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-----no.7941 <<-----2012、06月26日(火、14時)----------

恥ずかしながら二時間前が思い出せない。
写真真中は???あん(庵)
右は「又助」が何処の又助か。
上は「孫平内」か。
「こんやは紺屋」だろう。
ガイド講習の古文書である。
レジメは以下。
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一。
先生の経歴も少し有った。
緒川小の天井裏から、文書がでた。
GHQから隠した物と言う。
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二。
古文書、
慶長検地。
 (乾坤院、善導寺を含む)
この辺がやはり面白い。
三。建物
四。読む
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以下の話はいい訳だ。
最後の頃、「乾坤院」に天正八年の検地帳が
有ると聞いた。
講習後、資料を見た。右下だ、
この話で、思考が停止した。
天正八年は信長の世の中である。
太閤検地は余りにも有名だが、
秀吉は「信長の真似」者との認識が俺にある。
秀吉は信長を真似て検地をしたという考えだ。
「大和検地」と言うものがある。
これが、京、奈良では不満が有った。
そして「本能寺の変」は、之が引き金だと言う説もある。
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そもそも「検地」は、税を取るためである。
天正八年乾坤院から税を取るのは誰だ。
年貢地だろうが、除地だろうが、
支配者は領内の生産額は把握すべきである。
今これが気になる。
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江戸時代は生産の向上が抑えられ、
慶長検地の資料が二五〇年使われたのは、
良く分かった。
(勿論、新田が出来生産向上は有った)
が、その前、信長、秀吉の頃は、
成長が大きい時期が有った。
その時代はベールの向う。
水野信元もベールの向うだ。

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