-----no.7477-----2012、05月20日(日、09時)------

一旦、車屋さんへ依ると、
車は出来ていたが、
シールがまだと言うことで、
又歩き出す。
今度は、西。
来迎寺へ。ここは城跡と言う案内。
以前と全く変わりない。
静かだ。
小学校は運動会。
元気な掛け声。
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一里塚を越え、もう少し西へ。
杜が見えた。そこへ行く。
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小学生の案内がある。
これが実に良く分かる。
泉蔵寺が八幡社を招いた。
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神社をお参りして、
忠魂碑など見て、
お寺を見て、
帰ろうか・・
その時、
御婦人が顕れる。
「忠臣蔵・・」と言われる。
「良ければ、御覧・・」と。
拝見する。
観音さんである。
まじまじとお顔を拝見する。
いい顔である。
よくわからないが良い。
「平安」と言えばそのようにも。
鎌倉と言えば「そうかも」。
お顔は「男」と言えば「そうかな・・」
「女」にしては、堂々としている。
この寺、檀家が無く、宗旨を替えたと云う。
初め「黄檗宗」だったと。。。
すると、江戸初期。。。
忠臣蔵に確か朝鮮人が祖先の人が。。
この頃、宗旨を変えているのか。
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この辺、東海道筋だが、
2つの川に挟まれ、村としては古いかんじがしてくる。
平安初期から「豪族」がいて、
京の貴人を泊めていたかも。
業平に「問題からころも」を出したのかも。
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参考にならないかも、が、少し調べる。
------吉田忠左衛門--------
吉田 兼亮(よしだ かねすけ(忠左衛門 ちゅうざえもん) 
寛永18年(1641年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、
江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。父は吉田之貫。
母は備中松山藩水谷家家臣貝賀左門の娘。
妻は熊井新八の娘。
子に吉田九助(長男・早世)、吉田成重(次男・早世)、吉田兼貞(三男・嫡男)、
吉田兼直(四男・吉田伝内)、吉田さん(長女・伊藤治興室)、
吉田すえ(次女・那須高矩室)がいる。弟に貝賀友信がいる。
赤穂藩では足軽頭・郡代(群奉行)、200石役料50石。本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。

生涯 [編集]寛永18年(1641年)、
笠間藩主浅野長直の家臣吉田之貫の長男として笠間に生まれる。
正保2年(1645年)に浅野家が赤穂へ移封されたので、吉田家も赤穂に移った。
浅野家中の甲州流軍学者近藤正純や近藤正憲に甲州流軍学、
水沼久太夫から槍をそれぞれ学んだ。
寛文3年(1663年)には熊井新八の娘と結婚。以降四男二女に恵まれる。
寛文12年(1672年)には8歳の寺坂信行の世話をし、 また吉田家の奉公人とした。貞享3年(1686年)、
51歳の頃に赤穂浅野家の飛領の播磨国加東郡の郡代となる。
このときに寺坂信行も兼亮にお供して加東郡へ向かっているが、
この際に吉田配下の浅野家の足軽としている。

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、
浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。

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