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-----no.7409-----2012、05月14日(月、12時)------

今日もいい天気。
だが、頁を作る。
これは昨日の事、
昨日も良い天気だったが、
半田へいく。
数日前、メールが有り、
何かやるという。
読むと、「茶」と
「講演、重吉」と有った。
行った。
以下だ。
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駐車場、一杯で、山の外れまで行き止めた。
ソコから、登って、下って。
相当応えた。
先ず、「お茶」の案内。
頂く。
器は「先生達」のものを選択して、
お願いする。
日差しは強くなく、
緑は、目を喜ばす。
菓子は、2口で、
茶は程々。
庭に「石」を集めてある。
「右 大野」は当然読めるが、
「左 はんだ」が、読めたのは、
古文学習の成果だろう。
小路に「いぬナシ」もある。
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館内に入り、2階で、
工芸展。
「知多」とあるから、半田に限らない。
此処に、「ふるさと画」の画伯が、
これがやはり似合う。
「分かる」人が、「分かる」から似合う。
私は、似合わないと思いながら、
見てみる。
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会場はまだ「例会」中。
そこに、演者、元市長。
画伯から、市長の概略を聞く。
始まる。
演題から「重吉」が、
メインと思った。
資料は3頁で、少ない。
話に「六分儀」が出る。
此れ、始まる前から持参して下げていたので目立った。
内容的に「重吉」の話が、少ないのが以外だった。
「船長日記」が出てきた。
これは「未知」だった。
「船長日記」は、美しいものだ。
とても、当時の物と思えないが、
名古屋市博物館蔵らしい。
佐久島などのスライドは、現地を既に訪ねている。
題「知多から世界へ」だが、 これは、重吉で無く、演者自身のヨットの話かも知れない。読み間違えた様だ。
その後、「拓本」の動画も有った。
まとまらないけど、それなりの面白いのだろう。
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調べ様と言う人は、以下の言葉が良い。
小栗重吉
ふなおさにっき
督乗丸
が、良い。
せんちょう日記で引くと、
いろんな人が出てくる。元市長が出てくるかも。

自分で知らべない人の為に少し書く。
江戸後期の漂流記。池田寛親編。
名古屋の督乗丸(乗組員14名)が1813年(文化10)江戸から帰航中遭難,
漂流16ヵ月後,生存者3名が北アメリカ大陸の南西洋上でイギリス船に救助され,
以後カナダ,アラスカを経てカムチャツカに至り,
ロシア船に送られてウルップ島に上陸,船頭重吉ら2名が
択捉(えとろふ)島,国後(くなしり)島を経て17年故郷に
帰着するまでの苦難の体験と見聞を記録したもの。
鎖国下の海外見聞録,記録文学として貴重な資料である。・・・

生涯 [編集]三河国佐久島(現・愛知県西尾市)の百姓・善三郎の次男として誕生。
後に尾張国半田村(現愛知県半田市)の百姓・庄兵衛の養子となる。
漂流 [編集]1813年(文化10年)、重吉は尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の
船・督乗丸(約120トン)の船頭として、部下の乗組員13名と共に師崎から江戸へ出航した。
しかし江戸から帰還する途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれ遭難。
この時乗組員の1人が海に転落している。
舵を破損した督乗丸は、海流に乗って太平洋を漂流。
以後1815年(文化12年)に、アメリカ・カリフォルニア州のサンタバーバラ付近の洋上で
イギリスの商船ホーストン号に救助されるまで、484日間にわたって漂流した。
生存者は、重吉以下音吉、半兵衛の3名であった。

帰還 [編集]命を取りとめた重吉らは、シトカからペトロパブロフスク・カムチャツキーに送られ、
ロシア船パヴェル号で択捉島へ護送された。
この間の1816年(文化13年)6月に、半兵衛が病死。
最後に残った2人は国後島からノッケ岬、根室を経て、同年9月に松前に到着。
江戸で事情聴取を受けた後、1817年(文化14年)4月に身柄を尾張藩に移され、5月に帰郷を果たした。
なお、1832年(天保3年)にやはり遠州灘で遭難し漂流、
シンガポールで客死した人物として山本音吉がいるが、
重吉の部下の音吉とは無関係である。
その後 [編集]生還した重吉は、新城藩(現愛知県新城市)の家老で
国学者の池田寛親の聞き取りによる口述筆記にて
『船長日記(ふなおさにっき)』を書き上げた。
同書には、積み荷の大豆をきな粉にしたり、魚を釣ったりして飢えをしのいだこと、
同乗の乗組員が壊血病や栄養失調で次々と命を落とす様子、
救助後のアメリカにおける生活などが記録されている。
鎖国下の日本における数少ない海外見聞録であると共に、
長期にわたって極限状態に置かれた人間の心理が描かれた、文学的価値の高い資料でもある。
この他にも、ロシア人と共に生活した体験を『ヲロシアの言』に記している。

成福寺(名古屋市熱田区)の境内に現存する「船頭重吉の碑」重吉は尾張藩から5石2人扶持、
名字帯刀を許されると共に、御水主の職を得るが、2ヶ月で辞職。
死亡した乗組員の供養に余生を捧げた。
1824年(文政7年)頃、著作を売り歩いたりして得た資金を投じ、
台座が廻船の形をした慰霊碑を笠寺に建立。
1853年(嘉永6年)に重吉が死去してからは放置されていたが、
同年成福寺(名古屋市熱田区)へと移設された。
帆柱の部分には「南無阿弥陀仏」の文字が、
また台座には死亡した乗組員の名が刻まれている。

年表 [編集]1785年(天明5年) 三河国佐久島にて生誕
1813年(文化10年) 督乗丸、遠州灘で遭難
1815年(文化12年) ホーストン号に救助される
1816年(文化13年) 松前に到着。取り調べを受ける
1817年(文化14年) 半田村へ帰郷
1818年(文政元年) 苗字帯刀を許され、小栗姓を名乗る
1822年(文政5年) 『船長日記』完成
1824年(文政7年)頃 督乗丸乗組員の慰霊碑「船頭重吉の碑」建立
1853年(嘉永6年) 死去。享年69
1980年(昭和55年) 記念碑「海の男 船頭重吉出生之地」建立
1988年(昭和63年) 新城藩主・菅沼氏の菩提寺で『船長日記』の原本発見
2001年(平成13年) 『船長日記』の碑建立

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