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-----no.8171 <<-----2012、0七月132日(金、昼)----------
少し疲れた取り敢えず、載せた。
又、後からやろう。今小休止
------------d2011三の山巡.mem----------p02--p3
-----------------p002b---------------- 三の山巡
    白山登上 
      三山といへば 白山、立山、富士山の事也
加賀の白山、越中立山、駿河の富士、此三ッの山を巡たく、年頃日頃、望むといへとも、 仕官の身なれば、伊勢、秋葉の外ハ願ふ事も成りがたくて、打ち巡しか、 天の恵ミや有ヶん、時節到来,志テよき友いできて、 今年文政六癸未年,入湯御暇の願、済て、当時の役所、 水野の里を(p03a)六月六日未明に立出、此日ハ天気もよく、 ゆるやかに歩行し。中水野地内、嶺ヶ寺の山を打越、日出る頃、玉のの川を渡る。
玉野村。外ノ原村。西尾村、是を内津、北小木と行べきを山越の方、近きと聞しまま西尾地内、 白川口より左手ノ山へ登り、丹羽郡羽黒山え懸り、北東さして行くと、半道余にして、 同所字ハッソウという所に成瀬候の山守小吏の居家弐軒有、
前を少し東へ行バ、小流有、是、尾濃の境也という、
是より(p03b)東小木村の地内也、同郡同村内津街道の左右に有ゆえ、 此村に北の字を添て、北小木村といふ事、通用也、
小木と斗ハ三之倉続きの尾州領の小木の事也、
此所より、小き坂一ッ越れば小木の郷也、
此村ハ内津西尾の間タより真北に当るなれば西尾の山を越る方、近かるへきにこの道も、余程西へ張出して  廻り込めバ、内津奥の院の道より行も大体同じ道のりなるべし
 小木ハ御旗本林賢次郎殿知行所にて、根本、大原、塩、エギラ、皆同じ知行所のよし、
此所より太田駅へ三里という姫へ懸るハ本道也、
矢廻間へ懸れバ暫く近き由なれども(p04a)山道にて知がたしと言いしまま姫へかかり 半道ほど北へ行ハ峠有、
此峠打越せバ打開きたる在所にて姫も此谷間の内也、
今村又半道程北え行、根本、大原より、今渡への往還也、
少し西へ行、姫村也、
此姫ハ親村にて本名下切村なり
姫とハ、下切、今村、大藪、大針、塩河、此五ヶ村乃惣名也、
姫の郷、姫の庄などにもあらんこと問へど其訳不分、暫く行て久々利川を越、 又、蠏川を越也、此所川出会也、
出会の上を下田尻といふ、久々利川ハ砂川、蠏川ハ底一面に白子(ね)ば也
久々利川の北山ハ、南山ハ赤土也、
此辺より(p04b)大田へハ大体戌亥さすと覚、舟岡村。
野村を過て。今渡村,渡場少し東、人家の間へ出ん、 太田川渡舟賃二十四文つつ,を越二丁程行ケバ、右手に一軒家有、
又三丁程行て、又一ッ家有、
此軒下タより北へ入、高沢道也,
是ハ間道にて少シ近し本道ハ太田宿を西へ行越て行よし、 此間道より東蜂屋村を通り加治田へ出しが、松生或ハ田畑にて知にくき道也
蜂屋村を通りし頃、夕日かがやき口の乾く事、頻りなれば、 茶菓子に枝柿一ッ給行んと尋ねしに(p005a)
去年、柿、払底にて、至て乏しくて、ソコココえ行カバ、持合せもあらんと、云しまま、 道端の柿師と見へて、柿釣すべき小屋など有、
家へ入尋しに御上りの下残、三ッ有とて、是を出す、
去年ハ至て、柿乏しく、青柿にても一ッ三十文ツツせしよしにて、中々高料也、
など其外、柿乃事に付、種々の自慢を云ふ人、其内に汗を休め、
扨、柿の代を問へは、高料の品なれ共、御用の柿壱ッ御年貢米一升ツツ也
只、三ッ迄に付、振舞共苦しかるまじ、壱ッ(p005b)二十四文ツツ二致すへきよし、
一ッたべ、此家を立出,是より・加治田え懸り、同所片町吉野屋卯兵衛所に宿る、
此所に清水寺とて、京の清水の,写しのよし、
景色能寺なり由に付、詣でたり二王門杯(など)在、暫く登りて上二小院有、
観音堂の左手に滝も有、境内桜楓なども有て、花紅葉の頃ハよろしかるべし、
此村は、御旗本大島隼人殿知行所のよし、水野より加治田迄拾里よりハ遠く覚ゆ、
加治田ハ酒のよき所と云々(p006a)
七日晴、朝の間、少し雲出、宿を出、町裏に巾,三四間斗の川有、
此東堤を丑寅さして登る事、七八町にして、伊深村、此戌亥隅より山へ懸四五丁,行、
峠に茶屋弐軒有、是より高沢迄、壱里半,といふ、北へ半道程下りて、神野村、
此郷中に津保川有、
是を越に石に水垢有て、すべる水を,クルフシを過る有る也、
是より高沢へ 亥子をさして行,壱里に近し、山坂を越て下り観音の門前也
家五六軒有、高沢とハ、地名にて下の保村の地内也、太田にて言
高沢にてハ泊りなるかたきよし(と)いへども不自由さへ (p06b)不厭ハヅ御番の居家にて泊り出来るよし
春ハ境内に茶屋懸して売物も有よし
  是より観音え二丁程有よし少し上りて二王門有古体の造り也、
絵天井ハ文化の年号也、
是より壱丁程登りて、観音堂懸作り也、
京清水を写せし物とぞ、石檀三十階梯二十登りて、室前の堂,南向龍峯寺二十五番坊二ヶ寺あり
者流々々と尋ねて登塁 高沢乃, 三祢のあるじも法の声哉と、室前に額有、
御堂の後ロハ厳壁にて小き(p007a)洞有て、五輪石仏等有、
冷水湧出る堂の左に籠堂有、長五間巾二間 畳弐拾畳敷也
近郷より雨乞とて三四十人も,来り、千渡参りするとて、此堂より壱町程まへ, 薬師堂え此観音堂と、あちこち廻りて、銘々,度の数取りに木の枝を持、 一度参りてハ一葉(ok)つつ,ちぎり置て通ふ事也、
観音堂、薬師堂との,間に二重の塔有、
薬師堂の西に寺も有と,見へて鐘楼様見ゆ、
須原へハ籠宮の左りより,登る上有知へハ二里有テ西にあたる須原へ戌亥さして登る、
此山道二(p07b)三十三所の観音壱町毎に立てり、 是ハ山打越てあらたなる上有知,の枝郷樋ヶ洞西の坂口を一番として 高沢観音迄三十三番を一丁毎二同当に立る也、
籠堂より十町堂()楢投山巳二当富士本宮 午未二当、籠堂十三町登りて、 下り六町にて往還上有知より津保金山への道是也
標石有、
右ハ津保金山道左りハ高沢へ十八町とあり
  是を西へツマ下り七八町行、樋ヶ洞の入口,此所より右手二細き道有、
流に添行、須原えハ壱里二遠しと言、樋ヶ洞より上有知へハ, 壱里二近しと云
郡上八幡え八里也、右入口、流に添、三拾町も来つらんと覚しきに、 左に西江、土橋有、
是ハ保木脇村、河合村 (p008a)猶奥筋より上有地への往還のよし、
此橋を左に見て、少し行ヶバ、郡上川也、此川に添、東へ五,六町も行、
此間、日陰にて,至て冷キ所也
  郡上川にてもいうを 是より又北えゆく事,四五町にして保木脇村也郡上川にて手いなを 持鮎をとるを見、
此辺の畑桑梶茶第一にして,作物ハ桑楮の間ダ、間ダに作り有、
須原ハ河西渇にて河和へ廻れバ、半道も廻り也、
須原の宮川,手前より、舟を呼ハ、須原の舟にて、渡し呉る由河和へ廻れバ、 舟賃三文,須原ハ舟賃十二文と云
保木紹郷の端シ寺の前より,(p008b)左へ田面中を川端へ出レバ、上手の方ニ須原宮,見ゆ、
此所の川向、須原の御山の由にて桧雑木立にして、苗木の城山を川東より見るに似たり,
此川端、少登り舟を呼ハ渡呉也、川端に鳥居有門ハ、熱田宿の御門に似たり、 宮左右に三棟有,拝殿、其外、都て桧ハた葺神前、正一位白山大神と有、
都ての造作手をこめてコウコウたり、,宮の左ハ、社家数軒あり、菅葺の屋根なれ共 皆立派也、
神殿の絵馬、貞享、元禄等にて夫より,(p009a)古ハなし、寛延年、 郡上城主より上り神馬の,絵馬有、
本社並門の箱棟にハ、弐ッ巴を付たり,門に戸なし、門の右手に小き石のそり橋あり,
熱田二十五梃橋の風、此橋の所より郡上八幡への往還有、
須原の祭三月十七日、四月八日此日,加賀の白山へ、御出のよし、
近辺迄神輿出候由大に賑々敷祭と云、十月晦日に白山より御帰り,なれハ、 此節ハ御留守なりと云、是迄尾州領なれども是より郡上郡にて、 加賀白山御境内,(p09b)と云、
是より郡上郡、木尾、半在、根村此所に八幡,城下より五里の,棒杭有、
是より先、壱里毎に棒杭有、先年飛騨ノ国、中山七里と云
所通りしに一里毎にありありと棒杭有、
連の人、語りて云此棒杭ハ,先年金森城主の頃に立置れし也、
当主宝暦年国替ニテ八幡へ,来たれしか、今以金森殿成置れしまま里数の杭有と云、
サスレバ飛騨も金盛領分なりし故,高山よりの里数杭立しと見ゆ、
下田村にて郡上川を東へ越
舟ちん,四文ツツ 須原より壱里といへとも一里半余も有らんと覚ュ
福野、下刈安、上刈安、武儀郡牧谷と郡上境にフクベヶ嶽とて,高山有、
名古屋より見る恵那山の形也雪の,早く懸る山也、
此裏山を四月,刈安より見るに雪のこりており、三日市、相戸村 友四郎と云者に宿る、
木尾村ニ郡上郡三り杭有りすべて郡上郡の内ハ夏日蚊帳なし、
此辺鮎の,名物のよしにて、漁人鮎を取て来りしを(p010a)友四郎買取一番鮎を酢にして食せしに, 風味至てよし、
此辺の鮎ハ、首小り、腹広く丸く丈ヶ短く覚ゆ、夕飯のさいに焼鮎を呉、
又夜に,入て、又、塩焼を好て喰、三度製し方の違ひし
右の風味格別にありし、城下の入口の辺に,梁有て、鮎を取事夥し、夜中雨の音頻り也
七ッ頃と覚しき頃、目覚しに、糸引の哥唱ふ,聲して、賑なれバ、夜明るを待て、起出しに 小雨降ッて不止
(p10b)八日雨糸引ハ一粋、まゆ五合として、一鍋に五合入也
湯くぉぬるまして、まゆを入かき廻す内に湯も,煮る枠を水にて濡し糸引也、
糸引は子供のつぎ枕程の物尻に敷左の膝を立左の手の平を左の膝の上に置、 指にかけ様、左のごとし 枠にウツス方,  まゆ口下ヨリ ヒキテ上ヱトル,   シけ(あら糸)ヲカケル木 ワク  一ヘン毎ニ湯ヲカヘル ナベ  ブツ付 ココニブツケル,  クド(p011a)木を立、上ニ板ノ丸キ打、 其上ニカサヲノセ置、マユノヒキカラヲスクヒテノセ置也
カサ , 又、マユヲ分テノセ置,鍋の内湯玉かへレバ、水をさす竹の箸にてかき廻す、
水野辺にてハ桑の枝ナラテハ,糸口出らすといへとも左にあらざる也、
初にかき廻す節の口を取、是を大フツッケと云、
二三尺も長き手ガラ,に似たる物”一シケ”トハ’ロ’の 出さるを云、ソロといふは,枠木ニかける也、初にかき廻す時も打ち水を入 一引終て、又枠ノ糸を水にてぬらす也,
宿立出る頃、小雨降、此辺、茶所にて茶の頃ハ物貰いに茶をやる、茶ハ四月の内、古葉共に,(p011b) 摘、サナにてむし、飛騨へ送り、夫より越中へ送るといふ
・梅原、名津佐、東乙ッ原、此辺蚋多きによつて 如斯なる物を作りて, 腰にさける、
上ハ竹の皮,又ハ、ホウの木の葉に包ミ、中ハ稗ノ穂のタタキカラ,又ハ、古筵ニ火を付、いぶす、
蚋ハ煙りを嫌ふゆへなり,多ばこ火にも用ゆ、たばこ入はケヤキにて 作るホクチ入ハ角にて作る、
ホクチハ麻カラを焼て,作る、
又、栗の木ニ出る、猿の腰ヶけを焼て、ホクチニする由
(p012a)ヒモ  タバコ入  ホクチ入
此辺ハ、大かたフトキ麻を着る、立ツケかモモ引か,分らぬ物をはく、
カルサン,ナラン
麻も有、藤の皮を織たるも,あり、
所謂、藤の衣也、
藤の皮にて織と云、東乙原,入口に八幡より二里の棒杭あり、
辺大がい、北西へ行千虎村入口、右手にホウデンの瀧とて、七八間も,上より落る瀧有、
道端にて下ニ不動の小社有
甚、景(とる)能所にて、是迄の内、目覚しき処也
(p012b)此所の前に 音羽の瀧や、養老にまけす,おとらぬ宝殿の瀧とうたふよし、
此所より少し行ヶハ、右ハ岩壁、左ハ深二十間余もあらん切崖にて,
狭き曲り角なれハ、五六寸角の木を以、拾三四間の間、高三尺余の手擦りを付たり、
其余危キ所ニハ,大材を投渡し、人馬の怪我なき為の手当とす
此辺、楓なども多く見へて秋通らハ、詠多からん,此所に、ホラ貝草の黄咲有、
春秋ならハ珍敷,花も有べけれども夏の末なれハ、目にとまる物も,(p013a)なし、
花咲ものハ、合歓斗にて常ハ美しきと思ふ花なれど先キの赤きに日の照称ふて殊に,
あつき心地して、見ゆるもうし、郡上郡の内へ入てハ、欅大栃等の大樹多く、
道端に豆蔦、岩たばこ,天文字草、孔雀草、カタクリ草等、大体間なく有也、
此辺の村々の出口に村名を記して、立棒杭,有て、よくしれて、道はかの便りとなる、 この辺のかぶり,傘、檜傘の六角也、
是ハ、檜の根を薄くへぎ、あじろ あみて、作りたるもの也、八幡城下より三里程奥,(p013b)往還より左手 一リ程山江入 ヲチべ村の産のよし、此辺平家の, 落武者也と云
 一蓋 五六拾文よりよきハ弐匁程も有と云、
おちべ傘といふ,穀見村、中野村辺より、雨晴て、 雨具をおさむ、中野村,にて、麦のから先をもやして、野にも捨、川のも流シ 居るゆへ、農夫に問へば、此辺にてハ、麦ハ皆、穂首,よりもやしてこなせば、大に早しと云う、 麦からハ用に,取立、屋根ハ山萱にて葺ゆへ、麦から入用になし,とぞ、
扨、此辺ハ、瓶類ハ、 一向なく都て、桶にて、中野村,より、田面の肥溜、皆桶にて一ッに屋根葺きたり (p014a)八幡の城ハ山城にて、四万八千石青山大善亮領也
城下の見付西向へ入町口丑寅向、新町といふ一町半も,あらん、
行当塩屋町左白山、道なり、 城下を見んと、右へ廻り,見物す、
町中ハなへて糸引也、
真綿を作る所を見ゆ 是ハ二ッ三ッ一諸に作りたるまゆを撰出、わたにする,事也、
わら灰のあくにて煮る也、
灰汁ハ至て 強かよく、砂越にて清水の如し、藁の灰汁なれハ,不出来也、
まゆにあくをしたしたに入、 煮加減ハ、ツマミ,見るにヌメ〃する内ハ、不煮也、
ハシカユリ成たる時,(p014b) よしと云、素人にてハ一ッ取、水へ入て見、まゆ形の,有内は不煮也、
グシヤリとしたる頃あげるなり 綿に、作る事ハ、水へ入、まゆを割て、中指より末三本,の指に懸、まゆの裏を外出し虫並糞を悉く 洗取、まゆの薄厚によりて、四ッも五ッも同様に,重子ル也、
水よくシホりて、其後、板にて、 三枚ツツ重ね,つぎに包ミ、能しぼり干也、
よくしぼらされハ、白く,ならぬよし、 巾八寸、長壱尺五寸という物なれと長ハ,壱尺二三寸斗也、
と云、是を二ッに折、ひもにかけ (p015a)乾かせる也、まゆむくハ、口よりむく、横よりむきても宜,しきよしなれとも、 口の薄き方よりむく方よしとす,ワたむきハ一向なき様にて、此城下にも四五人なら テハなく、在々にハ、一村に壱人位ならてハなきよし, 
如斯、’フゴ’ヲ’ゴザと’云、ナラの木、又ハ, 竹にても作る、色々の物を入、
背負, ありく也、茄子様も入売歩行を見る
折角行き参れといふ事をタメラウと云、オタメライ、ナサレテ行カッシヤレと云、
ケガナク大事に行ヶと云事也,(p015b)城下町中に大橋有、長三十間もあらん、郡上川なり 此名、聞洩しつ、夫より大手先様見物して、本町鍛冶,屋町、職人町、大手先横丁を 南へぬけコクラ川の,橋を越、尾崎町江出、此処肴屋有、
鱧勝れて風味よし、皮和らかにして、 モチモチとして大也、コタラ谷より,出るを、殊によしとす、
又、あまごと云魚、賞玩なり、
其色并フますに似て身の白し、骨至て和らか,にて、老人歯なく、又、子供食して骨立事なし
上有知辺にあるよりハ、大にして鮎よりハはるか賞,(p016a)味す、此尾崎町を四五町行ケバ、 西より巾ノ七八十間も,あらんすか川流ル、城下大橋の川と一ッに成、
是より 下、郡上川と云、西の方より来る川ハ上ノ保川といふ,
大体亥をさして行、五町村、 北瀬古村ニ一里の棒杭有、,河部村出離に二里の杭有、
クルス川、土橋徳永村 大豆川橋有、鶴来村、此辺の屋根、皆図の如く、鰹木,のようなるさま也
 、勾配至て急也、
雪のたまらぬ,為也、
中津屋村の出離三里の杭有、
大島村屋根に,押木なし、オンドリ也、
山萱葺にて、其ダダクサ,p16b,なる事限なし、
大風の跡なりとも、かかる埒もなきハ 尾州辺の在中にハなし、
又、川有、クロゴ川、尺四五寸の,材木を四本双へ、石の中嶋有て、 又材木並べし橋也,
前のクルス大豆、此クロゴ共、皆石川にて巾弐拾間程 づつもあらん、
是を越、為実村、五六町行、
白鳥村、是ハ,町並にて、八幡より是迄の村立也、 左手に佐二郎後家,とて(やはない)福家有、
先年、八幡町中へ用金三百弐拾両 当りし時、此佐二郎ハ六百両出せし時にて此領分の,福家と云、
此家十年程已前(以前と同じ)、 飛騨の大工の建し由,p017a,宿並の本陣体の家也、表にトツナキ有て、御成門も有、表がは、 五六尺ニハ、節一ッなく京大阪にも,有ましきやうに所にてハ、いへとも熱田赤本陣よりハ 小く覚ゆ、勝手より裏迄も入て見しに、随分富家,とも見ゆれとも、其所の分現者にて他に くらぶへき,物にあらず、先六百両の調達を日本一のやうに咄すにて,知へし、 此村ハ都て、板葺にて、板押迄も竹ハなく,皆木也、寒国にハ竹ハ     生たらぬ物也
、此村の瀬之上、新兵衛にやとるに,庭に小便所有と云しまま、 尋るに、不見、能みらバ,p017b,大成桶(だいなるおけ)を埋、上に、木を渡し少し口を明ケわら 宛有しを、漸く見付て、是にすル。所にて色々,替り物也
、焼物類ハ更になし、紺屋斗ハ瓶に あると云、竹も雪にて不立、たまさかの藪ハ雪降,前に拾本二十本程つつ一ツに縄にて包置とぞ 雪国にハ巻竹と云事有、此事か、是迄八幡より,五里といふ,九日朝曇四ツ頃(午前10時)より晴、 白鳥を立出、郡上川西へ,打越、二日町村、長瀧村、此処に長瀧寺と云寺有 p018a,此辺の大地(主はない)也
、奈良の都の時の鬼門除の寺也
しとぞ、門前に下馬杭あり、 是より三町も行、大門也
,両側に寺家有、大門を入ハ、向に拝殿長十四間, 巾八間 本社 白山権現也
、社箱棟に鷹の羽を付たり、左手に,大コウ堂と云物有、近年建替たる由、古へハ二十間 四面なりしか、今ハ十八間四面也
、講堂中壱丈弐尺の,大日左釈迦、右ハ弥陀拝殿に横九尺竪六尺乃 神馬二ツ有一ツハ神馬,一ツハ野馬天正十六年八月三州池鯉鮒,宝泉寺書之と有、是絵馬の作様、 戸のやうに,p018b,横にサンを打、竪に板を何枚も双へたる物也
、今の様、上を        山形なりにせす 又三尺ニ弐尺斗の古き絵馬二ツ有、年号不見、神馬,にて是も至て古体にてフチハ別になく墨にて 塗(てはない),たるまま也
、古法眼ともいふへき体の絵也
、拝殿の,隅に光仁天皇御寄付のよし、 釈迦普賢文殊の,三佛を安置す大コウ堂の南に経蔵有、此経立,庵より渡しまま虫も不食寒国            ゆへか 唐の世の一切経にて,聖武天皇御寄付のよし也
、今日本にて往古 渡し経の全きハ此寺斗也
とぞ、扨、鐘楼堂至て,p019a,古体にて珍らしき作也
、鐘ハ奥州秀衡寄付の由 にて、古き物と見へ、無銘にて年号なし,丈ケ五尺余有、此鐘楼ハ文明ニ       建しよし、堂柱十二本にて, 八角ニ建しもの也
 此所凹ミテ、ヒクシ,石灯籠有、正安四年と有、高壱丈位也
、古代ニハ手をコメ タル燈籠なり、外にかな(金)燈篭,知多郡より上りし由、年号元応也
,p019b,正安四年より文政六年迄、五百二拾三年になるなり,寺中六坊有由、昔ハ三拾六坊         有しよし  外に門、並、殿堂破壊し,門も堂も立ながら屋根破、壁落、草茫々として 狐狸の住かと成やと、見へて、いたましき体也
、往古ハ,天下作事なりし由なれ共、 今ハ八幡よりの作事にて,大コウ堂も文政元の棟上と云、木材ありて其余に 千金も入しと云、因、外々迄も手入不行届、と見ゆ,此所、越前へハ程近く、至テの辺土也
、 此辺迄も女ハ,都テ、糸を引、厚キ木の皮にて、箕を作る、何ノ木と,p020a, 問へハ、コウタルミと云、沢クルミ,の事也
 八幡の城下にて槻(ケヤキ)の 皮の箕(ミ)も有、近所より出ると云しか、此辺より出るか、此村を 出離、木賊の細き物多く有、此辺、川端に柳を多く,植ゆ、水の防にてもなし、 又、葉を肥(こや)しにもする由,二十町余も行くあたり、皆柳にて、珍らし、此先川 東西より落合、東より来るをスミノ川と云、奥にスミ村,有と、西より来る前谷川少し行て手引石あり 右飛(騨)州,左白山 左へ行、前谷村也
、此村にて昼也
、爰(ここ)に 越前の者、休ミ居、胸に、ムナシメといふものを当居ル,p020b, 是をムネにあて穴より着物のエリを引出し,針にて突通し胸のあかぬや(よ)うにしたるもの 真鍮にて作り、針ハ蝶番ひにした物也
、阿弥陀ヶ瀧,村間ヶ池といふも、此村地内にて壱里斗の廻りの由 に付、案内をとり見物す、賃銭百文並外道連とも三人, 荷物、被持候付、外に三拾弐文取 半道余、山を登、東へ行、村間ヶ池、是ハ山の上に長さ,四五十間巾三十間もあらんが、 くろにハ藻(も)なと生,真中、五六間廻りハ藻なともなく深き様子なり 此池、百日の日照たり共、水減する事なく、いかなる,p021a,大雨にも、溢る事なしと也
、 鍬を入れバ、大に天気,忘ると云、蛇の住たると、近郷言ならハす也
、干損の 節ハ、此池へ雨乞懸る由、夫より北へ当、二十丁及も行,阿弥陀ヶ瀧の入口也
、 此辺の山、所々焼て、作物仕付る也
此節、焼所も有、今、木草を刈倒し、暫くからして,やかんとせしも有、 、焼分ハ、菜、大根、そばを蒔、,,と云、石斗の所も、焼て、あるゆへ、何を蒔といへば 石の間ニハ、菜を蒔に、土斗よりハ却て、よしと云、,此辺、土用に入レバ、大根、蕎麦を蒔と云、 扨、阿弥陀,p021b,ヶ瀧を見んとて、背丈に越たる木草、踏分、登る事 六七町余、西さして行也
、瀧壺の辺、拾間余、四方の,平にて、西と南ハ、岩壁、北ハ山にて、 樹木生茂り、岩の,間にも、木草生て、西の方、岩の真中より、瀧落る其 景いわんかたくなく近辺、霧雨にて、寒き事、堪かたし,瀧にうたるる事は、成かたし、 瀧壺ハ青ふちにて、深く側へも寄かたし、着物をぬぎ、片側へも、廻り後ろへ入 裏瀧を見し也
、瀧の左手に岩窟、横拾間余、奥行 五六間も有て、石佛あり、瀧の落る高、百間と,p022a,いへども、左にハあらす、 三,四十間余にも見ゆ、大山を登り,下りたる目には、都て、小ク見下すゆへ、慥(たしか)には見極め がたく片側より、つたひ、後へ廻り、瀧を裏より見たるに,景いと面白し、此瀧の山を前山と云、 白山の南の,はしの前と云事也
、此山より白山の奥の院まで、,山続き、是より白山の山也
、 さるゆへ遣境、此瀧壺へ石杯、投込投して、いらふ事あれバ、不時に空 あれてひやう杯降て、田面の害になる事あれば,此前谷村より番所へ、執取りみだりに人を入ざる也
p022b,此瀧、郡上川の始り也
、白山ハ加賀といへとも、奥の院,少しかがの地に懸るゆへ、 加賀の白山といへとも山ハ,此郡上境より北へ長て、西ハ越前、東ハ越中の境にて 加賀にはあらず、此所より越前道へ山を越行事,近しといへども、中々踏分かたきよしなれば跡へ戻り 前谷村の北の出離へ出る、此瀧の辺、夏雪の花盛り,紅ノホラカイ草杯有、立木にてハ桂、シナ、 其外、見馴ぬ,物あり、此村出離に国境の番所有、足軽体の者,壱人、有之、此所に立寄、 茶を貰ひ、飲てこれより,p023a,坂を登る峠(美濃、越前)境迄壱里といへども遠く、境 此峠、東西へ続き東ハ飛騨信濃等へすぎたると,覚、左の並ハ日本の地も此辺にて、馬の背中の根ニ 高くなり、両方へ下り辺様に成たる物と見ゆ、或書に,信濃ハ,日本の中にて地面の 最、高き国なりと  尾州より北の端と覚しき高山ハ,此嶺辺りにてやあらん、尾濃案内の者云、 北の豊に見, ゆる高山ハ前に見へたるぬくべか 嶽にて此山に支へて越前辺の,山々ハ篤とハ見へなりかたし、此東少し寄り高き山ハ大日ヶ 嶽といふて、二三月頃迄に雪、不消、岐阜などよりよく,見ゆるよし、の山も小松迄も見へて 十二三町もあらんと,p023b,覚ゆ、阿弥陀ヶ瀧に道にて、見しに、此山のミ雪 か々りし山なれど、今ハ前ニ云如く、間近く見る,白山も此峠にて、初て見る、雲かかりて不始ハ見へず 扨、南を見、晴れに正敷、ミロク、富士、本宮、小牧の山々,ありありと見ゆ小牧山、巳午、 富士本宮巳、是東,弥勒山見ゆる、白山ハ戌亥ニ当レハ、方角も的当 せり、前にいへる、ふすべヶ嶽へ登りたる人の云、ふくべ,ヶ嶽ハ、大日ヶ嶽より、近けれハ、 西美濃下笠輪中、尾州の,地ハ猶更好らかに御舟蔵様もよくなりて見へ舟は p024a,木の葉のことく帆柱なども、河に渡るゆへに箸の 細き如くに見ゆるよし・是より越前へ一里ほど,下りて大野郡石徹白(イシトシロ)村山 たばこ多し、是より,白山の麓、社家住居の方迄、八町といへど十四五町にも 覚ゆ、此辺、松絶てなし、田面中、其外、森、林、山共、杉多し、 尤、雑木ハ有、森林、都て杉なり、今宵ハ社人,杉本周防守所ニ宿る、倅を政丸といひて十二才也
とそ、 先ツ、宿へ着ケハ直に’コリセヨ’トテ神前の川にて,垢離掻く、其まま湯あみもせずして寝る、 朝未明ニ,p024b,起出、又、コリセヨ’と云まま、前夜の如く手水をも遣ハす、 右川にて、コリスル、霧雨降て天気いかがといふに,昨朝も斯のことく、随分宜しからんと云しまま登山 の用意する内、夜明て、見れハ、雨にてハなし、’ナゴノ,内の霧雨也
、石などぬれる事なし、郡上郡へ 這入しより日々北に雲有しも此辺、高山ゆへ雲の,絶間なきニとぞ、前夜に案内者を引合置壱人弐朱也
若、雨天等にて、山に幾日逗留しても賃銭に替る事,なしとぞ、朝ハ案内の者宅より弁当持出つれとも p025a,其後は雇ひなる人より、支度される也
、山上にて焚へき,米も、持登るへきの処、 当年ははや、山上へ持行て,売由,なれハ、夫ニ不及、石徹白の社人ハ、麓の宮の守 斗にて、山上の事ハ越前平泉寺持にて、別山の室、,麓より(六里)本宮の室麓より(八里) 平泉寺百姓のよし山ニ詰罷在也
是を強力と云、上石徹白、中徹白、下徹白、小谷堂、三面(サツラ)、右六ケ村、白山領にて、 何程の高を社人、何程ツツ,持居候と申極もなく、社人、百姓先ニ々持伝の高を 作取のよし、社人ハ国々ニ檀家有て、廻檀致す事,p025b,のよし、扨、白山の麓に宮有、 此宮の軒下ニ印籠石,と云有、といひしゆへ、さがして一ツ二ツを得、猶、社人拾ひ えしを、貰ひ来、<>如此也
、色ハ赤も黒も有、また,小谷の内、川筋に俵石といふ物有、 俵形なる物とぞ,石どしろより、三里程西、折波村川筋へ、何にても入れ 置けバ、石に成とぞ、黒百合、雪鳥の事ハ、熱田大宮司へ,此社人より図を遣せし事有と云、 黒百合も今、盛,ならんと云、国元にて聞しに、白山ハ六月土用に入たれハ 登山成かたき由、又、途中の咄ニハ六月朔日、道切,p026a,よし云者も有。 社人に是を尋ねしに、道切,(生茂し木草を)(伐て道直す)ハ、朔日二限らず、 田方の耕作を仕廻(しまい)て,其翌日、道切する事にて、年々極りなし。当年ハ 明日、道切する、道切ハ前にいふ六ケ村、皆出、一夜は,途中に野宿して、当日に上迄切開くよし (明日とハ六月)(十日の事也
)当年ハはや一両度も登山の者有り 毎(つね)の土用央(なかば)頃程、雪も消たる由にて山上え米も 持上り居るよしにて、摸通宜しと云。夜前食の菜に,アマ菜と云物を煮て呉し。是ハ山上に有物にて p026b,山上の案内せし者、取来る事とぞ。甚珍らて,よき物也
。当社家にて御山の図、御礼出ス。 泊り賃,三人にて五百文出す。わらんず(わらじ)三足ツツ持、壱足拾文ツツ。 山上の砂並木草等取にハ代りを持行ケバ苦し,かるまじきかと、云によろしと答ふ。山上するに 刃物、角類、皮の類を忌(イム)とて、禁ず、因て、腰もの,角皮の類、案内の云に包みて、 背負世たり(是迄)(社家),(にて聞)(たるなり) 十日朝、一面のなご(もや)にて、霰、雨、降、(前に)(見ず)されとも雨に p027a,あらず。コマカキ物ハ降(フレ)共。石様(など)ハシメラザル也
。扨御山に 登らんとするに。木山三里、笹山三里、砂山三里と云。,社家宿を立出。鳥居有て道端に猿田彦の 御腰掛石と云有。宮川橋(昨今コリシタル川也
、橋ハ大材を)             (二本両方より投渡、中に橋台有) 本社入口、大チヤウ大師と云ありて詣ス、是ハ最初,山を開し人と云。本社前夜詣せし故、一寸拝して行 印篭石ハ、此軒下也
。昨夕詣てんとて、コリせしに,近辺の子供、賽銭を拾ハんとて、大せいつどひ 待構居、なげし賽銭奪合て、拾取、猶も、なげよと,p027b,云しママ、ばら銭を投れば、 コロビタオレテ拾ふ、右,本社の御前を通直に山へ登る雲霧、覆ふて 天気の程、覚束なく、おもふ。此辺、榛多し、十町程も 来つらんとおもふ頃、左手二大チヤウ大師の斧の,跡とて、石に跡有。斧を打立しとも可云あとなり 是迄、弐丁ならてハ、不来と云、暫く行て少し下り,川端にかかる、メツト川、カオレ川等有、 川端の石飛越,〃木の根等にとまり、或ハ、岩の足懸場もなきを 上り下り中々難所也
、四十才以上、可行所にあらず,p028a,(サレトモ六十七才の者参詣せしと云も) (あれば必しも云かたし、壮年ならでは行かたし)又、木草踏分行 此辺色々草花あり、うど()の壱丈余も延立先きに,莟持たるをも見、暫く行て麓より一里の場所とて 此所にて手水仕(つか)ふ(弐り及び来つらんと)(云へば此壱り大二遠シと云)是より又登る事 急也
、ブナと云木の大樹多く有、又左手に今清水,と云小社有、此少し先キに大杉有り、七抱有、此先キ 右手に大石有をヲタケ石と云とぞ、暫く行、又右手に,小社有、この鰐口の銘、尾州春日井郡小牧郷住人 大馬次郎衛門勝家、天正四年金剛童子とあり,p028b,是より八丁程上、女公石とて石有、 此手前、馬の背の,様成所行しに、左手の谷底より、夥敷雲出、風と共に 山に添、登り通る道を打越、又右手の谷に下り,前後見へわかす珍らしく面白き様にて恐し 此前にて三里来りしとて支度して暫く休む,西より黒雲出、東北の山間より白雲眼下に行 違ふかとみれハ、又後へ北の谷より黒雲覆来て,雨をふらし、須萸の間にさまた(?)と替る也
、 此辺よりハ,笹斗にて春の草々、夏雪、升麻、其他花咲出る p29a,風ハ十月十一月頃のさまにて、篠笹、カタトリ、日受に 居さへ寒し、是より暫く平を行、一ノ峯、二ノ峯、三ノ嶺 と云を登る事、甚急也
、皆登り多くて、下り少し,二ノ嶺の辺より黒松五葉松等、皆ひらみ、先ハ枯たり 草花いろ々有、此跡、母公石の手前にて、前後も,見へす、真黒に成、少し薄らきたる時、向の山に (一,二りモ、アラン)高サ二三丈もあらん、巾八九尺斗有、白きもの 立たり、案内ハ暫く先え行いヶ成物やと、肝も消,能く見れハ、谷間の雪也
。此所にて初て雪見る p29b,二ノ嶺少し下り、釈迦堂有、此鐘に春日井郡,蓮花寺村、文禄四年とあり、三ノ嶺甚高し、鬼岩 て鬼の面に似たる岩道の向に有、三ノ嶺越、初白,雪を踏、是より一里半と云、(別山の、室迄也
)是迄四里半と云 しか、七八里も来し様におもう、(朝早き積りにて、出たれとも雲霧                (籠り居たれハ、日の出頃二もあらん乎) 此所にて七ツ頃と覚、是迄水も不飲、漸、此雪にて,口をウルホス、此辺にアマ菜も有、黒百合も少し有 其他、種々の草花、今を盛と咲乱甚見事也
, 刈安坂、銭坂、ワカ尾、大石持、小石持などこへて夕方    p030a,過に、別山の室に並(此辺の笹原に雷鳥の), (羽落居候事有よし)大に草臥 たれハ、飯をたべ早々寝る。米味噌、室にて、買、汁ノ実ニ,アテ菜を途中にて、 取持並イサヲイと云木の根,取来て是を煮(イサヲイハブナの木ニ出来るものにて)       (鼠色也
、木山の内にて取、ブナノ木、大樹の倒レ、朽) (クサリニ),生ス)  此室、長六七間ニ梁三間室にて一人前二十文 是ハ宿並鍋等借候代也
、山銭百文、美濃の国須原,より、奥郡上郡の者並越前飛騨の者ハ氏子なれバ 山銭一人七十二文ツツのよし、別山にて出す、別山ノ宮の,賽銭十二銅も、此所ニ置行ケとて、 差置せる也
p30b,十一日、朝晴、未明ニ出、別山の宮ニ詣、(神にあらずして正観音(にて葵の御紋付なり) 案内のもの自身ニ戸張を開く故、勿体なし、開,ずに、置ケよと云ハ、参詣に来て不来に行事の 有べきかとて、戸張を開き、よく拝メよと云ま々,室にて賽銭ハ済たれとも又二三段上て詣、此崎 案内のもの取て行也
、麓より、所々に詣行有、其崎ハ,皆案内のもの取行也
、此所にて日の出を拝ム、今 御来迎の出来るらんニ、拝メと云、西の方に雲の立,たる在、あの雲にデキルと申せしゆへ、見居たるに p031a,雲中少し白ジャケたりしかハ、今拝マレサセンと云しが、是ままデキズなりぬ、 少々雲の遠きゆへデキザリシとや、イカナル物と云に、アノ雲の中に 丸く虹の色したる物出来ん、是を御来迎と云となん、日と雲の照合のあんばい也
、暫、 日上り玉いてハ出来ざるよし、是より前、別山室と別山宮との 間に屏風岩、四海波なと云所有、扨、別山の宮を越、小ノゾキ、大ノゾキ、アブラ坂、(至て急なる)    (下り坂なり)是を下り切て,谷川有、畜生谷とて、足のも、水を付るなといふ p31b,是を越して、又登り少し下りて、又流レ有、’コリ’スル 川也
、馬頭観音有、此川片側に雪有て、此水の,つめたし事、手拭ひを洗ひだして、しぼらんと せしに手でへてしぼりかねたり、御前坂といふを,登るに、サイノカワラとて、石を色々に積たる原 あり、是を越せハ、御前室、是にて昼支度して,嶺にて、’わらんじ’ぬぎ替る事のよしにて、一足代り を持行事也
、此途中に池二ッ有、一ッハアイの色,ミトリケ池、一ッハ’ アフラノヤウノ色カキ色の様ニ覚,p032a 扨、絶頂本社十一面観音也
、当年焼失「イワウ」の吹,しか、雷火にあらんかと云、 雷火にても有べし、当,四月頃にも候と云、此焼失の跡に、白山大権現と 棒杭に記し立たり、此所にて’わらんじ’ぬぎかへる, 事也
、奥の院ハ弥陀如来也
、(わらんじをぬぎ捨去,(土を惜ミ玉ふゆへといへとも) (左もあらハ麓より、少しツツ土持上り度事也
、かかる高山ニハ正清に有度 (事か、然かと、古わらんじぬぎ捨事残念也
、皆此愚痴より申ならわし (たる事,なるべし)(先きに畜生谷の所にて、案内ハ先へ行、谷越に呼り此       (川にて、手水使かひ候わんといへども、不聞若此先に水なくてハと 手洗口すすぎなどして行、追付て、案内ニ咄たればアレハ、畜生谷 とて足にも足不付所也
、ココにて、コリ手水ツカウ所也
と云しかハ 少し心もちあしくて又手水口すすぎ手拭までも洗ひ出したることそ おかしけれ、畜生谷の水つかひてもさしていかがと云うかわりめもみへず p032b,(善悪ともに皆所の)(云いならハしか) 奥の院より返り六道の地蔵あり 是まで強力也
、(室に結居るもの也
是ハ平泉寺の百姓のよし        (強力と云、案内の時ハ白きものを着る、所へ銭投させ 持返る也
、戸張を悉く開きて拝ませる、此もの小便したるままの手にて 矢張戸帳をこぶりたれども、仏師の罰当たり事なきものとみゆ、ソレニ 少しにても遅れルものあれハせきたて案内のもの少しおくれても ただならぬ場所ゆへ、大事等いへど是も銭を取の謀なるべし、尤高山故 沖と同じものにて、須更の間にて、天気おこす案内願事なれ とも是ハ天地の変にて人間の後生などの論にあづかる事にハあらざる (べき)(か)奥の院も近き頃建替り金鍍金の葵の 御紋光りかがやきたり戸張の中に小笠原相模守 と云札有(一ノ瀬にて聞しに公儀御作事と云へば最寄の勝山の領主     (小笠原相模守殿より取斗らはれたる事しか 六道の地蔵堂、黒百合有事夥し。白山乃,p033a,黒百合ハ名高きものなれとも、百合よりも貝母江 近きものなり、,別山の御山前迄,の間、種々の草花,咲盛、雪の消を 待て、芽をいだし、いまだ雪、不消、所ハ土中にメクミ,消かかるより芽を出し、花咲さま、春夏の花 一時也
、金梅草と云ハ、黄金の色をなしたるもの,誠に目ざまし、一一、取来りしに途中にて、むせ p33b,くさりしハ、好士に見せんと持来りしも其詮なく,なりぬ、此嶺より尾添通り九里、 加州尾添村へ下る,九りケ間、下りにて人家なし、越前一ノ瀬村江ハ 四り半八町を下る、是も甚、急にして、物に取,付て下ル、坂幾ッも有、御前室より十町斗りも 下りて、暫く原有、此所にて雷鳥子を連れ,居しゆへ、其所へ行しかハ、子ハ隠れ、親ハ其辺を 立さらず、三四間ニ隔てて、少、寄ハ少し退き一向,人におぢざる様子(是ハ子が隠れしゆへ)         (其場を得立ざるか)雉子の雛に,p034a 能似たり、目の上少し赤く、羽ハ鼠色に茶の,ごまがらの様成もの也
、後白く足ニ毛有、 目もやさしく、首も細く尾ハくひなの様,なる立あんばい也
、羽を呉よと立へハ、羽を 落と云しママ、さ(ひらがな)そへども羽も落ず、其内に 跡より、人来り、笹の内へ入、然処出しまま笠にて,ふせとらへんに雉子の子に少しも、 不違、(去頃雉子の),(卵拾ひ来て),XX(鶏にあたためさせ近所に飼置たるを日々に見)  (出立の頃、見しに、大さも同やうに付、かくいふ)足は 雉子の子も太、けれとも、又少太きやうニ覚、指の,p034b  裏の外ハ、不残、毛有、ヒヨコなれハ、足の毛、少し黄,なれとも、親鳥ハ、白く少しうみたる様に覚ゆ。 腹とも、同色、風切ハ、雪白にて、フチに少し黒き,所あり、是ハ御前室にて、強力の持居たる羽を 見たり、けふ見しハ、雌なるよし、雄ハ黒めなる物,といふ、羽をタテハ、雌雄とも羽裏、腹共白しと云、 月樵画し雷鳥ハ、黒色なり、雄にてあるべし,雄、黒きながらも、ゴマガラのフハ有と覚ゆ、此 雷鳥見し場所、笹原にて、五葉松と、ヒラ,p035a,,ミテ、上へハ不立、此所、少し行くハ、 真急なる下り坂,にて難所也
、然処、左手より、夥敷、雲来りて既ニ 雨も降んとして、前後も見へす、案内のもの,いふにハ、雷鳥を手させハ必、空荒る也
、子をとら へし故也
、といふ、いぶかし、(雷獣ハ雲を乞て、雷を催し), (雲に乗、歩行と咄に聞ケハ雷に) (いか成、縁有事か),(其わけ分らず) 常に雲中に住故、斯いへるか、雌のミ 見てハ、足に毛有て、たくましき所ハあれど、目さし、其外、恐しきといふ、鳥にあらず、此所、段々 下りて、谷有、雪にて埋て、口元、五六尺雪消て,p35b,穴に成たる、側の岩を使ひ、雪の上へ上り、 向へ越,仙人の室といふ所を越、又、剃刀の窟といふ所へ行,しに、雨降出、(八ッ過にも)        (あらん) 此岩屋へ、這入、雨宿りする、 巾三間に奥行二間もあらん中に剃刀の様成,岩壱ッ出たり、此所に佛、数躰有て、皆、首様、損じ たり、いかにと問に、去年の春、地震にて上の岩,下りて、斯、損じたりといふ、尾州にて去春かかる 地震なし、此辺より、布引瀧、見ゆるよしなれども,雲有て、見へず、雨も大かた止たるまま、此所を立 p036a,右手に谷川の音、はるかにきこへ、いと、しん々,たり、(下へ行て、湯治)    (場へ出る川のよし)此岩屋にて二里もあらんと云,此道、大体西へ行、段々下りて、 鳥居有、別山より,一ノ瀬え、行にハ、此所へ、出ると云、此辺より案内より先へ 来りしに、雲も晴、日も照しや、(七ッ過),(と思ふ)案内の者 跡より来り、布引の瀧、見へしと云、行越て見へず,残念なり、扨、一ノ瀬村少手前に急成坂有、八町 といふ、其急なる事少しも、足たまらず、中ほどに,はしごにて、下る所有、はしこの子、十三あり p36b ,急成事、おもひやるべし、下るさへ中々難所也
、 登る事ハ嘸(さぞ)おもひやられたり、此坂八町といへとも 十町程にも覚、下り切て、手引石(右、本宮四り半 八町,(左、湯治場とあり) ========end of d2011三の山巡.mem=========== p037b, ミツの山めぐり,,   金沢一見 嶮岨の坂を、下り切て、夫より、川ニ添、四五町登り 入口に茶屋有、(飯并ソバを売),(随分自由よし)此茶屋にて支度 して、湯に入、平泉より役人詰る所有にて是へ断,湯へ行也
、一日にても逗留すれバ、 壱人弐百三拾文ツツ,右役所え、取立ルよし、行懸りハ其事なし、入湯に 来る者ハ、夫々、宿有て、是へ入、尤、茶屋にては 留さる也
、因、湯に入て、一ノ瀬村へ、戻る、湯屋板壁  p038a,板葺にて、四方に、縁有て、湯室長四間、巾弐間も あらん、よき入加減にて、イワウ(硫黄)の臭有、塩気も有、 入湯ハ昼夜の差別なし、因、夜迄入て、帰る、初め 行く時、皆下帯のまま入レ置ゆへ下帯のまま入事と 其まま入たり、男女入込也
、追々、見れバ、下帯なしに 入者もあるゆへ、後に入時ハ、取て入し也
、下帯のまま 入よりハとりて、能洗入かた、清浄なり、此所も,入湯中のみ、罷越、常ハ人住ざる由、一ノ瀬村へ立 元来りし道え戻、川を下ル所也
、一ノ瀬ハ東叡山,p038b,領のよし、佐々木源吾と云ものに宿ル、 此村、一統,佐々木にて、四十五代程住居する由、四ツ目の紋を 付、此所に、泊りしに、夜具なし、出し呉よといふに,此村ハ土用中斗、宿せしゆへ、其手当なしといふ 銭出すべく間、取賄呉よと云しに、漸、ふとん,壱ツを貸し呉、其一ツを三人をして、引渡寝たり、 (此辺、都而、キチン泊り壱人),(五十文也
、是より、都而、同様なり)、 因、ふとん代拾六文遣ス、此所,米出来ず田には、水稗を植ゆ、斯よき田あるに なぜ、米を不作と問へば、穂出る頃より、寒くなりて,p039a 実のらずとなり、汁を入候器物、片口の木物にて,内ハ朱、外は黒塗、高五寸斗に差渡シ壱尺 程も有、是は是より南に当、打波村にて,作るとて、其打波村にカンスイあり、何によらず、器物 入おけバ、石に成といふ、其村斗かといへバ、カンスイ石ハ 此川筋にも有と云、翌朝、近所の子供拾ひ置て,有を見おる、一ッハ、何木とも不知、上ヱに、 土のかかりて,石になりたる物、一ッハ、柏の葉の石に成たる物少し,銭取らせて、買ひし也
、 入置しものハ三年程過れバ,p39b,石に成と云、銭を買しに土中より堀出したると みへて大かた古銭也
、近頃堀出せし哉と、問へは、当四月 白山の本宮焼ケて、其下より、三四百文も、堀出せしと云う 其銭あらバ見度(たき)といへバ皆使ひ果せしとて、尋様,呉しかとも、一向なし。 寛永銭ハ皆焼て、古銭、土に,マブレテ、不燃、是ハ古銭、年久敷土中に埋り居 寛永銭ハ、石の間なと、上に散し故の事にあらん,かと思ふ、奥の院も七八年以前焼たりと云、雷火 にて、あらんと云、古銭の出しを見れバ、本社の是迄,p040a 焼などせし事もなかりしことと見ゆ、此村、米麦共,勝山城下より買と云、勝山迄ハ拾里也
、此辺の橋、 木を渡し、横にオサ木を置、両脇にも、板木を,束て、玉ブチの様に当たり、此辺、皆一様也
、此所の 川をミツタレ川と云、御前室より、一ノ瀬迄、道なし,字、左に記(しるす)、 一ノ瀬村源吾の咄し、御前室を出,石ノハナグチ、ゴユウ坂、ミタガ原、(雷鳥見シ所なり)               (雷鳥雄ニハ一寸シタ赤キサカ有ト) マト場、黒岩、陀塚、ハツカミ、マナモタ、ヲヒ子リ、 ニウミヤ(ヨ)ウ、畜生谷、(霧有て、コマリシ所)、御馬屋、シヤ々ノ池 p40b,七ッ坂、千人岩、別当坂、ケイ松、ミキダシ、,五輪坂、剃刀岩、石門口、トツサカ、大沢、鳥居、 一ノ宮、カナトコ石、女ノモノ(セマキトコロ)、小社、万場、長石、 川見坂(八丁ノ急なる坂)、此所より、女原迄大野郡の由、此源吾所ニ,石草膏の看板あり、 十二日、晴、此川ニ添下ル、是より四里の間、村なし、(一ノ瀬より四り) 風嵐(カザラシ)(半道といふ)、牛首一り、嶋一り、深尻(半道)釜ノ谷村半道 ゴミ嶋一り、女原村(是より越前の国なり)一ノ瀬村より、加州金沢城下へ 拾八里、女原迄八里と云、一ノ瀬にて二十三のハシゴを見,p041a 珍らしき長きもの也
、殺生禁制の札有、東叡山,領ゆへか、明日湯場にて浴衣着しもの、其模様の 大きなる事、菊或は桐の葉など背中一杯の物,又、娘など常の着物、皆惣模様にて細き帯を 一ツ結ひして、長く下ケたる姿、元禄年の絵姿に,まがひなく尾州なとも百五六十年前ハかかる姿の 今ハ当世に変じたる物か、然るを此辺ハ古風残りて,今斯の如し、模様雛形などいふ、古本たま々 古かね店ニ有て、文字入其外フツツカナル大物様の,p41b 本有、此辺のゆかた、并女子の模様、皆、彼頃の、,風俗にて、百四五十年已前の体を眼のあたりに 見し心地して、甚日嬉し、娘の髪シマタやうにて,櫛笄もなく、色丈長もなく白き丈長を少し 付しままにて尾州在の七八十年以前の咄に,能似たる姿の変らざる事ごとく心タテモ実意多 からんと思ふ、扨、一ノ瀬辺、暫く行、雪隠の珍しき,さまゆへ、左に図す、右辺多二階附ハフの下に 障子など当たり,p042a,藤、口筵ヲカケル、山カヤ,雪降りし時の出入かと思へば 蚕飼故也
、と云、二階にて蚕,飼よし、屋根ハ皆、急なる勾配なり 雪のたまらぬ為なるべし、一ノ瀬を一里半も来て,山小屋にて、大勢糸を引居たり、此娘の姿、先きに 湯場にて、見し昔絵の如し、郡上辺の糸くり様,とハ違ひ、皆大アンザをして、引居たる糸口を p42b,箒木にて出す、糸口の持様も郡上とハ違ふ也
、 さすれば、所々の風にて一様にハ,云かたし、此辺の川、郡上川の,流れに似て南北に替ル迄也
山ノ形、木曾川も矢はぎ川の上なともさして替る、,事なし、風嵐(かざらし)村近辺へ来れバ 薪の所々に囲有、来事、カ夥し,九尺弐間斗ツツある木を図の如く 積たり、此木皆、弓形ニなりたり,p043a,曲りたる物と見ゆ、扨、右村入口にて、川を越 刎橋也
、此処より、川西へうつる、長三拾間、およひ有,此辺、都而、バトと云物を背に当、 俵物、材木、其外,何によらず、持運ぶ,(バト 後ロノ図、同前の図、子ンボウ長三尺、同)是を 背負たる荷物にカウテ休む也
、重サ弐拾貫目位,持といふ、此所よりハ、稲も出来、竹も有、是より 公儀料の由、一ノ瀬辺ハ、板壁、風嵐よりハ、土壁有,p43b 牛首へ八丁と云、牛首家作、至而、立派也
、大方,三階作に而、名主と覚しきハ、寺院の様也
、土台も 鵜沼石のやうなる家居、大かた,唐めきたる家居大かた,土蔵作路地門様大かた 石、大家ハ、前に長拾間位,梁四間位の仮家にて,数拾人の女、両側に後ロ合せにして、糸を引、都而、 麻を着、麻に模様付、又、紋付も有、軽きものの,p044a,子供袖なしの麻を着、山へ行、馬曳者なとハ 筒袖を着、女ハ髪しまだ、かんざしさしたるは,あれと、丈長なとなし、帯ハ巾四五寸斗の一ツ緒 下る事、前に同じ、家毎にはしごを屋根に,かけたりや、如何成ゆへと問に、出火の為と云、大なる木 一かかへもある木を二ツに引割、それに横木をさしたる,はしごなれハ、持運びハ、不叶也
、 仍、懸詰也
、茶屋,七郎右衛門と云者の所に、休む、宿もするよし 外に休む所なしと云、言葉あらく、酒呑んか,p44b,モヲイヤカ、なと云、 人ハ至様て、健義と見ヱたり、,煮物を売にもあらず、蕪漬を出し、弁当たべ 拾文ツツ呉よと云、此所産物、ワサビ。ウト。ハラビ(わらび)。 すず竹ノ子(篠竹の子なり)此節、生出るもの也
、此辺にてハ 熊を捕よし、先きへ行越たる村にて聞しまま,委(しき)事は不聞、牛首、此辺十八ケ村の親村にて 万端の事、名主の取斗よし、茲ハ、飛騨の出張 所の支配也
し由、此、牛首十八ケ村を、柴田勝家 加賀の国へ、切込、其節ハ、加賀の国たりし由,p045a,加賀の白山と云しハ、其頃より申せし事にて 今ハ全て越前の白山也
、是ハ、杉本周防守の,咄し、然とも、尾添村ハ加賀の国にて、白山の十里 麓に有り、尾添より登り道、絶頂迄ハ今以、加賀国,たりし由、 (尾添ハ元より加賀の国也
)石徹白(越前),  白山の南に当る 一ノ瀬(同国)白山の西に当、尾添(加賀)白山の北に当、,飛騨ハ白山の東ニ当、 石徹白より登る者ハ社人へ,懸り、一ノ瀬より登る者ハ、平泉寺へかかり、尾添より 登る者ハ社家坊をはなれ、百姓案内也
、しかし,p45b,山銭ハイカガ上にて、出すか、其程不知、飛騨より 登る者も有よし、是ハ定りし道もなきよし,牛首村出離、川を東へ越、刎橋三拾間斗 此辺木賊(とくさ)多し、嶋村、深尻、此村、檜笠を作る,木にて笠の形の物、拵置、夫に当て作るなり 至而、能、檜にて、剥ぐ、尤、薄く紙のことしまで,女ハ笠をあみ、男は木をへぐ也
、差渡三尺の 笠を作るを見る、大き也
、此所にて、キハダの木を,見る、胡桃(くるみ)の木に葉も身木も能、 似たり、上ハ皮を,p046a,去れば、真黄也
、釜之谷村にて、又、橋を西へ越す 暫くの間、壱丁余も有、左ハ山、右ハ川、此山上り,石砂転り落るとて、行通る者、用心せよとの 札を両方に立たり、大石の落る様子ハ見へず,小石の追々、道へコロガリ、且、砂の垂落るも有り 辛して足早にすぐる、五味嶋にて、又、川を東へ,越す、此間、壱里といへとも、中々に遠く覚ゆ暮 合に、女原へ着、兼て、能、宿故泊れと教へられ,しものの、名前尋ねて行しに、糸引の頃にて p046b,子供、大勢有之、外に客有て、宿成かたき,よしにて、外え案内する内にて、云事を聞ケハ 今宵、水なくて、飯も焚ケず以断といふまた,壱軒を頼呉、宿ハしつれとも、是又、水払底にて 湯をもつかわずに寝る、此所ハ川水を汲に谷底,深く汲みかたきよしにて、遠方へ汲に行と云、越前 北国の端なり、加賀の尾添といふハ二里東なる よしを云(白山御前山より、一ノ瀬へ四里半、女原へ八里より金沢へ     十里也
、尾添通りハ御前室より尾添へ九里、夫より金沢迄 十一りと云、尾添通り二十リ、一ノ瀬通り,金沢へ二十二り半八丁、指引〆二リ半八丁ノ廻り也
、)   女原より金沢までの,p47a,道筋 黄消(キナべり)(是より加賀)佐呂、    吉野(女原より二り)吉岡,福岡、真海(ノミ)広瀬、白山、鶴来(吉野より三り)月林 四十万(シジマ)糠谷、小柳、金沢(鶴来より三り), 宿主、吉左衛門 咄也
、此辺の茶釜、皆口付にて、足も有、左の図の,よし  是を見て思ひ出したる事 あり、尾州春日井郡一色村の者,つづ原辺にて、此一体の茶釜,有しを、古きものにて茶人へ 持行かバ、金にならんと、いろいろ進めて金一両出し,p47b,買行て、 名古屋へ持行しに珍らしかれとも形,大きくて、茶かたの間に合づとて、買人なし、詮方 なく、今自身の仕ひ料として損せりと四五年以前,聞しまま立寄見しに中に銀の星見ゆるなといへど 慎に不見、今思へハ同形也
、此辺ハ皆口付茶釜にて,珍らしからづ、如斯、ヒキモノの柄杓あり、尾添 にて、出来ると云,此辺にて、女をメロと云、アツキ事をアタタイと云也
各々百日ハ外へ出ズと不叶、内にのみ居と云、何を,p048a,すると問へバ、メロハ糸をウミ、 男藁細工様する,と云、たばこを植る所有、如何と云ニ、当春の雨にて 腐、二度蒔故、後レたると云、竹の子ハ、半夏頃より生る、,よし、此日、女原ニ宿ル 十三日、晴、宿を出、鷹の子を飼し家有、巣を落せし,と云、如何にすると問にナグサミに飼、又、 加賀城下ニ,持行も、すると云、女原、八町程、行、大ゾ川、板橋、是迄 なき立派の橋哉と云へハ、是ハ加賀殿より懸られし 橋とぞ(此川より流、大ゾ川とききしか    (尾添より、来りて、ヲそう川哉、)此橋、越ハ加賀のp048b 国也
、入口に草屋葺の番所有、石川郡也
、番所,ニハ、足軽詰るよし、十五俵取と云、女原より、道連の もの咄し、黄滑村、此所、此節、麦をこなす田を,植、後にび麦をこなすと也
、此辺の田、穂含し也
鍬、如此、 右番所入口木戸有て、カブキ門、左手,川、右手山、山にハ、矢来結ひ、出る人を改 入人ハ、構なし、黄滑郷中、左手ニ少し,引込、葦葺の家ニ、鉄砲、五丁飾り、有、是者、横 目役の番所の由、吉野にて、休む、此茶屋の,p049a,火入(図 サシ五尺、三尺)石也
、 瀬戸物ハ更になし、吉野地内右手ニ,ウルカ山とて、九十九谷有と云山あり、金沢よりも春先 見物ニ参るよし、岩山ニ松生、瓜(ウリ)の筋見る様に,細きクボミタル、水落の様成ハ、 谷幾筋と云、際,なく見ゆる、十二三町余の間にも、あらん、往還より 所ハ、不隔、山と道との間、田有計也
、女原より、一り半程,来り、初而、女松を見る、 此辺にてハ、沢山也
、吉岡、郷,津、福岡、直海、広瀬、白山、右手ニ白山の宮あり 此村出離にて川ハ、戌亥へ分ル、此所にてハ、外ノ川の,p049b,出合成か、 至而、広、浜辺の様也
、左ノ方(西の方也
)山も,是切にて、終(おわり)山の北の止りを、 舟岡山と云よし、到而,能、景色也
、右手ノ山ハ、加賀城下辺迄、続き居ル由 是より、先、左手ハ、一面ノ田面なれども、所々に、森林 あつて遠在、一目にハ、見へかたし、鶴来にて、昼,休す、爰ハ、中山道の大井辺の如くよき町にて 茶屋も在、給(たべ)物、餅なども有、是迄、山道のうち,茶店にて、食物、更になし、 飴菓子もなくたまたま,有とも、キヤウセンなり、其余、給物なし、然れとも,p050a 酒のなき所はなし酒は諸白か地酒か,味の旨(よし)悪ハ,しらず先に女原に泊りし時亭主の云しは鶴木の 酒は比類なき酒にて城下とても不叶といいし事,あれば在々も諸白有りしかとも思う加賀にて 近来焼物すると聞、何方と問うに三里程西,若杉と云所と云加賀絹はいづ方にて織哉といへば 小松にて織と云キヌとは不云、キンと云小松へは四り,有、家数三千軒も有由、此辺にては 銭をゼンと云,鶴木も五百軒余り有と云、此辺にては,弁当は藁,p050b 或は藺(いぐさ)にてゴザの様に織、ツトのようにして中へ,飯を入、是をヒリヅトと云、 昼苞(づと)と云事か鶴木,を出、田面中に釜を居、其中へ麻を切、長きまま入 上えより桶フセテ蒸し右蒸したるを川に入皮を,ムク也
、此辺、 麻畑多し今日、土用に入るに苗は余程,穂出たる有、糠谷、少しノ坂、上り茶屋両側に三軒有 中山道の十本木の茶屋のごとし此所より暫く,行ケバ次第に金沢まで登り也
、糟谷迄にも小き登りハ有也
しかし此辺にては平地の分にて女原より金沢迄,p051a,少しも坂なしと云し也
糠谷を越えれば能登の 砂山の由砂計りと覚しき山長く見ゆる金沢入口,にては余程、坂を上るなり入口は我国、勝川にて 八九町も行本町並になる片町、大涌屋(おおわくや)小右衛門に泊 此町金沢中のよき町と云名古屋伝馬町京町筋,位のもの也
此町二三町西南に犀川とて板橋長 三十間余もあらんよき橋也
東へも二十町も行是より 別、小き橋有、扨、城下は広きものなれども高にくらべては 狭し町は二三町位に横丁有東へ向い行しかと ,po51b,思へばいつの間にか北へ行、町筋、 直にあらず本町と,云べき壱筋は直也
此宿にて今宵は夜見せ有に 行けと云しまま出しにたまにあめ作など売物有,小間物みせ等、表戸、明て内にあんどう燈し有 名古屋の常のごとし其外菓子小間物体の,みせを張、宛物をして褒美を出とて此みせ先は 込合たり、又何をいうか町、畦くらき所にて呼る者有,側へ寄、見れば菰包の様の物、持居たれば乞食 なるかと思いしに雪売也
、深山より雪を笹に包み ,p052a,其上を菰に包み担い来て売一文づつ鋸にて 引、切、売ヒヤコイ氷と呼事也
、是は白山イオオセン,ミ方此三ヶ山の内より持来るよし三四町の間に みせ有所弐軒迄にては水茶屋水菓子等売,もの一軒もなし蕎麦うどんにてもあらんかと 裏通の町へ迄廻りしに壱軒もなし剰さへ戸を,明て有家とても更になし町々淋しきことも是 にて察べし 十四日晴朝城下(高百二万二千七百石加賀中将)を廻る,家中、大体は, p052b 羽織なし(郡上も同じ)鑓持せたるものも都て、丸緒の草履,又大身と見えて先へ 侍(もも立ち高く取、羽織はなし),壱人立ち旦那は肩衣、後ろえ侍五六人(もも立ち、無羽織) ゴタゴタならび鑓箱、引馬、沓籠也
、又侍中間連し出郷ケ体の人見受けたるが 股引なくはばきツマミハシヲリ供侍共,同じ二三人沓駕籠等も行く也
同輩の会釈、至て高く 軽き者の出郷体タチツケはばき牡丹〆扨遊女,町并芝居地へは片町より二十町程北犀川の上と いふ町々に何ぞ珍しき物あらんと思ひしに ,p053a,是ぞといふ処なし呉服屋様も格別大成は なし芝居遊女も五六年以前より初りし由犀川,の上新町と云に芝居有石坂町(吉原の写しと云)観音町 遊女有と云、右辺は得不行、此節ハ人気も随分,開けし分なるべししかし尾張などに競へきに あらず扨物を問ふ其返事にイヤと云事を必ず,いふ其調子甚高くして聞馴ずして肝の つぶるし也
、扨、越後越中境に関番所有其,番所越るには手判を貰はざれば越事ならず p053b,必金沢にて泊宿へ頼手判貰ふ事也
、越中,富山にても出る事なれとも、甚不便利也
、金沢 にては壱人三十五文づつにて早く出る富山城下にては,壱人八十文づつ懸るのみならず半日程、 待居、殊に,式日などにて出勤なき日は、指支ると也
女手判は 不出、金沢にては出る也
、二三年以前西国向の女,手判の事を不知、御関所迄行き通る事、不能 かがの金沢迄往来二十七里程手判取に戻りし由,又富山より親類近所の者にて遣せしに其事 p054a,露顕して入牢のよし、又一昨年甲州の郡内,の者壱人は手判所持今一人は泊宿より舟に乗 忍越、積にて打越, 泊宿にて出会一諸行べし,とて壱人の手判を弐人に直し指出たりしに 其事、顕、関所破りとなりて入牢のうへ江戸え,指出しに成しよし、関のこなた大泊宿といふより 舟に乗三里余も沖へ出、夜中に越儀もあれども,畢竟、関破りにて其上忍びの事故、何程ネダラレ テモ品により大に難渋、出来する事也
,必、金沢,p054b,にて手判貰ふべし此関所ハ各別六ヶ敷所にて 金沢より千石余の役人、両人、詰、其外下役大勢詰,沖の手は遠眼鏡にて見張居るよし、仍、舟にて 夜中に乗越すよし右海中、漁舟、并越後様,より運船ハ、通行する也
。魚津にても手判出る といへども是は越後より立山え集る者、并、富山,金沢え懸らず往に、其趣、関所へ申せば往懸け 魚津え其事届置帰りに手紙貰ひ参候、様,導にて帰りには魚津より引合貰ひ越後へ越す p055a,事也
とぞ此関所はよき場所にて南は立山の,尾先にて岩壁、数十丈北は海ビョウビョウたり 関ならでは更に越事、あたわず金沢にて書画,するもの有やと問ふ画家なし丸の内入口寺町 と云所に橘カンサイと云(カラヨウヲカク)北国にての書家と云しまま 尋ね行に、折節、病気のよしにて,認貰ふ事、不行届、書クズシなりとも貰ひ度 申せども、無之一両日、逗留せば認呉んとの事,なれども逗留も得せで帰る百姓の城下出るさま p55b,尾張などとは格別の違にて見苦し馬に附る,不浄桶尾張にては両方に弐づつ四つ附るに 大なる平ら、太に作たる桶、両方に壱ツづつ附馬の外,不浄、取体のもの更に不見,    尾州できの陶物更に,なし本業にては何方、出来か摺鉢、不束の茶呑,其外ハ皆肥前物計也
紙類も払底美濃,出来の板張なし直紙、大成クヅ紙, 至て薄く少し取廻し荒ければ破りし也
青物キウリ専ら,にて白瓜土用中に茄子も一向なし、カリモリも, p056a 少し真桑の類、キンウリの風、したる瓜を売歩行,西瓜なし畑にても、不見、鳥屋植木屋等も一向なし 当時、流行のカナアリヤ十シマツダンドクの類ひ,一羽も、不見、馬せむる所馬上の人、乗馬、牽候もの 鷹匠更に、不見、馬乗袴着たるものは見たり,四つ時頃迄に家中は余程見物せしが町は淋しい 丸の内といふべき所へ入東大手先に竹腰の風,して少し小き屋敷何軒も有梅鉢の附居たる まま跡にて聞けば前田伊勢守(二万石余)城の北に当,p56b 立葵の紋付たるは本多安房守(高五万石)とぞ此本多 の屋敷より東大手先の屋敷は立派也
、長甲斐守(三万三千石)屋敷は 不心付、大手先の内にもやあらん七手頭,と云ハ前田伊勢守本多安房守長甲斐守 横山山城守奥村丹後守前田土佐守村井,豊後守也
、扨、新御殿と云は城の西南へ引続 出来たり西口也
、(少し南へ向)すべて城内の瓦白ジヤケ,タル様に見ゆるゆへ人に 問へば鉛瓦也
と云此の鉛,手取川上ツルギの奥より出ると是迄四里八丁と云,p057a 新御殿と云ハ、御隠居ノ住居のよし、此所に,家中屋敷有しを外へ引越させられたりとや 帰り二前田三右衛門とか、新規二建てし屋敷也
、尾張,にてハ、二三千石屋しき也
、 扨、地名をコケンノウと,いふ浅野川、サイ川にて、挟ル鬼川ハ城西を流 天守はなし、城といへど、一向、見苦(尾張などにハ、, くらぶべきにあらず)士の 子供前髪の内、手習、学問等に、行も、各、振袖也
髪ハ前髪を剃て、後ろへ、出したり、女子の振袖ハ,不見、国中倹約のよしにて、銀余のかんざし p57b 色丈長、其外、よき着類、一人も不見、格別大成,呉服屋も不見、夜分謡うたひ歩行ものハ 数多あり、小唄流行歌ハたまさか、浄瑠璃杯の,声一向不聞、城下の南北ハさしたる事にも 不思、東西ハ壱里半もあらんか、町ハコズクリとし,て、金持らしきハ、あるず、端々、 出茶屋の外、町中に,茶屋体、更に見へざる也
、扨、出離近き森屋町 今町、二日市町、とぎ屋町、など過る頃(九ツ時と覚ゆ)山家 より薪、附馬、幾ツも入来る、町出離、暫く松原, p058a あり(其さま駿河町口様の格好いづかたも同じさまなり) ウタ村南チウシ北チウジ村横浜村(往還へ懸りの村々なり), 津幡宿、杉の庄其より坂一ツ越して竹の 橋宿(コレヲクリカラ峠へ上るなり)壱里程登りて,クリカラ村左手に倶利伽羅山長楽寺といふ有 本尊不動尊也
寺の庭より北、海見渡して能,所也
門前右手に茶屋有て名物也
とて餅を売 小き餅幾つも楪子(ちゃつ)にツケ白砂糖キナコをつけ,一チヤウ(丁)十五文也
是を少し登、峠也
、 此所加賀,越中の境也
(越中の国は東西南ハ山北は海にて平箕(ひらみ)を 仰けたるやうの国なり)峠に小き,宮有て芭蕉の牌石あり  義仲の目覚の山か月かなし 少し行左手の平場を猿ヶ馬場と云是より下り,急なり加賀より越後迄の内の峠なるよし此所より 初てかすかに立山見ゆ雲をのり越て絶頂、遥,上に少し見へたり是を下りて石坂村峠より東 越中国砺波郡埴生村、今、石動宿此辺にて,イユルギと云先に石坂辺にて日暮る故宿からんと せしかとも間の村にて宿かせず石動宿油屋,p059a,九右衛門に泊る、金沢より、是迄八り半 ◎十五日、晴、宿を立出、出離に大矢と云う有,(長四十間、斗の板橋) 此所より、高岡への便舟あるゆへ、是に乗り高岡まで,四り八丁と云、芹川、岡、荒屋敷、立野、 和田、等の,村々、往還へ懸り、居よし、三里船にて下る壱人前 六十文ツツ、此辺、萱作る事夥し、川の左右、男女 多く出て、菅を刈て、干也
、(菅ハ六月土用ニ入て苅るよし),  所々、小屋懸 いたし、若、夕立等の節、取込ためとぞ、菅ハ一旦、干,ならてハ、白くあらさる由、 加賀へ馬にて送る、尤、茲,p059b,元にても、笠作るよし、XX、如此、ふくらなしの 深きもの也
、高田(岡)最寄にて、同船のもの船より 上りしかとも、此川の出口ハ、フセ(シ)キの湊とて此辺の 湊也
と云しまま、少し酒手を遣し、海口まで、 乗下ル、(大体一リ斗)左手ニフルコ長興寺とて大成寺有 加賀殿の参詣有よし、扨、暫く下りて、西手フセ(シ)キ 湊、船も大分あれども、南海より淋し、此海際にて 汐をなめて見るに、塩気、更になし、いかにと問ふに 川水、押入候付、塩気なしと云、フセキの西ニ氷見村,p060a,とて、大郷のよし、 北ハ海、南山也
、加賀の鏡研,と云ハ、此ヒミ村より出る事の由、尤,三千人程出る由、 かがより出るといへども、かがにあらず、越中ひみ村也
、かが領 分ゆへ、かがと云ならハしたるか、此海際、東手へ上る,六道寺裏、船乗の前に、こんぶ多て、 干、有、家へ入,暫く休、こんぶハ、松前より来ると云、亭主も松前 などへ、折々行、志州鳥羽へも行し様と云、松前へハ、 何程、有やと、問ヘバ、三十五里ツツ七湊、有と云、此海,西よりハ、能登の国さし出、右、 沖と、東、越中越後の,p060b,境とさし向ひ、是間、果なき海也
、境と能登の ミサキの間、二十四間、隔、六道寺より、能登沖まで 三十五里有由、此、大矢川、並、富山の神通川へも、鮭 のぼるよし、夫より、長徳寺町、法生津町を越、又、磯 伝ひ也
、(此辺、雪ハ三尺位より、多くハ不降と云、此辺の海、遠浅にて至而、      綺麗にて、藻もなく、打上の芥もなし、魚なども少かきように 見ゆる、蠏も見ず、貝もなし、漁者ハ有て、網も干あれども、 肴ハイカの少々、干有を見た斗にて、外の魚類、一向、みず)堀岡、新 明神、古明神、七軒茶屋、等、過、是迄ハ北東さして 行様に覚ゆ、是よりハ辰巳と覚して、田面行く、針山、 内出、出郷、野々目(此辺婦負(ネイ)郡なり),八丁堀、百塚(七軒茶屋より、百塚まで二リと云) アタゴと云にて、往還へ出、是より富山へ町続き也
暫く行て、神通川、船渡し也
、城ハ川下見ゆる、此,川より、西婦負郡、東婦婦郡の由、    鎖二筋にて、船ヲツナグ, 川中程ニ,碇おろし有之、,大水にて、往還等へ 水落ル時ハ碇を,アくクレバ、船ハ両方へ開,水落宜しく成よし、         船ハ大体一艘並ニならべ巾,  壱尺位の板五枚ならべ也
、船ハ         六拾四艘、並ぶと云、減水, の節故のサマテの仕掛         にも、及ましく覚ゆる川也
、 此、神通川鮠名物也
とて飯にして売、城下の町家,都而、何町、何丁目、何屋、誰と云、 木札を家毎ニ門口に,聞、町の長、壱里余も、あらん、よき町並み也
、売薬師 家多く、有、諸国へ四千人程、出る由也
、松平淡路守,富山拾万石ニハ過し城下なりと、 所の者いふ、上ハ,町の碇屋孫四郎ニ泊(船路共いユルギより、含十三り)此十五日、夜者 p062a,所の祭礼試楽也
と聞きしゆへ、詣たり、作り物も有、,て、賑やか也
、 燈物売物等ハ一向なし、少なき事也
踊ハ音頭の風にて、音頭上り者一両人笠をかふり,ウタイ居、大勢踊也
、此音頭並、北国筋の流行 歌にても都而、調子高にて、尻を剃たるもの也
是へ、諸町筋等も売り物家ハ不見、其内にも一軒,大ニ賑合居有、かんはんのあんとうを見れハ瀧の 糸水だんご有と記せり、瀧の原ハかんてんの,こときに白砂糖を懸、一盃二十四文ツツ水だんごハ だんごを水にひやし置、白砂糖を懸て、売,此外、何もなし、夜分、白砂糖を尋ねしに 更になし、よくよく聞ヶバ砂さとうといは様は,過しさる由(菓子屋砂さとう漬いろいろと       したるノウシンヲ見シナリ)菓子もカシと 云てハ、得不聞、クワシと云ねバ通ぜざる也
、開口,にて聞分る事ハ名古屋も、不及事也
完二部 ======d20120405a.mem====p63p96========= p063b,  美つの山廻,   立山富士巡山 十六日、晴、是より富山立山麓芦峅迄七里と云,往還ハ丑寅へさし滑川迄、四里、芦クラへハ辰巳 をさす也
、中河原(井ノ口ノ枝郷)アラヤ横内、此先に,川有ジヤウガンジ川と云、巾弐町程も有て大河也
少し水出れハ、通路、難成見ゆる歩渡(かち)也
、此川,西ハ富山領、東ハ加賀領大森岩峅 (是迄富山より三り余) 此村出郷に案内せんとて、大勢出居(三人迄の案内七百文,,位夫より人数多くても) p064a,荷物さへなかれハ、大勢にても壱人雇い荷物多ハ幾人も雇いし坊にかりて 頼メハ、六百文位にても雇い様子也
、又、是より三里行芦クラにて,  雇もよしと いへとも立山ハ岡倉持の山故、茲にて頼むもよし、雇賃ハ少し高くとも此所 より荷物も持せぬれハ少しの事にてコレにて雇うふよし) 岩崎寺ハ寺弐拾四坊有て其内の当番にて取扱,なり、是非、此当番両人、懸て、山銭も此所にて出せハ 請取をさし、越を、登山の上、宝にて指たれ也
山銭壱人、百三十文ツツ也
、此寺にて、支度も泊りも,出来る也
、持参の弁当使へハ、少しの茶代置て よし、此寺に泊りても、百五拾文の由、経文の書,たるもの、出し地極にて血の池へ入よと云、一枚 p064b,三文ツツ其外、山の図をも出す、此坊不残、天台,のよしなれども、大かた、儘常也
、 立山へハ女人を厳敷,禁、其間スル、天台宗の僧妻帯するも、おかしき 事也
、是より芦クラへ三里と云、(シャウカンジ川ニ添, 東北へ出る様に覚ゆ) 芦倉村(岩クラ寺ニ/同坊腹の村也
)三拾六坊有、此所に姥堂有 此堂に付たる坊也
、立山の麓なれとも此村立山,へは、不拘、此婆堂の三の坊のよし、立山へ参詣 のもの先ツ、此姥堂へ詣、此所にて色々教化,いたす事也
、一代に一度ならでハ参るへもなき p065a,よしにて六十一才迄ハ、登山出来るとて仏も,御待受有と、いろいろ申演、此御前へ出たるものハ 故障なく参詣出来る心立悪きものは門前へ,出られずなど云姥堂の前に橋有是を天の 浮橋と云由、日本に三ッの橋と云(伊勢の宇治橋, 高野の菅ノ橋,立山のアマノ 浮橋也
と云)到て高き橋にてからかねの擬寶珠,六つ有、是を六字のメウゴウにタトヘタリ、此夜 教覚坊に宿る、此宿も順番にて村方にも坊にも,泊るよし宿賃一人百五十文ヅツ案内のものも p065b,同様に払遣いす也
、米を買って是又案内ものに,持せる也
、扨、途中にて追々咄すには六部立山へ 詣しに三州某の娘の幽霊出、鐘を上げ呉候様,頼の趣親元へ通じたれハ、鐘を鋳て上たりし也
右鐘に女の髪と着物の袖と附けて有しと云,芦峅寺へ行しに果して此鐘有て人々詣 右銘を読て見れば跡形もなき事にて、途中,山師杯のわざにてサイセンを取ん為の事か又は 不審の事に思ひ人足等為出為釣候らはん,p066a 工ミかかる風、跡を為致候事にもやと思ハる現在,此釣鐘を見ても銘の趣を続、不得故いよいよ 疑ひを起すものの有ならん、以銘を写し左に記, 「南?浮堤、大日本北陸道越中国、立山, 御姥堂、広前、宝鐘者、往古承応二年  門山之僧、初?徒、新造営、往夫、歴三, 十二年之星霜、於依大破、自?鐘?  后貞享二年、飛騨国益田郡門和佐, 邑今井氏某姜杉為源無豊両家一  連記性二世安楽再建造営年至, 春秋両天災廻禄終ニ、為焦土、?仲頃  安永四年之冬迄ニ漸至半百稔而又, 羅類火而凶焼如此三回焼却?三  回造営其裡乃願主並?職寺之諱, 者労、不?詳者、古鐘。来歴集於有?  是、則、可明?今将、文政五年午仲秋, 三河国、有信心講中之願主、而、?励化  十方信施輩供?丹?而喜推宝賤,p067a  奉寄懸宝鐘一口而以示此士耳根教, 休且告密?随時之規則?這般功  徳者資十方浄施信根今報三世実, 相深恩者也
  夷説偈為銘  大器鋳立 山昏即空, 響日東雲 調入北風  存者亡者 是誰耳?, 見聞一返 可謂因通 ?文政五年稔仲秋吉鳥,  ?松長禅寺梅雲?誌   施主三河国講中並町在村々,    三河国宝飯郡北金屋村,  一色家清末葉   御鋳師大工職,     中尾?惣活,      藤原安之 p068a,此鐘、善道坊に有、四天王付 勅許 十七日晩七ッ頃二出立、姥堂ノ際を通り東北江、行事三四丁 にして「ホッタテ坂」と云、下り坂有、是を通る事、甚、急にして ヒカエツナ、,中通、藤五筋・ナラベタリ、,両側ヒカエツナ p068b,藤橋ヲ渡ル図, 藤橋とイヱトモ,  藤二アラズ、山ブドウ,  ノツルナリ 両方二手摺有て,夫にトマリ少しカカミ,中の五筋斗藤綱ノ並べたる所を縦足,して渡ル、中ホドへ 行ケバ垂下りて,縦横へ振なり p069a,くらさはくらし、四つ這にしてあしのかけ所を足にて さぐりに辛うじて下る、又暫く行けば藤橋也
、長さ,廿間余也
、(三十間と聞しがさはなし) 此時夜も漸く明かかる也
、右場を,越せハ直に山え登懸る也
、小金坂、草負坂、材木坂是は 七八寸角の材木を積たるごとく一二尺ツツ出たるも有 又竪に立たる様の所も有(是ハ何とか云尼僧登り来て,御山を穢せしゆへ壱夜の内に石になりしといふ) 熊負大現権(ママ)と云社有、(是迄藤橋より一里也
といふ) 鷲の岩屋美女杉(今は枯しよし)シカリバリ,(前の尼僧小便せし所穴になりしと云) カムロ杉(前の美女杉も尼僧の連たりし女にて此所にて杉に 成たりと云カムロ杉は枝下りてカムロの様になりたる杉なり) p069b,ブナ坂(ブナの木多し)カリヤス坂(刈安多く有なり)此辺より 左手六七町も向ふにシヤウメウか瀧と云有、布を下たる様に 見ゆ(瀧壷迄ハ山につかへて不見)、扨、弐り程も 行(左湯場道、右登山道)是より御山へ弐里半此辺原也
佛か原と云、暫く行左手に佛有、丈壱尺五寸計緑青浮て青佛也
、是より 程行て一ノ谷と云、此谷にて手水、遣ふ事也
、小鎖,大鎖此辺行場にて岩壁、屏風を立たる如き 高四五間計の所にクサリ二筋垂、是を力に,岩壁を登る其危き事言語に演がたし  p070a,弘法原を過、左ノ方ニ、畜生谷、見ゆ、此谷より 流ル水、わらじにさへ、つく事を禁、(白山も, 是に同ジ)小松坂 鏡石を越、室堂、是ハ籠堂也
、登山のもの,此所ニ而、夜を明ス、梁五間斗、桁三間程、是より 登山至て、けわしき岩角に、足かけ岩壁,登る事、一り八町にして、峠に至る、暫時に ナゴ、覆ひ来て、一寸先も不見分、四方、洋々,たる大海のごとし、此程にて、色々宝物見する、 事也
、暫く下り、左ノ方五七丁隔、釼ノ山と云見,p070b,是ハ釼のごとき山頂きにつくつくと立並 高五六間、或は、十間斗の岩立並、実、釼を,見る如き、奇成、岩也
、早、ナゴ晴たり、此南の いただきハ、浄土山、並、別山と云、峯、つらなる,室に帰、一夜を明し、翌十八日、細雨、四ッ頃より 晴、立出、地獄へ廻る、室より四丁隔、〇一百八地獄,有といへとも、此迄ハなし、 血ノ池と云ハ赤、紺屋,地獄ハ藍色の水、茶屋ハ白水、鍛冶屋ハ、ヒユウヒユウ と音、高く、火を吹出ス、根子なれとも、昼ハ、ただ,p071a 煙斗見ゆ、大熱ノ地獄ハ二尺三寸程ッ湯玉,熱かへる、密婦地獄ハ真中に岩立居、左より ガウガウと音して、熱湯大波の折ことごと、此,岩に引かふせ、直に湯、引、又、右より右通にして 引かふせてハ、引、又左よりと、始終、斯のことく、音,すさまし、色々に水の変りて、見ゆる穴ハ凡 差、弐間斗も有べし、皆、硫黄のせいにて斯,色のかわる事成べし、此谷の内、廻る事 三町斗り、かぢや、地獄の辺、地中に火気、有て,p071b わらじの裏、ぬくぬくとする也
、土と覚しきハ皆,硫黄也
、〇是より五里程も戻り、鏡石より左へ取 半道余にして、蛯石を越、前日の道へ、出合、少し,下り、建石、有、(左湯場、右立山) 湯場へ下ル事二里半也
廻、廻、下れハ、至而、嶮岨なる、おり坂五十町(岩に足・かけ),木草に取付、一足引 にており、尽せバ)湯場なり,  湯場乃図、左ニ,    しるす p072a,右、ヨモギノ湯と云、日本二二ッの湯といへり,湯口へハ、手、入かたく、箱樋の大成をもつて p072b,壺へ取(湯、水)の二樋有、此湯にて、何にてもゆで,物をする、飯汁茶を煮るに、 其味、甚、なるく,してよし、硫黄、更になし、水桶なとへ、桶を以 取、呑水とす、大成事をデコ、上(かみ)と云事を,カマテと云、など、聞取かたし、此場所ハ当山領 新庄村よりの出張茶屋、貸家、図のことく、建並,湯本ハりタカナマ村、六郎右衛門と云、者、 被出、湯銭,を集、右両村より、一貫目の運上を勤由、湯泊 と云ハ、一人に付、弐百三拾弐文ツツ、元ハ岩倉、持分,p073a なれど右村々にて、負しもの乃よし、此辺、,人参、水芭蕉など有、薬草多し、茲に一宿する 同十九日、暁より風雨強、四ッ頃より止、湯場立出,二り半程にして、川向に瀧在、川に添、谷合、 六里程出(原村本郷)うみを過、藤橋を渡(長、三十五間程) 亀関、ちかき、横井、中野、みささ城(ヲ)過、いくし,村にいたり、某に泊 二十日、晴、五ッ過に宿を出、諸手、オナガタ、かめ,ち川(歩行渡)、堀江、定光寺、有明、下梅田、 p073b,薦(コモ)原より、上市へ出、政木屋儀右衛門ニ泊 二十一日、明上市より、三日市(一万石柳沢信濃守,城下なり) これは 北陸道也
、此宿、家の横を街並へ出、見苦し,二丁にして、目覚し刎橋の日本一也
、といふ、 是を合本の橋と云、舟見(浦山より, 壱リ) アイバ、上下 今井を通、藤つか、オイノセ、二ッ村より泊り宿に,着、小沢屋甚蔵ニ泊、是より壱里二十九町にして 越後境、関所也
、前にも顕ハす如く手判といふ p074a ,  「惣長、三十六間程」,    「此橋上海道ニ在,    此下、四十八瀬ニ成     是間壱リ八丁,    是ハ下海道筋成」    「二十間余」,   「西橋台」,   「番所」,   「東橋台」 p074b,なくてハ、通る事、成かたく、此右手、立山に続き 嶮岨なる岩壁、つばさなくてハ、越る事ならず,左ハ北海、洋々として、こへがたし、遠眼鏡を懸て 船路の関抜、あらん事を改、実に、厳重成、場所也
、 手判なくして、翌朝、富山まで十四里戻りぬ,此宿も魚物、沢山なり 二十二日、暁に立出、きのふハ上海道、来しまま、かふは 下海道を戻、差引、弐里をし、壱里にして入膳,また三里にして、三日市、大津、滑川を打過    (此の作者の行動に疑問あり、,上海道は山側、下海道は海側と言うことで p075a,夕方漸、富山城下に至、先ニ泊し鍵屋孫四郎ニ,宿る、生たら一疋拾文、中鯛ハ拾文、 さば十五文、求,中飯の菜にして給る、風味、大あじにて、尾州 の魚類にハ、くらべかたし、富山、木薬屋町、何町も,続き、両かわ、皆茶屋也
、諸国へ、売払る事 なきハ左も有べし、此辺、わらじ一足、五文ツツ,翌二十三日、晴、昼頃、漸く、手判、受取、 茲を出立、,先ニ廻りし道を、滑川迄来、吉野屋四郎兵衛ニ泊、 二十四日、滑川立出、魚津、大沢、上村、高畑、実祐寺 p075b,片貝川、荒松、中野、三日市、オギウ、若栗、,浦山、船見ニ泊、此辺、瀬戸にて用ル、 イヱゴロの様成、,ものに、茶の葉入、濃く出し、茶せんにてたて、呑 土肥も、背ニ負、其器、,如此、ものに、草など入、,荷ふ、びくの類か、 すべて、早口にて、聞えにくし、返事をイヤ,へいをイヱイ、御出をイラツシヤレと云う、 二十五日、朝、とく、立出、昼頃、彼関ニ至、(越中、越後)境也
p076a,此関所にて、彼手判出ス、(手形にして旅人、御通行、可成との                 文言也
、富山番中より出判物なり) 是を超、壱里にして、越後市振、(此境より高田迄二十里, 善光寺へ三十六リカタヒラ 越ハ下/越後也
)市振より二り、とふみ、ウタ、青海(トナミより二リ)糸魚川 (頚城郡ヲ〃ミより二リ)城下也
、(一万石松平日向守在所), 高田辺、北海辺にして親 しらず、子しらずと云、凡、十間二十間目二岩穴有 風強、波荒き時ハ、通りかたく、波打上る時、此穴へ,入、又、見合て、立出、次なる穴へ入事のよし、此日ハ 海静にして、浪なく其ワずらひなく、砂ナ浜,奇麗にして、碁石の如きこまかき平石麗也
p076b,糸魚川二泊るべきを夜中、船にて拾里の余を 二十六日、暁二、高田、今町二着、船(十五万石柳沢                         遠江守城下)随分 繁昌の湊也
、高田、新町、脇ノ田、茶屋町、吹上,田中、柳田、稲塚、新田、中川、石塚、有馬、荒井、 板橋、藤沢、坂本、弐本木、松崎、いち屋、片貝、,くぎ木、稲荷山、岡山、太田切、 二股新田、二股宿、,タギリ、キハイ坂、関川、南出離、二越後、信州の 境の番所有、鑓五筋、三道具、熱田船番所,格好也
、二股南出離、右手に是よりアカクラの湯へ p077a,二十四町と云、棒杭有、右関越て、「從是北、高田領、從 是南、御代官矢沢藤蔵支配所」と記したる,棒杭あり、夫より黒姫山、打越(信濃)野尻宿より 飯綱にかかり、戸隠山、奥の院にいたる、右奥乃院、,女人、結界、左、 中院への女人道、奥の院本社かた はらに、九頭龍ノ社、是ハ裏山、巌壁、数十丈の麓,岩より長十間余も在、内の見へぬやうに板張にして 目板打、屋根葺候、ロウカ如此、長く作り出し、正面,格子戸を立、此所より参り、御膳を備るに後手に p077b,持てすへ置、跡を見ずに出ることと也
、坊舎五十,三ヶ寺、所々に有、各、岩にかけ作り多し、 内庭様へ,右岩作り込、其間、多くに鍋釜を入置も珍し 二十三町目二王門十五町目、鳥居、中院谷、戸隠,門前より一り、大倉一り半、出茶屋半道、 あら安、大久保,鎌屋喜代七ニ泊、 二十八日、宿を出、善光寺へおりる出斗りにて,休む所少しもなく、中程にいづなヶ原と云、有 是より,p078a,煙如此、カギの手二、東ヘナビク、,浅間ケ嶽、巳二当、 スガテイラ、此辺の高山なるよし,夫より権ケ池原、ナサキケ原、泉平(是より立山                      西ノ方二見ル)善光寺へ 壱リ也
、善光寺山門より、大門まで二丁半斗、両側,寺家、並、商人多、小間物店也
、堂、 甚、古く大り也
、,p078b,柱、目通りにて人のさわる所、手当りにて、各細く成 かいだん廻りと云、有、弥陀の真下へ当るべき根下へ おり、是を巡る、凡、三四間方有べし、莚敷に押、竹を 折、此間、五尺斗、左右とも板張也
、堂内東手方より低ク おりて、くらき所をさぐり〃、廻る、仏前に立花の 松、昔のまま、今に、青々として、枯ざる由(此松ハ親鸞上人 立置しといふ) 夏中ハ三度ツツ、開帳有、朝昼夕、折節拝ミ奉るに 蝋燭、立並へ、二重の帳を巻上れども、奥深く、くらう して、中々、拝ム事ならず、此地、松代城主弾正大弼 p079a,御領所、且、越後獅子ハ、カン原郡より出る丹羽、川瀬 二ッに成、丹羽島、東西五町程、北部屋村、(松平信濃守) 上ヒガノ、トヲリ新田、北原間(是より追分  迄壱リ)南(みな)原、北野 伏、高田、芦沢、ヲンべ川、みろく、篠野川、追分、 善光寺より、是迄、,二リと云、遠し)チクマ川、(川向はに科郡川北水内郡 川向更科郡)      矢代 追分より一り)下戸倉、上戸倉、巾屋新右衛門二泊 二十九日、晴、上戸倉立、坂城、小島、寂撒、樫原 刈屋原、此先二、横吹峠、小坂有、此辺、筑摩川縁,川向の更科ハ川と山との間、細長き郡、往還、左手 p079b,二ハ、谷々長く続、右手の方、姥捨山より引続、田所 あり、田毎の月の名前也
、大矢、長瀬、マリコ、(深山峠と云、有) 長久保、坂本、(南へツマ先下り也
)中野条、横尾、金井、此 二ケ村、たばこ、名物、鼠、此辺、家の棟に、シヤガ 岩ヒバを植たり、岩ヒバを岩松と云、此村、先離より 岩鼻とて、壱町程も、引続、往還江、岩の露たる、いと 珍しき岩也
、此所に、くらかけ石と云、大岩あり、三郷、 境なるよし、塩尻、此村、上下有、南を上とす、白酒,名物、此辺、巾三拾町程の谷間也
、此所、チタマ川 p080a,南の方を流る、秋和、上田、(小県群五万三千石 松平伊賀守城下)町内 壱り八町、岩屋(上田縞ハツムセ  辺より出ル) 水内、埴科、ちいさかた 雲野、田中宿、加沢、ボクヤ、芝生田、片葉、深沢 (是より佐久群)西原、小諸、(一万五千石稲葉、 周防守城下)長三拾町斗、山本 勘助縄張穴城あり、西入口に川有り、往来を上り,下りして、橋下りテハ橋、都合、三ヶ所ニ橋有、各長 六七間斗、又、登りて、城下町也
、此辺より見越ス事ハ,高塀有て、いたしにくし、 此辺の植木鉢ハ石、小便,ビシャク箱  xx 如斯、 葉坂、和田、長戸野、 p080b,上村田、亀屋元右衛門ニ泊、,七月朔日、晴、上村田宿内より左、より取、四五町南へ 行、湯川、サル久保、ナメリ川、上ミ下モ中込、下越 三上(サンジヤウ)、平林、四ツ家、平林出口にて、枝川、渡る 上村田より三り、夫より、マナガシ橋迄三里と云、此辺 大体、真北に浅間嶽見ゆる、上村田より右嶽へ 五里、八ツヶ嶽、朝より見ゆ、平林にてハ、間近し カイデ新田、下海瀬、樋ノ口、(蕎麦から一束、墓へ持行  タキ返由、此辺、唐松、山に   多あり)高岩、出離ニ長三町も有へき樋、長二十間も p081a,あらん、立岩の腰を水廻り、本馬流橋、西馬流シ 出離より、少坂上ル、一リ余行、立岩、左、甲州道、少し 行ハ、ヤナイケ村、村ノ出店壱軒有、是迄八里八丁 是より、又、川ニ添、東へ五六町、夫より余程上りて下りて 海尻、(マナカシより二リ、此節小麦 取入、田ニハ穂出る)より壱里にして、海ノ口(一リノ原有) 板橋(此間二りノ原有)庄兵衛に泊、此村、家四五軒、隣村へ 行にも一二里ツツ隔、至而、淋しき所也
、御代官、 川崎平右衛門支配所、米ハ出来ず、そば畑多し,後の原先の原広し、八ツヶ嶽の東麓也
、山添 p081b ,まで壱里也
、(宿の人語りたるハ頃日病犬出、油断成かたし       用心せよとの事、気味はるし、されども出合ずして嬉し 二日、晴、板橋を立、野原壱里行三軒屋より坂有、 浅間山辺の方ニ見ゆ、八ツヶ嶽右に間近(此辺此嶽,の裾・なり)南に代山見ゆる、其名、 聞漏しぬ、山もなき,原より雲出る事、珍し、土地高記故(或文ニ信濃 ハ、日本の内 地面の一幡に,高記国也
と)此、手前に富士見坂と云、有、巳午ノ 方ニ見、午未の方に、八ツガタケよりも高く見ゆる 山、有、此坂、余程下り、平沢(板橋より二り)此前、出離 「右、甲州道」と有、野原一り程にして、信甲の p082a,境に至る、八ツヶ嶽の裾にて、此辺、高し、長沢,(是まで,信州) 平沢より南の原を「子ンバの原」と云、箕輪,新田(長沢より, 一り八丁) (富士巳午、巨麻ヶ嶽、地蔵ヶ嶽、 八ツヶ嶽、此辺の高山なり) 若神子 大豆生田(マミウタ)、コタ川、中条、ヱミドウ、韮崎(長沢より 二り半八丁) 阿原ア村、ウツの山、今井、十王新田、飯田新町 甲府(甲州イサハ川辺、三十年来の高水、家三軒流し人三人死六月  二十日の水のよし、甲州金壱両ハなし、三升枡あり、甲州マナシ 川西、入口、今日合図、火在、筒ハ四寸限ト見ゆ、さして変りたる 火色もなく通例也
、黒道も有、開口昼分も弐三本あり、)城ハ北 山手麓より中服返にて三原よく、南の方、平地城下 町並、存外よし、南北よりハ東西長し、本町、山形屋 p082b,  甲州ミち, 峠より眺望の図, 舟津ノ湖水,  吉田口 p083a,き八ニ泊、,三日、晴、早朝出、山崎、和田、川田、伊沢、中川 中川新田、か子川、下黒コマ、若ミや、黒コマ,八沢(郡内群関所)、藤ノ木、是迄六リ、 此所より山坂、登道,峠(三り 八丁)此峠に至レハ、富士、正面ニ見へ渡、裾野 湖水も餘所なし、絶景、言語に演かたし、是迄 郭のこと記悦ハしき亊ハなく彼擂鉢峠にて,湖水見はらすとも、是ニハ及まじくおぼゆ 川口、浅河、船附、此湖水、南北壱リ、東西 p083b,壱里半在と富士裾野ゴ、八海の一ツ也
、 各、大サ、同根の由、吉田、此吉田口山ノ艮にて 町並二三町続、社人多、社家に一宿ス、三河守と云,富士詣あらまし 六月朔日より七月二十一日迄登山すると山にての 咄也
、(其年の気候にもよるべヶれども、土用中かよし,七月の登山を秋山といふ) 登口四ヶ所、大宮口、須山口、須走口、吉田口,尾州より行くニハ、大宮口より登ル、東海道、蒲原、 吉原の間、富士川、東より左へ入、参詣道なり p084a,大宮に凡二り斗、大宮に社人寺院も有、何れも 宿をも案内をも、此所より致す亊也
、坊入、左の如し,此れハ両人連レ,の入用なり、 一、銭四百文坊入      同弐百六拾六文 山役銭 一、同六拾四文 大宮六道役 同弐百拾六文  貸綿入二ツ 一、同百文 弁当代二人分  同六百文  案内強力壱人 但五六人前、荷物ハ一人ニ而持と云 甲州吉田口より登山の大旨、まず社人に着、直に,前の流しにて堀離を取、又、翌朝も宿代壱人分 弐百文にて大宮ニ替る亊なし、綿入もかせず  p084b,持参、単、浴衣、重ね着て登,翌五(四)日未明、吉田御宮大社ニ而境内広、熱田 二ノ鳥居程のからかね、大鳥居在、是へ詣で,其処ここ見物し、日出る頃より登、原野三りハ 爪先上りの登也
、頼朝公、富士巻狩、御遊覧場,の跡とて字名、遊覧と云、此所、茶店壱軒有 右野、三り登、夫より、木山三りと云う、大樹、樅、栂 ヒメコ、カラ松多し、所所、室とて、茶店あり,道至て、嶮岨なり、凡、五合目程にて昼ゲス p085a,此辺より下たを見るに白き打わた様の雲所々に,ありて、其後、野に移り雲とかげ、幾ツも有 て珍し、右山通れハ、岩山(すな山, とも云)三里八町木草 なく岩斗也
、是ハ一面焼土にてたかくそ見る,ことし、是よりハ別而、嶮岨にて中にハ取付て登る 所も有、富士、裾野に八海とて、湖水、八ツ有(長二り, 巾一り) 位の西也
、吉田口より西、富士の北ニ当、南須磨の海 (人穴の 近所ニ有)山中湖水(山中関の, カタエニ有)艮あすみの海(明見に あり) 川口の海(川口ニ, あり)西の湖ノ海(西ノ湖, 村ニ有)西志やうしの海 p085b (精近村,にあり)南西、本須(本巣村,にあり)志びれの海(志比礼村, にあり) 都合八海也
、御手洗川、社頭の北の方にあり,岩山ニ至而ハ、室ハ板屋の様にして後江ハ山へ 摺付、両脇、板にて張、其他を岩にて畳(風に吹,とられ,まじき 為成べし)谷より雪かたまりたりを切来り屋根に,のせ、日に解る水を樋にて桶へ移し飲水に する、茶一盃五文、菓子一ツ五文極り也
,七ツ時頃と 覚しく、絶頂江登(此時、刻を考へられハ, 六七リの道なるへし)都合九里 八町と云、都而、岩山にて中程に大成、宮あり p086a,是を御鉢と云、風ふく、日陰の方にハ、雪見ゆる也
御鉢廻り道法、三拾六町といゆとも、左にて、覚ゆ、此辺 所々高低、立岩有、是を八葉連花にたとふ 就中、未申の方、岩高し、(御体の穴中へも案内取   這入事、出来る由、跡にて聞)御体 めくる所々に、からかね様、仏有、三ッの山共、往古、仏の 登り初、成にや、辰巳ノ方、笠根山、是、高山地へ、ッ イテ、森の如く見ゆ、箱根、海も眼下也
、巳年ノ方,八合目程に、宝永山、砂斗の根二見ゆる、穴ノ南畔二 このしろ池とて、少し池形、山上にあれバ、この,p086b,しろ居るとハ、此謂なる也
、よし、一滴の水だになし 南の方、伊豆の出崎、東海道筋、デリコウシの海 など、スワマのことく、眼下に見へ、未申の方、大岩へ 登り、下をみるに、黒雲ぐるんをして、雷の様子,遥、下に見おろしてハ、恐しげもす、すくなし、空ハ 晴天也
、是より、西ノ方へ廻り、夕日の照、かがやき 過刻、見し、黒雲にハ、気なく、谷間々に,珍し鳥、白雲二照合、夕日、目の及ぶ丈け、面白き えも、いへず、是より廻る北の方に差渡、二尺余りの p087a,柄杓、井水へ手の届く迄にたたへし,といふ銘水、旅人、手水、又、目の薬とて銭を取 此所すべて焼土にて、水の溜るへき様なけれとも,此場にかきり汲水出るハ不思議なる亊也
、又 あれハいか成、山様、問ふに更に取合ず思うに山、上りる 人々ハ、皆、後生の為とて景色、地理の亊ハ同人も,なけれバ銭、取の他、かかる亊にハ取合ぬか、扨、絶頂の 室に着し、飯木賃、外に餅木賃、水木賃様云,あり、絶頂の泊りハ、稀なると云、頂きにも室四五軒 p087b,有へし、多くハ、八合目の室に泊る亊のよし,夜具一ツ百文、ふとん五拾文、是を借りて臥けるに 底冷して、寒中にもかかる夜ハ稀也
、夜中、空を,詠るに、星の光、するどく澄渡りて、ものすごし 地気を離れ、陽気辺りになき故、郭、澄て見,ゆる成へし、あながち大きく見ゆるにハあらず 扨、あるじハ(此店、砂走村より出張, ヱひスヤ、半兵衛と云)我等を寝せ置、庚申 待とやら、いひて、隣へ、出行、しか程なく、生酔の男,哥などうたひ来て、くだらぬ亊をくだ巻、等 p088a,市中の交にことならず仙境に入し思ひにかかる分,さまもなし 五日、晴、暁七ツ頃起、支度なとして、追付、日の上り,ならんと申せしまま、 立出て、東南の方の岩鼻に,居しに、東の方一面に薄赤、次第々々に紅色、増 日の出るまでハ、余程、久し、日の出るひ、志ばらくハ,ごこうもなく(漂流の人の海中にて  見しといふに亊なるず)堅、在も尊く拝,せしに、かたはらニ、五六人、是も拝ミに来り、いつれも 泊き、着物にて、一同、念仏申、日の一丈も上リし頃 p088b, 新光からやき、人の面、白く見ゆ、別に替りたる 亊なし、其時、八ツヶ嶽(信甲 ノ境)駒ヶ嶽(信州の駒ヶ たけとハ別也
) 近辺にての高山也
、浅間ヶ嶽(亥ニ 当ル)遥も、烟も見ゆ,かく高山へも、いまた、日移らず、 下タを見るに、いまた 雲、覆、居て、くらき体也
、日の光出し、此夜明にも あらんかとおもふ、覆ひし雲もいずか消て、ミへず,成ぬ、郭、明て見しに、一面に霜降て、手、 かぢけて わらしの紐さへ、結ひかたし,富士へ登るもの七八合目にて、人の顔色変ると p089a,いふ、何さま、血色なく、白(ラ)シヤケて、見ゆる也
、暑中 俄に寒風に逢故、毛穴、立故かと思ふ、扨、夫より,大宮へ、下る、砂走口へ下ればわらんじを重、 様、暫時に,三里八丁下る由なれども、余程の廻りて、且、帰国の 日数も迫りかたく、得廻らで、大宮に趣ぬ、日数,限りなき人ハ、必、砂走り口へ、下りぬへかし、 此道ハ,吉田口の上りより、猶更、嶮岨に覚ゆ、吉田ハ甲州,地にて、山中の高ミ也
、 大宮ハ東海道に近記所,なれバ、土地低し、是より登りハさぞ難儀成べく p089b,思ふ、絶頂より一里も下し頃、宝永山迄ハ左ノ方 十町迄ハ、なかるへきか、大成場にてハ、物を見クタス もの也
、さすれハ、御鉢の大サ、思ふとハ、違なるべし (宝永四年十一月二十三日夜、地震二度、鳴動して山上焼上焼土 近国ニ落、南ハ駿河ノ岡部、東北ハ武蔵栗橋の宿に及、此大焼に,宝永山出来たり 宝永年故、郭名つく)木山に懸れハ大樹多、道に横たわり,しを、くぐり、 のりこえ、などして漸く野山にかかる,木を出す亊とてハなく、皆、其ままに朽、腐る亊、 勿体なし、樅、ブナノ木、多し、野を下るによし,芒、背丈をこへ、左右、見渡す亊ならずして p090a,八葉峯ノ図, 大宮口、坤, 砂走口、巽, 吉田口、艮, 須山口、乾 p090b, 砂走り飛落の図 p091a,うつとし、北ノ方ニ少し黒雲見へしゆへ、道を,早メし折から、巽ノ方にちぎれ雲、少しあれ共、 辺り晴天也
、然るに、あたまの上、間近く南ノ方,より竹を割ことき声すさましき音、北をさして 響き思はず、地に伏しも不審(いぶか)しき音也
、殊に,青天、替る亊なし、いか成亊といふ亊しらず 富士八合目程に三人斗、何か尋る様子に付,是を尋ねし、砂走の者、去ル十八日ニ七八合の 間にて、何方へか失しまま、尋に出しと云、是ハ p091b,村山の者のよし、人穴へ行ニハ村山村より 上井戸へ三り、是より壱リ半にして、人穴也
、此村山 までにて、九り八丁下り着、村山、アハ、大宮(村山より  二リ) 黒田、高原、(子坂有)岩木坂より原、蒲原との間 の宿へ出、東海道筋、富士川(急流 船渡)を越、岩渕,(間の,宿也
)に泊ル、 六日、晴、岩渕より富士間のあたりにして其眺望,言語に演かた記、絶景也
、中ノ郷と云、所より富士川末、うき島の辺迄、一目に見へ、是、又,p092a,よき風景、蒲原宿、入口右ノ方に御殿山、古城 跡有、此辺の濱を田子の浦と云、むかタ こがね,岩沢近辺、(神原より壱り)町離に川有、寺尾 蔵澤是より、さつた山に懸り、昔は下磯辺道親,知らずと云、明暦の末、此山へ道付替しよし 此所にも古城跡有、興津川越、沖津(由井より二り)爰(ここ)を 清見ケ関と云、町内右の方、清見寺巨鰲山(こごうさん) 求(ぐ)玉院(ぎょくいん)と云、是は三保ノ松原、見渡景よし 富士はみへず、鳩うら川、庵原川、江尻(ヲキツより一り二丁) p092b,宿を出る町の中に橋有、郡境の川也
、左ノ方 清水の船着也
、三保の松原繁し景、其内に,庵原郡、有渡ノ郡も有由、久能山左ノ方に見 上原、吉田、長沼、まがりかね、左に八幡の宮あり,横田、左の方に清水山観音堂有、此邊、田の 名所、府中(江尻より二り廿丁)御城下甲府にひとし志豆,機山と云ニ、浅間社、結構成よし、 安部川、此川に,陰陽石有、一つ二つ拾ひ、得、此川と藁科川との 間に木枯ノ森有、手越と云ハ、昔ハ駅にて長者 p093a
遊君有しと さはたり 丸子宿(府中より一り半)誓願寺と云有、景地、同じ峯 二つ並、此山間より出る月、吐月峰と云、赤牛村 川あり宇津ノ山坂、けはし、丸子宿、とろろ汁名物なれども夏はなし 岡部(丸子より二り)、横内川橋有、右山を朝比奈山 と云、かりやと村、白子、是より藤枝迄、家、続 藤枝宿(岡部より一り廿六丁)瀬ノセの川、島田ヶ原、右ノ方に 烏帽子山、其形よく似たり、島田が渕 p093b
島田宿(藤枝より二り)中島、大井川(越し一り、駿遠境)初倉山は 島田の上に見、八倉山とも 金谷宿に泊(島田より壱り)御殿有、宿を出、坂を登る 諏訪の原、右に城山有、菊川、菊ケ渕と云有 よし、さよの中山、あめの餅、名物、五文、取に しる飴を付て売、坂口少しおり往来真中に 夜啼石か、右手に、すれて、はだ美し黒石にして 背丈も有べし 日坂宿(金谷より一り廿四丁)わらび餅名物ゆひのあたま p094a 程にして五つづつ盛、白砂糖かけて売、宿出 鯨やまと云あり、道端に八幡宮、くじら骨の池有 掛川宿(佐野郡日坂より壱り廿九丁)宿内、右ノ方に城見  (五万三千七石余、太田摂津守)  おいけ村 さいた村 ふせ川 くつへ村 袋井宿(カケ川より二り十六丁)木原村、右に権現社、西島村 見賀野川有、大久保、見付茶屋、鷺さりの原(鷺去橋有) 見付宿(袋井宿より一り半)宿出、左に八幡宮、中泉、御殿有 ミやい川、しき村、池田、昔、池田長者、遊君有、今は 天竜川の端に形斗残、湯谷、石塔あり、丈
p094b
三尺斗,、天竜川、水上、信州、子安町、安間 橋葉、植松、間込川有、昔、爰を小天竜と云 浜松宿(見付より二り半)(六万石水野左近将監城下なり)二俣の城へは四五り隔 是より前坂まで真砂にて、いとわつらわし海道、真 すくに付たり、若林ノ郷、左ノ方に沼有、篠塚村 右に諏訪の神有 坪井村 舞阪(浜松より二り十一丁)右ノ方シトロと云に新井の番所 有、此、今切と云、奥へ五里余の入込、いつの頃にか 有けん、山よりほら貝、夥敷、抜出て海と成由 p095a 故、今切と云 新居(舞阪より海上弐り三丁)船場関所越て、宿也
、橋本、昔の 道ハ右の方へ入也
、浜名の橋跡、新居うなぎ名物也
白須賀(新居より一り六丁)宿を出、潮見坂、大洋眼前に 見ゆ、右に高師山、さい宿、猿ケ馬場、是より二川 ノ間、遠三ノ境 二タ川(白須賀より二り六丁)唐沢、大岩邑、火打坂、右の方 石巻山、いむれ、二連木、朝倉川と云、小川有 吉田(二川より一り半四丁)宿内右に城(七万石松平伊豆守)下地村 p095b 石田村、小坂井、八幡宮有、此辺、龍巻と云、昔 此宮居、家居、夥敷、巻上、海上、半里斗行と云、 身かいの郷、さくら町、爰ハ松原也
、此原を本能か原と云、今川と御合戦有、一ノ宮、牛久保ハ右に当 御油(吉田より二り半四丁)赤坂迄の間、右に本坂越の道有 赤坂(ゴイより十六丁)長沢、御茶屋有、山中、此辺、両方、松山也
法蔵寺(早縄名物此寺にて, 加治せしは格別)二村山と云八幡社あり 藤川(赤坂より二り九丁)岡の郷、大久保、坂崎 左右田の郷に 御茶屋有 大平村川端より、一里斗、北に小豆坂と p096a,いふ有 七本鑓の場かげの郷,岡崎宿(額田郡藤川より壱り七丁) 城下町よし(五万石本多中務之輔) 十一日晴、六つ時出立ソコココ見物し板屋町通り やはき大橋(長弐百八間と云)見物し、夫より挙母(加茂郡二万 石内藤山城守城) へ懸り、伊保へ出(伊保原長し)八草より(尾州)山口 瀬戸を越 日数三十五日といふ、未ノ刻に我住宿に帰り着キ ホツトいきつぎ、ヤレヤレ嬉や嬉や、年久敷望,たりし三山廻り、嶮岨の所のみ、猶危き所 をも、怪我なく猛(たけだけし)き獣にも出会ず病氣も p096b,なく 寔(まこと)に、ことゆへなく、旅行しすましたる 事の嬉しさの余り,  うれしさを何といはづの奥深ミ,  ねかひもみつの山めぐりして
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