-----no.7457-----2012、05月18日(木、18時)------

移動先は、「正住院」だった。
その事も、書くべきだし、写真も多い。
しかし、主に「常滑城」の感動が大きい。
以前にも「海岸の見える岡」
「天理教」「桃源寺」
は、訪れていた。
その時は、車だった。
今回は歩いた。
だから、分かった。
「常滑城」が。
「常滑水野」の姿が、
大分ハッキリした。
正住院も、
城に含むべきだと思う。
正住院の横の川は軍湊で、
「市場」の川は、商業湊と考える。
江戸時代初期は、畑・・
と言うことは、平地だ。
それは、「屋敷」跡と言える。
「常滑水野三代百二十年」は、ちょっと修正が要る。
各代で、三人の男を生むとする。
三の三乗で二十七人だが、
十家ぐらいはあっても良い。
其のぐらい住めて、食える広さを感じた。
例えば、土管屋跡だけで、一家出来そう。
馬、郎党で、丁度良い広さと見た。
「水野家墓」よりも、
「家臣墓」の方に興味が沸いた。
「家臣」と言うより、庶家と考えた。
血縁関係の時代で、儒教の時代でない。
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雨は、小降りにはなっても、
止む事は無かった。
見えない、だからこそ、考えれた。
今話して、考えて要る事は、
一五〇〇年頃から、
一五八〇ごろまでの事だ。
緒川と比べると、
どうだろう。
常滑の方が、「田」は広いと感じた。
広いわりに、森が深いとも見た。
つまり、開拓には、適していると思う。
緒川は、阿久比の枝郷として、
鎌倉幕府の歴史や、伝統が邪魔している。
刈谷の、三河の街道から見えやすい。
だが、常滑は見えにくい。
だから、力を付けやすい。
これが、主な感想か。
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江戸時代末期の絵や寺や、
「神君腰掛石」などの事は、
また、いずれ述べよう。
高麗門もあったっけ。
飯屋の件など、
覚えて置きたいことがある。
それに本を一〇〇〇円で買ったり、それより素晴らしい紙の本は、まだ読んでないが、 貰ったし・・・

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