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-----no.8352 <<-----2012、0七月25日(水、13 時)----------
歴史同好会で、
永井家の南区の墓を聞いた。
で、行った。
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永井荷風は余り知らない。 昔、写真を見た、
浅草のストリップ楽屋で、混じっていた。
ここが、「棲家」の様な記事だった。
若い時は、反発気味な意見だが、
今、年を取ると、それ程反発心も無くなる。
又、読む機会があるかも??
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荷風が気になったのでは、無い。
塩だ。
永井家の塩屋敷を探しに行った。
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西念寺の墓は、永井家関係がある。
石に書いてあつた。つまり、
「緒川了願寺に在りし先代の墓碑を移設し、
西来寺の墓碑と併せて此処にまつる
  平成十八年六月」と。
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永井星渚と云う人が出てきた。
少し資料を読む。
したの載せよう。
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目的はここが塩屋敷で有つた事が確認できればる良い。
それは、果たしたと思う。
帰り道は、まっすぐ柴田3丁目まで来た。
この東が天白川で、
江戸時代は、川は、この辺まであり、
多分この道は浜辺だったと思った。
塩浜を町にするには、真っ直ぐの道が出来る。
北を思うと、一号線があり、当時を想像しにくいが、 星崎、鳴海の位置から、確信出来る。
此処から「海」と。
又、東は川を超えて、一キロ程で、大高城跡だ。
今考えているのは、戦国から江戸中期迄である。
桶狭間の戦いを考えるのにも、参考になる。

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序ながら「墓考」をする。
古い墓もある。
高さだが、今の墓は「背丈」が人程度ある。
どうもこれが高すぎると感じる。
昔は、墓前で、膝まずき、そして目の高さで拝んだと思う。
今の墓の前では、跪くと、見上げる事になる。
おかしい。
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死後の世界を考える。
釈迦は死後を言わない。孔子も言わない。
現世がわからないのに、死後の世界は言えない。
有るか、無いか。死ねば、土に帰る。そうなら、塔の様な墓はいらない。
長くても三代。後は土になりたい。

------d20120725永井星渚.mem---------
永井星渚出生地
 西来寺と道路を隔てて南側に、永井星渚の屋敷跡があります。
星渚は荷風の先祖で、徂徠派の儒学者として、野にあって尾張の儒学者として活躍しました。
門下に儒者の伊藤両村などを出しています。
名古屋市南区役所 〒457-8508 南区前浜通3-10 電話番号:052-811-5161(代表)
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【永井星渚出生地】
 永井星渚は宝暦十一年(1761)に生まれ、名を襲吉、通称松右衛門と称した。
 幼児より読書を好み、十三歳の時、鳴海の下郷学海宅に滞在中の儒学者市川鶴鳴に就いて教えを受けた。
 荻生徂徠の唱えた古文辞学派の学問に優れ、在野の儒学者として、その名は広く世に知れ渡っていた。
 門下より伊藤両村等の儒学者を輩出している。なお、丈豪永井荷風は、その子孫である。
名古屋市教育委員会の標札から転記
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一向宗。創建は大永年中(1532-55)境内には永井荷風文学碑がある。
本堂横の墓地には永井家一族の墓が多い。
また大正時代鳴海の小作争議の立役者雉本朗造博士の墓もあります。
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西来寺の南側の駐車場が星渚の屋敷跡です。
永井家は江戸時代の初め頃にこの地に土着したらしいが、江戸幕府の譜代大名永井家の一族だったと伝えられている。
初代の正直以後塩業などに従事する荒井村の豪農で、苗字帯刀を許された郷士格の家柄であった。
八代目の星渚はすぐれた儒学者で愛知郡で多くの門下生があった。
尾張藩には仕えようとせず野(や)の大儒と称され、地元の文化的指導者として一生を終えた人物である。
この家からは代々学問・文学に親しむ人物が出た。
鳴海の誓願寺境内の芭蕉堂を建てた永井士前は十代目(荷風の祖父)です。
荷風の体内にはこうした父祖たちの儒学・俳句・漢詩など学問・芸術を愛好する文人の血が
脈々と流れていたことになる。
荷風がこの鳴尾の地を訪れたかどうか興味深いが、記録では鳴尾に足跡を印した様子はないようです
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2005.11.17 鳴尾町 天白川の堤防の上にある牛毛神社
牛毛は本地、南野、荒井とともに天白川の砂州が発達しその上にできた集落である。
神社は堤防の上にあり創建は太閤検地(1582-95)より以前と推定される。祭神は須左之男命。
境内には明和6年(1769)奉納の手洗い鉢、庚申塚の碑があります。
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永井星渚 ながい-せいしょ
1761−1819* 江戸時代中期-後期の儒者。宝暦11年12月生まれ。
市川鶴鳴にまなび,尾張(おわり)名古屋藩の国老志水氏につかえる。
二十余年間の勉学の経緯は「星渚先生対問」にしるされている。
文政元年12月13日死去。58歳。本姓は大江。
名は襲吉。字(あざな)は損疾,無咎。通称は松右衛門。
別号に?斎(しんさい),一翁。著作に「周易象義」「毛詩存疑」など。

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