-----no.7420-----2012、05月15日(火、9時)------

この作者は、水野代官属の者らしい。
この男と、時代を考えて居る。
芭蕉と比較しては、恐れ多いが、
凡人である。
武士が、読書人なら、
この程度の文、
誰でもかけそう、
絵もこの程度なら、

わからないまま、
そのままにしておいて良い様な気もする。
調べるのも面白い。

旅姿が未だに浮かんでこない。
荷物は、どんなもんか。
映画「小川の辺」の時は、主従だから、
荷物持ちも分かる。
複数の人の旅であるが、
同輩なら、もう少し個性が出てきていいが、
それが無いから、
「中間」かもしれない。
奥の細道でも、一人でない、曽良が居る。
でも、芭蕉は曽良を書かない。

侍が二人並んで「旅」をするのは、どうも、
「絵」にならない。
「前」と「後」、つまり「主」と「従」なら絵になる。
取り敢えず、このぐらいにしよう。
「絵」がまだ、浮かばないのである。
これも、其で良いのか???

夕方漸、富山城下に至、先ニ泊し鍵屋孫四郎ニ宿る、
生たら一疋拾文、中鯛ハ拾文、さば十五文、求中飯の菜にして給る、
風味、大あじにて、尾州の魚類にハ、くらべかたし、
富山、木薬屋町、何町も続き、
両かわ、皆茶屋也、諸国へ、売払る事なきハ左も有べし、
此辺、わらじ一足、五文ツツ

翌二十三日、晴、昼頃、漸く、手判、受取、茲を出立、
先ニ廻りし道を、滑川迄来、吉野屋四郎兵衛ニ泊、

二十四日、滑川立出、魚津、大沢、上村、高畑、実祐寺
片貝川、荒松、中野、三日市、オギウ、若栗、
浦山、船見ニ泊、此辺、瀬戸にて用ル、イヱゴロの様成、
ものに、茶の葉入、濃く出し、茶せんにてたて、呑土肥も、背ニ負、其器、
如此、ものに、草など入、荷ふ、びくの類か、
すべて、早口にて、聞えにくし、返事をイヤへいをイヱイ、御出をイラツシヤレと云う、

二十五日、朝、とく、立出、昼頃、彼関ニ至、(越中、越後)境也
--------p076a----------------p077a------------
二十四町と云、棒杭有、右関越て、「從是北、高田領、從是南、
御代官矢沢藤蔵支配所」と記したる棒杭あり、
夫より黒姫山、打越(信濃)野尻宿より飯綱にかかり、戸隠山、奥の院にいたる、右奥乃院、
女人、結界、左、中院への女人道、奥の院本社かたはらに、九頭龍ノ社、
是ハ裏山、巌壁、数十丈の麓岩より長十間余も在、内の見へぬやうに板張にして目板打、
屋根葺候、ロウカ如此、長く作り出し、正面格子戸を立、
此所より参り、御膳を備るに後手に持てすへ置、
跡を見ずに出ることと也、坊舎五十三ヶ寺、所々に有、各、
岩にかけ作り多し、内庭様へ右岩作り込、其間、多くに鍋釜を入置も珍し
二十三町目二王門十五町目、鳥居、中院谷、戸隠門前より一り、 大倉一り半、出茶屋半道、あら安、大久保鎌屋?代七ニ泊、

二十八日、宿を出、善光寺へおりる出斗りにて休む所少しもなく、
中程にいづなヶ原と云、有是より
--------p080a---------
南の方を流る、秋和、上田、(小県群五万三千石松平伊賀守城下)町内壱り八町、
岩屋(上田縞ハツムセ辺より出ル) 水内、埴科、ちいさかた
雲野、田中宿、加沢、ボクヤ、芝生田、片葉、深沢(是より佐久群)
西原、小諸、(一万五千石稲葉、周防守城下)長三拾町斗、山本勘助縄張穴城あり、
西入口に川有り、往来を上り下りして、橋下りテハ橋、都合、三ヶ所ニ橋有、
各長六七間斗、又、登りて、城下町也、此辺より見越ス事ハ高塀有て、
いたしにくし、此辺の植木鉢ハ石、小便ビシャク箱  xx 如斯、 
葉坂、和田、長戸野、上村田、亀屋元右衛門ニ泊、
七月朔日、晴、上村田宿内より左、より取、四五町南へ
行、湯川、サル久保、ナメリ川、上ミ下モ中込、下越
三上(サンジヤウ)、平林、四ツ家、平林出口にて、枝川、渡る
上村田より三り、夫より、マナガシ橋迄三里と云、此辺大体、真北に浅間嶽見ゆる、上村田より右嶽へ
五里、八ツヶ嶽、朝より見ゆ、平林にてハ、間近し
カイデ新田、下海瀬、樋ノ口、(蕎麦から一束、墓へ持行タキ返由、此辺、唐松、山に多あり)
高岩、出離ニ長三町も有へき樋、長二十間も
-----p081a-----------
あらん、立岩の?を水?、本馬流橋、西馬流シ
出離より、少坂上ル、一リ余行、立岩、左、甲州道、少し行ハ、
ヤナイケ村、村ノ出店壱軒有、是迄八里八丁
是より、又、川ニ添、東へ五六町、夫より余程上りて下りて
海尻、(マナカシより二リ、此節小麦 取入、田ニハ?出る)より壱里にして、
海ノ口(一リノ原有)板橋(此間二り ノ原有)庄兵衛に泊、此村、家四五軒、
隣村へ行にも一二里ツツ隔、至而、淋しき所也、御代官、川崎平右衛門支配所、
米ハ出来ず、そば畑多し後の原先の原広し、八ツヶ嶽の東麓也、山添
------p081b------------- 
まで壱里也、(宿の人語りたるハ頃日病?出??成かたし出心?よとの事、
気味はるし、されども出合?て?し二日、晴、板橋を立、野原壱里行三軒屋より坂有、
浅間山辺の方ニ見ゆ、八ツヶ嶽右に?を?(此辺 此嶽の裾なり)
南に代山見ゆる、其名、聞漏しぬ、山もなき原より雲出る事、珍し、
土地高記故(或文ニ信濃ハ、日本の内地面の一幡に高記国也と)
此、手前に富士見坂と云、有、巳午ノ方ニ見、午未の方に、八ツガタケよりも高く見ゆる山、有、
此坂、余程下り、平沢(板橋より二り)此前、出離「右、甲州道」と有、
野原一り程にして、信甲の

2012年05月へ