂(じゅんてんどう)
佐藤泰然(たいぜん)が下総(しもうさ)国
佐倉(千葉県佐倉市)に開いた蘭学(らんがく)塾。
佐藤泰然は3年余りの長崎遊学を終えて江戸に帰り、
西洋外科を専門として、
両国橋のたもとに近い薬研堀(やげんぼり)に開業し、
同時に門弟を教えて和田塾と称した(1838)。
1843年(天保14)には和田塾を娘婿の林洞海に譲って、
泰然は堀田正睦(まさよし)の城下である佐倉に移って順天堂塾を開いた。
順天というのは「天道にしたがう」という意味である。
当時広く行われていた、
華岡青洲(はなおかせいしゅう)を祖とする漢蘭折衷外科に対して、
順天堂は西洋外科の本拠として名をあげ、
各地から多くの人々が入門した。
1859年(安政6)泰然は隠居し、
養子の佐藤瞬海(しゅんかい)(尚中(しょうちゅう))が
第2代の順天堂主となった。
尚中も長崎に遊学し、ポンペについて当時の最新の西洋医学を修得している。
69年(明治2)尚中は明治政府に迎えられて大学大博士となり、
大学東校(東京大学医学部の前身)の最高の教授職についたが、
ドイツ人教師の来訪を機に大学東校を辞して、
73年下谷練塀(したやねりべい)町に初めて東京の順天堂を開いた。
翌々年、現在地の御茶ノ水に木造2階建ての病院をつくって移転した。
佐倉の順天堂は高弟の岡本道庵を養子として、彼に任せた。
明治の大部分を通じて、
お茶の水の順天堂は
尚中の養子、進(旧姓高和)が主宰し、
医師の養成(主として卒後教育)にとくに力を注いだ。
第4代達次郎(旧姓河合)が進の後を襲い、
大正・昭和と順天堂の経営にあたった。
1943年(昭和18)順天堂医学専門学校の設立が認可され、
これが今日の順天堂大学へと発展した。
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順天堂」と、「津村順天堂」は無関係だ。
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もう一つ見た。「司命丸」 だ。
http://www.toseki.com/medical/introduce.htm
http://www.toseki.com/medical/history.htm
一、御三家より旧い高倉家
 いまも時めく佐竹侯爵の先祖が、曾ては六十万石の大大名として、
常陸の国に蟠踞していた頃、高倉家の祖先は、
佐竹氏の一族として高倉の姓に因む高倉村に砦をかまえていた。
御三家の筆頭たる水戸侯-徳川頼房卿が常陸のあるじとなってからも、 高倉家の存在は水戸侯より、客分ともいうべき特別の地位におかれていた。
 元来、司命丸は徳川家康公が軍陣に臨むとき、
いつも印籠に入れて用意されたものである。
 頼房公が水戸二十五万石(後三十五万石となる)に封ぜられたとき、
司命丸の処方も保命長生の名薬として、此の時水戸家へ伝えられたものである。
それより、水戸家奥向きの常備薬として、珍重せられた。
義公の代に至り、斯かる名薬は普く藩内の士民にも頒ち、
一般をして、広くその効果に浴せしむべきであるとの趣旨から、
即ち藩薬として是れが製剤頒布を高倉家の祖、次郎兵衛義廣へ委嘱せられた。
現当主は義廣から十二代の後裔に当る。
 寛政十二年、司命丸を更に藩外各地へ売広めるべく、
当時徳川将軍家の御典醫として有名なる鈴木暘谷先生より、
旧来の司命丸へ、更に数種の特殊薬を加味する処方の伝授を受け、
以来、高倉家一子相伝の名薬として、各地へ売広め、今日に及んだものである。
 司命丸は、斯の如き光輝ある歴史を以て今日に及んだ。
就中、最も弘く世に知られたのは、現当主の祖父長八郎照次の時代である。
以下に高倉長八郎照次が幕末維新に際しての活動の一端を叙する。

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