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-----no.8502 <<-----2012、08月04日(土、9時)------
奥のほそみち。
8月3日分だ。その一部。
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此馬のとゞまる処にて馬を返し給へと、貸し侍ぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。
独は小姫にて、名を「かさね」と云)。
聞なれぬ名のやさしかりければ、
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  かさねとは八重撫子の名成(なる)べし  曾良
頓人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。
-----------------段落---------------

曽良の句だ。
扨、曽良だが、
--------d20120803河合曾良.mem----------
河合曾良
河合 曾良(かわい そら
 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日))
(だがこの日に曾良が没した記録が、
巡遣使随員の日誌に無いため、
没した正確な月日は判明していない)は、江戸時代中期の俳諧師。
松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。
蕉門十哲の一人とされる。
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長崎県壱岐市勝本浦にある河合曾良の墓
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誕生 1649年??月??日 日本 信濃国下桑原村
死没 1710年6月18日 日本 壱岐国勝本
職業 俳諧師 //ジャンル 俳句 //代表作 曾良旅日記
--------------------経歴 [編集]
信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。
幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、
岩波庄右衛門正字と名乗る。
12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚の元に引き取られる。
寛文8年(1668年)頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。
天和元年(1681年)頃に致仕。
江戸の吉川惟足に吉川神道を学ぶ。
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行し、
「曾良旅日記」(没後二百数十年を経て、
昭和18年(1943年)に所在が判明した。
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芭蕉はみんなが知っている。
が、曽良も調べたい。
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それより、今回は八重撫子だ。
抜ける途中の那須野原で河合曽良が詠んだ句です。
「かさねというかわいい名前だから、
花に例えたら八重撫子であろう」という意味です。
かさねとは道中にて出会った少女の名前で、
曽良はかさねを「重ね」と花びらが重なっているような
八重撫子にかけたものだと思われます。
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索くと、源氏物語の雨夜の品定めが出てきた。
そこまで戻らなくとも・・
曽良は源氏を読んだかも・・・
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現代はマンガもある。
空野八重らしい。
それより撫子は、サッカーだろう。
そういえば、新しいキャプテンは小さい様だ。
撫子かな?

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