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-----no.7970 <<-----2012、06月28日(木、09時)----------

検地は何時から。
太閤検地。慶長検地。
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前の講習が引っかかって居る。
「于時、天正八 庚辰年八朔日
  宇宙山乾坤院田地帳
        丸山祖登 代」
「  納升納所之分
    六百文目 坪ハ
     (以下略)。。。。」
である。
解説を読む。
「織田政権期の乾坤院の寺領の様子を・・・
天正八年八月に織田信長は
佐久間信盛に折檻状を与え・・。
その直前のものである。
・・・
太閤検地でこれら全ての寺領が召し上げ・・
「小作衆」・・・
当時の地名等がしられ・・・
・・・(以下略)
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東浦の町の歴史を調べる人は、
この時期の歴史がわかり、
とても貴重である。
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が、ここに、「信長」と言う字をみて、
ほっておけない。
まだ、「本能寺」は闇が多いと考えて、
これを述べる。
この検地帳を誰が依頼命令したか」である。
先ず、「@「乾坤院」が、自分の財産を誇る」と、
は、到底考えられない。
「A水野氏」
「B信長」
私は信長が水野の財力を調べたと考える。
これが、普通と思うが、異論の有る人は是非教えて欲しい。
財力を調べれば、「「兵」を何人出せ」と言える。
摂津辺はまだ焦げ臭い。
秀吉、光秀らも、中国地方で一進一退だ。
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信長はこの頃は「岐阜」から「安土」に移っている。
そして、「大和検地」などをする。
筒井氏などは反発する。
が、天下の信長・・
水野氏も逆らう力は到底無い。
・・・
そして十年六月二日、本能寺である。
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町レベルで重要だが、
それ以上に「日本史」としても重要な文章だ。

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