haruharu Page

-----no.7875 <<-----2012、06月22日(金、13時)----------
スキャナーが良い見たい。
落ち着いて、学びたい。
午前講習に出て、今まとめようとしている。
------------------
良い天気だ。うのはなが咲き、沢瀉も元気。
三回分全文書きたい。が、先ず今日の分
-----------申し渡-----------------
         知多郡緒川村 
            ????? ???
其方義、去、卯年九月
於村内、両度、博奕、令筒取、
不届之至ニ付、生所、緒川村
差塞
御城下、五里之内、構、追放
申付之、
 御領分中之外、他領、他国ニ
住居、致間敷事
 辰十二月五日
   ---------
        知多郡緒川村???
聖聡院様
源懐様  為御追善
追放、御免
------------------------
要するに、「出て行け、所払い」と申し渡と
後は、「恩赦赦免」だ。
先生の意向で名前は伏せてある。
二百年経っても、「家」が分かる場合が有るという。
そんなに移動の少ない所とは、驚く。
江戸末期の経済が忍ばれる。
経済が大きくなり、博奕はこの頃から盛んになり、
尾張藩は「押さえ」に掛かる。
尾張殿様は十代の頃、
八代「宗春」の後か。
宗春の時、博奕なんか、「じゃんじゃんやれ」とは、
言わないでも、それなりの名残がこの時有った。様だ。
寛政六寅年(1794)の死亡でその恩赦
辰年に判決だから、十年経ち、恩赦と私は計算した。
天明三年(癸卯)1783が博奕
天明四年(甲辰)1784が、判決とした
そうなると、この男十年何をやり、何処に居たか。
そこらへんが知りたい。
名前を明かすと「ひょっとして」その名が
また現れた時、面白いのだが・・・
--------------
「筒取」つまり胴元、すると、大物の可能性がある。
どこかで出てくるかも。


-----頼母子書入証文--一-----
  頼母子書入証文之事
一、金五拾三両三歩弐朱 壱口より 落金
一、上

-----------中止--------
疲れる。またにしよう。

2012年06月へ