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-----no.8563 <<-----2012、08月10日(金、08時)------
木曜の亀崎の古文書は、「奥の細みち」
コピー原文に併せて、行を改めた。
文字関係は今後したい。

-------d20120629おくのほそ道.mem-------------
-----本文
(p01b)
月日(つきひ)は百代の過客(くわかく)にして、
行(ゆき)かふ年(とし)もまた旅人也。
舟の上に生涯(しやうがい)をうかべ馬の口とらへて
老(おい)を迎ふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、
片雲(へんうん)の風(かぜ)にさそはれて漂泊(へうはく)の
思ひやまず、
海浜(かいひん)にさすらへ、
去年(こぞ)の秋江上(かうしやう)の破屋に蜘(くも)の
古巣(ふるす)を払ひて、やゝ年も暮(くれ)、
春立てる霞(かすみ)の空(そら)に、白川の関越えんと、
そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(だうそじん)の
まねきにあひて取(とる)もの
-------------------
(p02a)
手につかず、もゝ引の破(やぶ)れをつゞり笠の緒付
かえて、三里(さんり)に灸(きう)すゆるより、松島の月先(まづ)
心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)
に移るに、
  草(くさ)の戸(と)も住(すみ)替(かは)る代(よ)ぞひなの家(いへ)
面(おもて)八句(はちく)を庵(いほり)の柱に懸置(かけおく)。
(千住旅立ち:元禄二年三月二十七日)
彌生(やよひ)も末(すえ)の七日(なぬか)、明ぼのゝ
空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる
物から、不二(ふじ)の峯幽(かす)かにみえて、上野(うへの)
谷中(やなか)の花の梢(こずゑ)又いつかはと心ぼそし。むつ
ましきかぎりは宵(よひ)よりつどひて、舟に乗(のり)て
--------------------
(p02b)
送る。千じゆと云(いふ)所にて舟をあがれば、前途(ぜんと)三千
里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)の巷(ちまた)に
離別(りべつ)の泪(なみだ)をそゝぐ。
  行(ゆ)春や,鳥(とり)啼(なき)魚(うを)の目(め)は泪(なみだ)
是(これ)を矢立(やたて)の初(はじめ)として、
行道(ゆくみち)なをすまゝず。人々は
途中(みちなか)に立ちならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄は
と、見送(みおくる)なるべし。(草加)ことし元禄二(ふた)とせにや、
奥羽(あうう)長途(ちやうど)の行脚(あんぎや)、只(たゞ)かりそめに思ひ立ちて、
呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)の恨(うらみ)を重ぬといへ共(ども)、耳に
ふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生きて帰らばと
------p03a-------------
定(さだめ)なき頼(たのみ)の末(すゑ)をかけ、
其(その)日漸(やうやう)早加(さうか)と
云(いふ)宿(しゅく)にたどり着(つき)にけり。
痩骨(そうこつ)の肩にかゝれる物先(まづ)くるしむ。
只(たゞ)身すがらにと出立(いでたち)侍(はべ)を、
帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜(よる)の防ぎ、
ゆかた雨具(あまぐ)墨筆(すみふで)のたぐひ、
あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、
さすがに打捨(うちすて)がたくて、
路次(ろし)の煩(わづらひ)となれるこそわりなけれ。
------------------------------
(室の八島:元禄二年三月二十九日)
室(むろ)の八島(やしま)に詣(けい)す。
同行(どうぎやう)曾良(そら)が曰(いはく)、
此(この)神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の神と申(まうし)て、
富士一躰(ふじいつたい)なり。
無戸室(うつむろ)に入て焼(やき)給ふ誓(ちかひ)のみ中に、
火々出見(ほゝでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八島と申(まうす)。
又煙を読習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂(いはれ)也。
将(はた)、このしろと
-----------p03b
いふ魚を禁ず。
縁記(えんぎ)の旨(むね)世につたふ事も侍(はべり)し。
------------------段落-------------------
(日光山の麓:元禄二年三月三十日)
三十日(みそか)、日光山の麓(ふもと)に泊る。
あるじの云(いひ)」けるやう、我名を仏五左衛門(ほとけござえもん)と云(いふ)。
万(よろづ)正直を旨とする故(ゆえ)に、
人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、
一夜の草の枕も打解(うちとけ)て休み給へと云(いふ)。
いかなる仏の濁世塵土(ぢよくせぢんど)に示現(じげん)して、
かゝる桑門(さうもん)の乞食順礼(こつじきじゆんれい)ごときの人を
たすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、
唯(たゞ)無智無分別(むちむふんべつ)にして正直偏固(へんこ)の者也。
剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁(じん)に近きたぐひ、
気稟(きひん)の清質(せいひつ)、尤尊(もつともたふと)ぶべし。
(日光:元禄二年四月一日)
卯月朔日(うづきついたち)、
------------------------p04a------------
御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。
往昔(そのかみ)此(この)御山を二荒山(ふたらさん)と書(かき)しを、
空海大師開基(かいき)の時、「日光」(につかわう)と改(あらため)給ふ。
千歳未来(せんざいみらい)をさとり給ふにや、
今此(この)御光(みひかり)一天にかゞやきて、
恩沢(おんたく)八荒(はつくわう)にあふれ、
四民安堵(あんど)の栖(すみか)穏(おだやか)なり。
猶(なお)、憚(はゞかり)多くて筆をさし置きぬ。
  あらたうと青葉(あをば)若葉(わかば)の日(ひ)の光(ひかり)
---段落--2012-7月26日終わり---段落--2012-8月02始まり-----
黒髮山(くろかみやま)は、霞かゝりて雪いまだ白し。
  剃捨(そりすて)て黒髮山に衣更(ころもがへ)  曾良
曾良は河合氏(かはいうじ)にして惣五郎(そうごろう)と云へり。芭蕉の
下葉(しらば)に軒(のき)をならべて、予が薪水(しんすゐ)の労(らう)をた
-------------------p04b-------------
すく。このたび松しま・象潟(きさがた)の眺(ながめ)共にせんこと
(を悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅(きりよ)の
難(なん)をいたはらんと、)
旅立(たびだつ)暁(あかつき)髪を剃(そ)りて墨染(すみぞめ)にさまをかへ、惣五を改めて
宗悟(そうご)とす。仍(より)て黒髪山の句有(あり)。衣更の二字、力
ありてきこゆ。
(裏見の瀧:元禄二年四月二日)
二十余丁(にじふよちやう)山を登つて滝(たき)有(あり)。岩洞(がんとう)の
頂(いただき)より飛流(ひりう)して百尺(はくせき)千岩(せんがん)の
碧潭(へきたん)に落(おち)たり。岩窟(がんくつ)に身を
ひそめ入(いり)て滝の裏(うら)より
みれば、うらみの滝と申(まうし)伝え侍(はべ)る也。
  暫時(しばらく)は滝(たき)にこもるや夏(げ)の初(はじめ)
-----------------------------段落----------
(那須の黒羽:元禄二年四月二日、三日)
那須(なす)の黒ばね(黒羽)と云(いふ)所に知人(しるひと)あれば、是(これ)より
野越(のごし)にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥(はるか)に一村(いつそん)を
----------------p05a-------------
見かけて行(ゆく)に、雨振(ふり)日暮(くる)る。農夫の家に
一夜(いちや)をかりて、明(あく)れば又野中(のなか)を行(ゆく)。そこに
野飼(のがひ)の馬あり。草刈(くさかる)をのこになげきよれば、
野夫(やぶ)といへども、さすがに情(なさけ)しらぬには非(あら)ず。いかゞ
すべきや、されども此野(このの)は縱横(じやうわう)にわかれて、うゐひゐ
敷(しき)旅人(たびびと)の道ふみたがえん。あやしう侍れば、
此(この)馬のとゞまる処にて馬を返し給へと、貸し
侍(はべり)ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡(あと)したひてはしる。
独(ひとり)は小姫(こむすめ)にて、名を「かさね」と云(いふ)。聞(きき)なれぬ
名のやさしかりければ、
-------------------------p05b--------------
  かさねとは八重撫子(やへなでしこ)の名成(なる)べし  曾良
頓(やがて)人里に至れば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(ゆひつけ)
て馬を返しぬ。
-----------------段落---------------
(那須八幡:元禄二年四月四日)
黒羽(くろばね)の館代(くわんだい)、浄坊寺何がしの方に音信(おとづ)
る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語(にちやかたり)つゞ
けて、其弟(そのおとふと)桃翠(たうすゐ)など云(いふ)が、
朝夕勤(あさゆうつとめ)とぶらひ、
自(みづか)らの家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、
日をふるまゝに、ひとひ郊外(かうぐわい)に逍遥(せうえう)して、
犬追物(いぬおふもの)の跡(あと)を一見(いつけん)し、那須の篠原(しのはら)をわけて
玉藻(たまも)の前の古墳(ふるづか)をとふ。それより八幡宮に
------------------p6a--------------
詣(まうづ)。与市(よいち)扇(あふぎ)の的(まと)を射(い)し時、別しては我国
氏神正八(わがくにのうぢしやうはち)まんとちかひしも、此(この)神社にて侍(はべる)と
聞(きけ)ば、感応(かんおう)殊(ことに)しきりに覚えらる。暮(くる)れば
桃翠宅に帰る。
(修験光明寺:元禄二年四月九日)
修験(しゆげん)光明寺と云(いふ)有(あり)。
そこにまねかれて、行者堂(ぎやうじやだう)を拝す。
  夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝(をが)む首途(かどで)哉(かな)
---------------------段落--------------------
(雲岸寺、仏頂和尚山居跡:元禄二年四月五日)
当国雲岸寺(うんがんじ)のおくに、仏頂和尚山居跡(ぶつちやうをしやうさんきよのあと)あり。
  竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)
  むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭(すみ)して岩に書付(かきつけ)侍(はべ)りと、いつぞや
--------------p06b------------------
聞え給ふ。其(その)跡見んと雲岸寺に杖(つゑ)を曳(ひけ)ば、
人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく
道のほど打ちさはぎて、おぼえず彼麓(かのふもと)に到(いた)る。
山はおくあるけしきにて、谷道遥(たにみちはるか)に松杉(まつすぎ)
黒く苔(こけ)しただりて、卯月(うづき)の天(てん)今猶(いまなほ)寒し。
十景尽(つく)る所、橋をわたつて山門に入(いる)。さて、かの
跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢのぼれば、
石上(せきしよう)の小庵(せいあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。妙禅師(めうぜんじ)の
死関(しくわん)、法雲法師(ほふうんほうし)の石室(せきひつ)を見るがごとし。
  木啄(きつゝき)も庵(いほ)はやぶらす夏木立(なつこだち)
--------------------------------p07a--------------
と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し。
----------------------------段落-------------------
(殺生石:元禄二年四月十九日)
是より
殺生石(せつしやうせき)に行(ゆく)。館代(くわんだい)より馬にて送らる。
此(この)口付(くちつき)のをのこ短冊(たんざく)得させよと乞(こふ)。
やさしき事を望(のぞみ)侍(はべ)るものかなと、
  野(の)を横(よこ)に馬(うま)引(ひ)きむけよほとゝぎす
殺生石は温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰(やまかげ)にあり。石の毒気(どくき)いまだ
ほろびず、蜂(はち)蝶(てふ)のたぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬ
ほどかさなり死す。
(遊行柳:元禄二年四月二十日)
又、清水(しみづ)ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の
里にありて、田の畔(くろ)にのこる。此(この)所の郡守(ぐんしゆ)戸部
某(こほうなにがし)の、此(この)柳みせばやなど、折((おり)をりにの給ひ
----------------p07b-------------------
聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日(けふ)此(この)
柳のかげに,こそ立ちより侍(はべり)つれ。
  田(た)一枚(いちまい)植(うゑ)て立(たち)去る柳(やなぎ)かな
------------------------段落-------------------
(白河の関:元禄二年四月二十一日)
心許(こころもと)なき日かず重(かさな)るまゝに、白川(白河:しらかは)の関(せき)に
かゝりて旅心(たびごころ)定(さだま)りぬ。いかで都へと便(たより)求(もとめ)しも
段(ことわり)也。中にも此(この)関は三関(さんくわん)の一(いつ)にして、風騒(ふうさう)の
人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を
俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずゑ)猶(なほ)あはれなり。卯(う)の花の白妙(しろたへ)
に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地(ここち)
ぞする。古人(こじん)冠(かんむり)を正(たゞ)し衣裳(いしやう)を改(あらため)し事
---------------------p08a------------------
など、清輔(きよすけ)の筆にとゞめ置かれしとぞ。
 卯(う)の花(はな)をかざしに関(せき)の晴着(はれぎ)哉(かな)  曾良
------------------段落----------------p08a------------------
(須賀川:元禄二年四月二十二日から二十九日)
とかくして越行(こえゆく)まゝに、あぶくま川(阿武隈川)を渡る。
左に会津根(あひづね)高く、右に岩城(いはき)、相馬(さうま)、
三春(みはる)の庄(しやう)、常陸(ひたち)下野(しもつけ)の地をさかひて山つらなる。
かげ沼(影沼)と云(いふ)所を行(ゆく)に、けふは空曇(くもり)て物影(ものかげ)
うつらず。すか川(須賀川)の駅に等窮(とうきう)といふものを
尋(たづね)て、四、五日とゞめらる。先(まづ)白河の関
いかに越えつるやと問(とふ)。長途(ちやうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、
且(かつ)は風景に魂(たましひ)うばはれ、懐旧(くわいきう)に
---------p08b----------
腸(はらわた)を断(たち)て、はかばかしう思ひめぐらさず。
  風流(ふうりう)の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた
無下(むげ)にこえんもさすがにと語れば、脇(わき)第三(だいさん)とつゞけ
て三巻(みまき)となしぬ。此(この)宿の傍(かたはら)に、大きなる栗の木蔭(こかげ)
をたのみて、世をいとふ僧有(あり)。橡(とち)ひろふ太山(みやま)も
かくやと間(しづか)に覚えられて、物に書付(かきつけ)侍(はべ)る。其詞(そのことば)、
  栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土(さいほうじやうど)に
便(たより)ありと、行基菩薩の一生杖にも
柱にも此(この)木を用(もちひ)給(たま)ふとかや。
  世(よ)の人(ひと)の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗(くり)
-------p09a-----段落--------
(安積山:元禄二年四月二十九日、五月一日・二日)
等窮(とうきゆう)が宅(たく)を出(いで)て五里ばかり、
檜皮(ひはだ)の宿(しゆく)を離
れてあさか山(安積山)有(あり)。路(みち)より近し。此(この)のあたり沼多し。
かつみ刈(かる)比(ころ)もやゝ近うなれば、いづれの草を花が
つみとは云(いふ)ぞと、人々に尋(たづね)侍(はべ)れども、更(さらに)知(しる)人
なし。沼を尋(たづね)、人にとひ、かつみ/\と尋(たづね)ありきて、
日は山の端(は)にかゝりぬ。二本松(にほんまつ)より右にきれて、
黒塚(くろづか)の岩屋(いはや)一見し、福島に宿(やど)る。明くれば、
しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋(たづね)て忍ぶの里に行(ゆく)。
遥(はるか)山陰(やまかげ)の小里(こざと)に、石半(なかば)土に
埋(うづもれ)てあり。里の
童部(わらべ)の来りて教(をしへ)ける、昔は此山(このやま)の上に
--------p09b-----------
侍(はべり)しを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして此(この)石を試み
侍るをにくみて、此谷につき落せば、石の面(おもて)下(しも)
ざまに伏(ふ)したりと云(いふ)。さもあるべき事にや。
  早苗(さなへ)とる手(て)もとや昔(むかし)しのぶ摺(ずり)
------段落------------
(瀬の上宿・佐藤庄司旧跡:元禄二年五月二日)
月の輪の渡(わたし)を越(こえ)て、瀬(せ)の上と云(いふ)宿に出(い)づ。
佐藤庄司(さとうしやうじ)が旧跡は、左の山際(やまぎは)一里半計(ばかり)
に有(あり)。飯塚(いひづか)の里、鯖野(さばの)と聞(きき)て、
尋/\(たづねたづね)行(ゆく)に、
丸山と云(いふ)に尋(たづね)あたる。是(これ)庄司が旧館(きうくわん)也。
麓(ふもと)に大手(おほて)の跡など、人の教(をし)ふるに任(まか)せて泪(なみだ)を
落(おと)し、又かたはらの古寺(ふるでら)に一家(いつけ)の石碑(せきひ)を残す。
--------------p010a--------------
中にも二人の嫁(よめ)がしるし、先(まづ)哀(あはれ)也。女なれどもかひがひ
しき名の世に聞(きこ)えつる物(もの)かなと袂(たもと)をぬら
しぬ。堕涙(だるゐ)の石碑も遠きにあらず。寺に
入(いり)て茶を乞へば、爰(ここ)に義経の太刀(たち)、弁慶が笈(おひ)
をとゞめて什物(じふもつ)とす。
  笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)
五月朔日(ついたち)の事(こと)なり。
---------段落------
(飯塚:元禄二年五月二日・三日)
其夜(そのよ)飯塚(いひづか)にとまる。温泉(いでゆ)あれば
湯(ゆ)に入(いり)て宿をかるに、土座(どざ)に莚(むしろ)を敷(しき)てあやしき
貧家(ひんか)也(なり)。灯(ともしび)もなければ囲炉裏(ゐろり)の火(ほ)かげに
寝所(ねどころ)をまうけて臥(ふ)す。夜に入(いり)て、雷鳴(かみなり)雨しきり
-----------p010b----------
に降(ふり)て、臥(ふせ)る上よりもり、蚤蚊(のみか)にせゝられて
眠らず。持病(ぢびやう)さへおこりて、消入(きえいる)計(ばかり)になん。
短夜(みじかよ)の空もやうやう明(あく)れば、又旅立(たびだち)ぬ。
猶夜(なほよる)の余波(なごり)、
心進まず。馬かりて桑折(こをり)の駅に出(いづ)る。遥(はるか)なる
行末をかゝへて、斯(かか)る病(やまひ)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅
辺土(きりよへんど)の行脚(あんぎや)、捨身無常(しやしんむじやう)の観念(くわんねん)、
道路に死なん、是(これ)
天の命(めい)なりと、気力(きりよく)聊(いささか)とり直し、路(みち)縱横に
踏(ふん)で、伊達(だて)の大木戸(おほきど)をこす。
--------段落--------
(笠島:元禄二年五月四日)
鐙摺(あぶみずり)、白石(しらいし)の城を
過(すぎ)、笠島(かさしま)の郡(こほり)に入れば、
藤中将実方(とうのちやうじやうさねかた)の塚は
いづくの程(ほど)ならんと、人にとへば、是(これ)より遥(はるか)右に
-------段落------
(飯塚:元禄二年五月二日・三日)
其夜(そのよ)飯塚(いひづか)にとまる。温泉(いでゆ)あれば
湯(ゆ)に入(いり)て宿をかるに、土座(どざ)に莚(むしろ)を敷(しき)てあやしき
貧家(ひんか)也(なり)。灯(ともしび)もなければ囲炉裏(ゐろり)の火(ほ)かげに
寝所(ねどころ)をまうけて臥(ふ)す。夜に入(いり)て、雷鳴(かみなり)雨しきり
-----------p010b----------
に降(ふり)て、臥(ふせ)る上よりもり、蚤蚊(のみか)にせゝられて
眠らず。持病(ぢびやう)さへおこりて、消入(きえいる)計(ばかり)になん。
短夜(みじかよ)の空もやうやう明(あく)れば、又旅立(たびだち)ぬ。
猶夜(なほよる)の余波(なごり)、
心進まず。馬かりて桑折(こをり)の駅に出(いづ)る。遥(はるか)なる
行末をかゝへて、斯(かか)る病(やまひ)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅
辺土(きりよへんど)の行脚(あんぎや)、捨身無常(しやしんむじやう)の
観念(くわんねん)、
道路に死なん、是(これ)
天の命(めい)なりと、気力(きりよく)聊(いささか)とり直し、路(みち)縱横に
踏(ふん)で、伊達(だて)の大木戸(おほきど)をこす。
--------段落--------
(笠島:元禄二年五月四日)
鐙摺(あぶみずり)、白石(しらいし)の城を
過(すぎ)、笠島(かさしま)の郡(こほり)に入れば、
藤中将実方(とうのちやうじやうさねかた)の塚は
いづくの程(ほど)ならんと、人にとへば、是(これ)より遥(はるか)右に
-----------p011a------------
見ゆる山際(やまぎは)の里を蓑輪(みのわ)・笠島と云(いふ)。道祖神の
社(やしろ)、かた見の薄(すゝき)、今にありと教ふ。此比(このごろ)の五月雨に
道いとあしく、身つかれ侍(はべ)れば、よそながら眺(なが)め
やりて過(すぐ)るに、蓑輪(みのわ)・笠島(かさじま)も五月雨の折に
ふれたりと、
  笠島(かさじま)はいづこさ月のぬかり道(みち)
岩沼(いはぬま)に宿る。
---------段落--------
(武隈:元禄二年五月四日)
武隈(たけくま)の松にこそ目覚(さむ)る心地はすれ。根は土際(つちぎは)
より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずと
知らる。先(まづ)能因法師(のういんほうし)思ひ出(いづ)。往昔(そのむかし)、
陸奥(むつ)の守(かみ)
-------------p011b---------------
にて下りし人、此(この)木を伐(きり)て名取川(なとりがは)の橋杭(はしぐひ)に
せられたる事などあればにや、松は此(この)たび跡も
なしとは詠(よみ)たり。代々(よゝ)あるは伐(きり)、あるひは植継(うゑつぎ)
などせしと聞(きく)に、今将(いまはた)千歳(ちとせ)のかたちとゝ
のほひて、めでたき松のけしきになん侍(はべり)し。
「武隈(たけくま)の松(まつ)みせ申(まう)せ遅桜(おそざくら)」と、
挙白(きよはく)と云(いふ)ものゝ餞別(せんべつ)したりければ、
  桜(さくら)より松(まつ)は二木(ふたき)を三月(みつき)ごし
------段落-------
(仙台:元禄二年五月四日から八日)
名取川(なとりがわ)を渡(わたり)て仙台に入。あやめふく日也(なり)。旅宿
を求めて四、五日逗留(とうりう)す。爰(ここ)に画工、加右衛門と云ものあり。
-------p012a---------------
聊(いさゝか)心あるものと聞て、知る人になる。此(この)者、年比(としごろ)さだか
ならぬ名どころを考置(かんがへおき)侍(はべ)ればとて、一日案内す。宮城
野(みやぎの)の萩(はぎ)茂りあひて、秋のけしき思ひやらるゝ。
玉田・横野・躑躅(つゝじ)が岡はあせび咲(さく)ころ也(なり)。日影(ひかげ)も
もらぬ松の林に入(いり)て、爰(ここ)を木の下と云(いふ)とぞ。
昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとは
よみたれ。薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝(をがみ)て、其
日(そのひ)はくれぬ。猶(なほ)松島・塩竈(しほがま)の所々画(ゑ)にかきて送る。
且(かつ)紺(こん)の染緒(そめを)つけたる草鞋(わらぢ)二足餞(はなむけ)す。されば
こそ、風流のしれもの、爰(ここ)に至りて其(その)実(じつ)を顕(あらは)す。
-------p012b-----------
  あやめ草(ぐさ)足(あし)に結(むす)ばん草鞋(わらぢ)の緒(を)
-------段落-----
(多賀城:元禄二年五月八日)
かの画図(ゑづ)に任(まか)せてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)
に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)
を調(ととのへ)て国守(こくしゆ)に献(けん)ずと云(いへ)り。
   壺碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有(あり)。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余(ろくしやくあまり)、横三尺計(ばかり)か。苔を穿(うがち)
て文字幽(かすか)なり。四維国界数里(しゆいこくかいのすうり)をしるす。此城(このしろ)、
神亀(じんき)元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人
之所置(あぜちんじゆふしようぐんのあそんあづまひとのおくところ)也(なり)。
天平宝字(てんぴようほうじ)六年、参議東海東山
節度使(さんぎとうかいとうざんせつどし)、
同将軍恵美朝臣(おなじくしようぐんえみのあそん)朝(あさ)かり修造(しゆざう)。
而十二月朔日(ついたち) と
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有(あり)。
聖武皇帝の御時(おんとき)に当れり。
むかしよりよみ置(おけ)る歌枕(うたまくら)、
多(おほ)く語伝(かたりつた)ふといへども、
山崩(くづれ)川流(ながら)て道改(あらた)まり、
石は埋(うづもれ)て土にかくれ、木は老(おひ)て若木(わかき)にかはれば、
時移り代(よ)変じて、其跡(そのあと)たしかならぬ事のみを、
爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、
今眼前に古人の心を閲(けみ)す。
行脚(あんぎや)の一徳(いつとく)存命(ぞんめい)の悦び、
羇旅(きりよ)の労を忘れて泪(なみだ)も落つるばかり也(なり)。
-----段落-------
(末の松山:元禄二年五月八日)
それより
野田の玉川、沖の石を尋(たづ)ぬ。末(すゑ)の松山(まつやま)は、寺を造(つく
り)て末松山(まつしようざん)といふ。松のあひ/\みな墓原(はかはら)にて、
羽(はね)をかはし枝を連(つら)ぬる契(ちぎり)の末も、終(ついに)は
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かくのごときと悲しさも増(まさ)りて、塩竈(しほがま)の浦に
入相(いりあひ)のかねを聞(きく)。五月雨の空聊(いささか)晴れて、夕月
夜(ゆふづくよ)幽(かすか)に、籬(まがき)が島(しま)もほど近し。
蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎ
つれて、肴(さかな)分つ声々に、つなでかなしもと
よみけん心もしられて、いとゞ哀也(あはれなり)。其夜(そのよ)
目盲(めくら)法師(ほふし)の琵琶(びは)をならして奥浄瑠璃(おくじやうるり)と
云(いふ)ものをかたる。平家にもあらず舞(まひ)にもあらず、鄙(ひな)び
たる調子うち上(あげ)て、枕近うかしましけれど、
さすがに辺土(へんど)の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝(しゆしよう)
に覚えらる。
-----段落--------------
(塩竃:元禄二年五月九日)
早朝、塩竈(しほがま)の明神に詣(まうづ)。国守(こくしゆ)再興
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せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)
九仭(きうじん)に重(かさな)り、朝日朱(あけ)の玉垣(たまがき)を輝かす。
かゝる道の果(はて)、
((塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、
神霊(しんれい)あらたにましますこそ、吾国(わがくに)の))
風俗なれと、いと貴(たふと)けれ。神前に古き宝燈(はうとう)
有(あり)。かねの戸びらの面に、文治三年和泉(いづみの)
三郎(さぶらう)奇進(きしん)と有(あり)。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前に
うかびて、そゞろに珍(めづら)し。渠(かれ)は勇義忠孝の
士也(なり)。佳命(かめい)今に至りて、慕はずといふ事なし。
誠(まことに)人能(よく)道を勤(つと)め、義を守るべし、名もまた
是(これ)にしたがふと云(いへ)り。日既(すでに)午(ご)にちかし。舟を
かりて松島にわたる。其(その)間二里余(あまり)、雄嶋(をじま)の
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磯(いそ)につく。
------------段落----------------
(松島:元禄二年五月九日・十日)
抑(そもそ)もことふりにたれど、松島は扶桑(ふそう)第一の好風(かうふう)に
して、凡(およそ)洞庭(どうてい)西湖(せいこ)を恥(はぢ)ず。東南より海を入(いれ)て、
江(え)の中(うち)三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)を湛(たゝ)ふ。島々の数を
尽(つく)して、欹(そばだ)つものは天を指(ゆびさし)、伏すものは波に
匍匐(はらばふ)。あるは二重(ふたへ)にかさなり、三重(みへ)に畳(たた)みて、左に
わかれ右に連(つらな)る。負(おへ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)
愛すがごとし。松の緑(みどり)こまやかに、枝葉(しえふ)
汐風(しほかぜ)に吹(ふき)たわめて、屈曲(くつきよく)おのづから矯(た)めたるが如し。
其の気色(けしき)(アナカンムリ+「目」)然(えうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を
粧(よそほ)ふ。ちはや振(ぶる)神の昔、大山祇(おほやまずみ)の
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なせるわざにや。造化(ざうくわ)の天工(てんこう)、いづれの人か筆を揮(ふる)ひ
詞(ことば)を尽さむ。雄島(をじま)が磯(いそ)は地つゞきて、海に出(いで)たる
島也(なり)。雲居禅師(うんこぜんじ)の別室の跡(あと)、坐禅石(ざぜんせき)など
有(あり)。将(はた)、松の木陰(かげ)に世を厭(いと)ふ人も稀(まれ)々
見え侍(はべ)りて、落穗(おちぼ)・松笠(まつかさ)など打烟(うちけふ)りたる草の
庵(いほり)閑(しづか)に住(すみ)なし、いかなる人とは知られずながら、
先(まづ)懐かしく立寄(たちよる)ほどに、月海(つきうみ)にうつりて、
昼のながめ又改(あらた)む。
-------------段落-------------
江上(かうしやう)に帰りて宿を求(もよむ)れば、
窓をひらき二階を作(つくり)て、風雲の中に旅寝(たびね)
するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地(こゝち)はせらるれ。
  松島(まつしま)や鶴(つる)に身(み)をかれほとゝぎす(時鳥) 曾良
予は口を閉ぢて、眠(ねむ)らんとしていねられず。旧庵(きうあん)
をわかるゝ時、素堂(そどう)、松島の詩あり、原安適(はらあんてき)、
松が浦島(うらしま)の和歌を贈らる。袋(ふくろ)を解(とき)て、こよひの
友とす。且(かつ)、杉風(さんぷう)・濁子(じよくし)が発句(ほつく)あり。
  十一日、瑞岩寺(ずゐがんじ)に
詣(まうづ)。当寺三十二世の昔(むかし)、真壁(まかべ)の平四郎(へいしらう)出家
して、入唐(につたう)、帰朝の後(のち)開山す。其後(そののち)に、
雲居禅師(うんこざんじ)の
徳化(とくげ)に依(より)て、七堂甍(いらか)改(あらたま)りて、
金壁(こんぺき)荘厳(しやうごん)光を
輝(かがやかし)、仏土成就(ぶつどじやうじゆ)の大伽藍(だいがらん)とはなれりける。
  彼(かの)見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやと慕はる。
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------------段落-------------
(石巻:元禄二年五月十日・十一日)
十二日、平泉(ひらいづみ)と心ざし、あねはの松(まつ)、緒(お)だえの橋など聞
伝(ききつたへ)て、人跡(じんせき)稀(まれ)に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の
行きかふ道そことも
わかず、終(ゆひ)に路(みち)ふみたがへて、石(いし)の巻(まき)といふ
湊(みなと)に出(いづ)。
こがね花咲(さく)と詠みて、奉(たてまつり)たる金花山(きんくわざん)海上に見渡し、
数百の廻船(くわいせん)入江(いりえ)につどひ、人家地をあらそひて、竃(かまど)の
煙立(たち)つゞけたり。思ひかけず斯(かか)る所にも来(きた)れる哉(かな)と、
宿(やど)からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)まど
しき小家に一夜(いちや)をあかして、明(あく)れば又知らぬ道まよひ(行ゆく)。
袖(そで)の渡り、尾ぶちの牧(まき)、
真野(まの)の萱(かや)はらなどよそ目に見て、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行(ゆく)。
心細き長沼にそうて、戸伊摩(といま)と云(いふ)所に一宿して、
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平泉に到(いた)る。其間(そのかん)二十余里ほどとおぼゆ。
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       (平泉:元禄二年五月十三日)
      三代の栄耀(えいえう)
一睡(いつすゐ)の中(うち)にして、大門のあとは一里こなたに有(あり)。
           秀衡(ひでひら)
が跡(あと)は田野(でんや)に成(なり)て、金鷄山(きんけいざん)のみ形を残す。
            先(まづ)
高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部(なんぶ)より流るゝ大河也(なり)。
衣川(ころもがは)は和泉(いづみ)が城(じやう)をめぐりて、高館の下にて大河に落
入(おちいる)。康衡(やすひら)等(ら)が旧跡(きうせき)は、衣(ころも)が関(せき)を
   隔(へだて)て南部口(なんぶぐち)をさし
堅め、夷(えぞ)をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて
此城(このしろ)にこもり、功名(こうみやう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。
           国破れて
山河(さんが)あり、城春にして草青(くさあお)みたりと、笠打敷(うちしき)て、時の
うつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。
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  夏草(なつくさ)や兵(つはもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)
  卯(う)の花(はな)に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)哉(かな) 曾良
----------段落------------------
兼(かね)て耳驚(みみおどろか)したる二堂開帳す。経堂(きやうだう)は三将の
像をのこし、光堂(ひかりだう)は三代の棺(くわん)を納め、三尊(さんぞん)の仏(ほとけ)
を安置す。七宝(しつぱう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉(とぼそ)風にやぶれ、
金(こがね)の柱霜雪(さうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚(たいはいくうきよ)の
                   叢(くさむら)と
成(なる)べきを、四面新(あらた)に囲(かこみ)て甍(いらか)を覆(おほひ)て
                   風雨を凌(しのぐ)。
暫時(しばらく)千歳(ちとせ)の記念(かたみ)とはなれり。
  五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりだう)
--------------段落-------------
(尿前の関:元禄二年五月十七日)
南部(なんぶ)道遥(はるか)に見やりて、岩手(いはて)の里に泊る。小黒崎(をぐろさき)、
みづの小島(をじま)を過(すぎ)て、鳴子(なるご)の湯(ゆ)より尿前(しとまへ)の
関(せき)に
かゝりて、出羽(では)の国に越(こえ)んとす。此(この)道旅人稀(まれ)なる
所なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(やうやう)として
関を越す。大山(おほやま)をのぼつて日既(すでに)暮(くれ)ければ、封人(ほうじん)の
家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、
よしなき山中に逗留(とうりう)す。
  蚤虱(のみしらみ)馬(うま)の尿(しと・バリ)する枕(まくら)もと
主(あるじ)の云(いふ)、是(これ)より出羽(では)の国に大山を隔(へだて)て、
0道さだか
ならざれば、道しるべの人を頼(たのみ)て越(こゆ)べきよしを
申(まうす)。
--------段落---------
さらばと云(いふ)て、人を頼(たのみ)侍(はべ)れば、究竟(くつきやう)の
--------p018a-----------
若者、反脇指(そりわきざし)をよこたへ、樫(かし)の杖(つゑ)を携(たづさへ)て、
我々が
先に立(たち)て行(ゆく)。けふこそ必(かならず)あやうき目(め)にもあふ
べき日なれと、辛(から)き思ひをなして後(あと)について
行(ゆく)。主(あるじ)の云(いふ)にたがはず、高山(かうざん)
森々(しんしん)として一鳥(いつてう)
声きかず、木(こ)の下(した)闇(やみ)茂りあひて、夜(よ)る行(ゆく)がごとし、
雲端(うんたん)に土(つち)ふる心地して、篠(しの)の中踏分(ふみわけ)/\、
水をわたり
岩に蹶(つまづき)て、肌(はだ)につめたき汗を流して、最上(もがみ)の
庄(しやう)に出づ。かの案内(あない)せしをのこの云(いふ)やう、此(この)道
必(かならず)
不用(ふよう)の事有(あり)。恙(つつが)なう送りまゐらせて仕合(しあはせ)したり
と、よろこびてわかれぬ。跡(あと)に聞(きき)てさへ胸とゞろくのみ也(なり)。
---------p018b-------------段落---------------
(尾花沢:元禄二年五月十七日から二十七日)
尾花沢(をばなざは)にて清風(せいふう)と云者(いふもの)を尋(たづ)ぬ。
         かれは富(とめ)る
者なれども、志(こころざし)いやしからず。都にも折々(をり/\)かよひて、
さすがに旅の情(なさけ)をも知(しり)たれば、日比(ひごろ)とゞめて、長
途(ちようど)のいたはり、さま/゛\にもてなし侍(はべ)る。
  凉(すゞ)しさを我(わが)宿(やど)にしてねまる也(なり)
  這出(はひいで)よかひ屋(や)が下(した)の蟾(ひき)の声(こゑ)
  眉(まゆ)掃(はき)を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花(はな)
  蚕飼(こがひ)する人(ひと)は古代(こだい)のすがた哉(かな) 曾良
-----------段落-------
(立石寺:元禄二年五月二十七日)
山形領に立石寺(りふしやくじ)と云(いふ)山寺(やまでら)あり。
         慈覚大師(じかくだいし)
の開基(かいき)にして、殊(ことに)清閑(せいかん)の地也(なり)。
                    一見すべき
-------------p019a------------
よし、人々の勧(すす)むるに依(より)て、尾花沢より
取つてかへし、其間(そのかん)七里ばかり也(なり)。日いまだ暮(くれ)ず、
麓(ふもと)の坊(ぼう)に宿かり置(おき)て、山上(さんじやう)の堂に
((のぼる。
岩(いは)に巌(いはほ)を重(かさね)て山とし、
松柏(しようはく)年旧(としふり)、土石(どせき)老(おひ)て
苔(こけ)滑(なめらか)に、岩上(がんしやう)の院々(ゐんゐん)扉(とびら)を
閉(とぢ)て、
物の音聞えず。岸をめぐり、岩を這(はひ)て、))
仏閣(ぶつかく)を拝し、
佳景(かけい)寂寞(せきばく)として心すみ行(ゆく)のみ覚(おぼ)ゆ。
  閑(しづか)さや岩(いは)にしみ入(いる)蝉(せみ)の声(こゑ)
-----------段落---------------------
(大石田・最上川:元禄二年五月二十八日・二十九日)
最上川(もがみがは)のらんと、大石田(おほいしだ)と云(いふ)所に日和(ひより)を
           待(まつ)。爰(ここ)に
古き俳諧(はいかい)の種こぼれて、忘れぬ花の昔をし
たひ、蘆角(ろかく)一声(いつせい)の心をやはらげ、此道(このみち)にさぐり
足(あし)して、新古(しんこ)ふた道にふみ迷ふといへども、
---------p019b-----------------
みちしるべする人しなければと、わりなき一巻(ひとまき)残(のこ)しぬ。
この度の風流、爰(ここ)に至れり。最上川は、みちのくより
出(いで)て、山形を水上(みなかみ)とす。碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)など
云(いふ)おそろ
しき難所(なんじよ)有(あり)。板敷山(いたじきやま)の北を流(ながれ)て、
果(はて)は酒田(さかた)
の海に入(いる)。左右(さゆう)山(やま)覆(おほ)ひ、茂みの中に船を下(くだ)す。
是(これ)に稲つみたるをや、いな舟といふならし。白糸(しらいと)の
滝は青葉(あをば)の隙(ひま)/\に落(おち)て、仙人堂(せんにんどう)、
岸(きし)に
臨(のぞみ)て立(たつ)。水漲(みずみなぎ)つて舟あやふし。
  五月雨(さみだれ)をあつめて早(はや)し最上川(もがみがは)
-------------段落------------------------
(羽黒山・月山・湯殿山:元禄二年六月三日から十日)
六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。図司左吉(づしさきち)と云(いふ)者を
--------p020a-----------
尋(たづね)て、別当代会(べつとうだいゑ)永覚阿闍梨(ゑかくあじやり)に謁(えつ)す。
南谷(みなみだに)の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情(じやう)こまやかに
あるじせらる。四日、本坊にをゐて俳諧(はいかい)興行(こうぎやう)。
  有難(ありがた)や雪(ゆき)をかほらす南谷(みなみだに)
五日、権現(ごんげん)に詣(まうづ)。当山開闢(かいびやく)
能除大師(のうぢよだいし)は、いづれの
代(よ)の人と云(いふ)事を知らず。
延喜式(えんぎしき)に羽州里山(うしうさとやま)の
神社と有(あり)。書写(しよしや)、黒の字を里山となせるにや、
羽州黒山を中略して羽黒山と云(いふ)にや。出羽と
いへるは、鳥の毛羽(もうう)を此国(このくに)の貢(みつぎ)に献(たてまつ)ると
風土記(ふどき)に
侍(はべる)とやらん。月山(ぐわつさん)、湯殿(ゆどの)を合せて
((三山とす。
当寺武江東叡(ぶかうとうえい)に属して、))
天台止観(てんだいしくわん)の
---------------p020b--------
月明かに、円頓融通(ゑんとんゆづう)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて、
僧坊棟(むね)をならべ、修験行法(しゆげんぎやうほふ)を励(はげま)し、霊山
霊地の験効(げんかう)、人貴(たふたと)且(かつ)恐る。繁栄長(とこしなへ)にして、めで
度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。
-------------------段落----------
八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)
しめ身に引(ひき)かけ、宝冠(ほうくわん)に頭(かしら)を包(つつみ)、
          強力(がうりき)と云(いふ)ものに導(みちび)
かれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひようせつ)を踏(ふみ)て
         登る事(こと)八里、更に日月行道(にちぐわつぎやうだう)
の雲関(いんくわん)に入(いる)かとあやしまれ、息絶(いきたえ)身こゞえて、
          頂上に臻(いた)れば、日没(ぼつし)て月顕(あらは)る。
笹を鋪(しき)篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あか)るを待(まつ)。
                日出(いで)て雲(くも)
消(きゆ)れば、湯殿に下(くだ)る。谷の傍(かたわら)に鍛冶小屋(かぢごや)と
               云(いふ)有(あり)。
此国(このくに)の鍛冶(たんや)霊水(れいすゐ)を撰(えらび)て、
爰(ここ)に潔斎(けつさい)して剣(つるぎ)を
--------p021a----------------
--------p022a----------------
打(うつ)。終(ついに)月山と銘(めい)を切(きつ)て世に賞(しやう)せらる。
彼(かの)龍泉(りうせん)に
剣(けん)を淬(にらぐ)とかや。干将(かんしやう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ、
道に堪能(かんのう)
の執(しふ)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばし
休らふほど、三尺ばかりなる桜の蕾(つぼみ)半ばひらける
あり。ふり積(つむ)雪の下に埋(うづもれ)て、春をわすれぬ遅桜(おそざくら)の花の
心わりなし、炎天(えんてん)の梅花(ばいか)爰(ここ)にかほるがごとし。行尊
僧正(ぎやうそんそうじやう)の歌の哀(あはれ)も爰(ここ)に思ひ
-------------------------
出(いで)て、猶まさりて覚(おぼ)ゆ。
惣(そうじ)て、此(この)山中(さんちう)の微細(みさい)、行者の
法式(ほふしき)として他言(たごん)する事を
禁ず。仍(より)て筆をとゞめて記(しる)さず。坊に帰(かへ)れば、阿闍梨(あじやり)
の需(もとめ)に依(より)て、三山順礼(さんざんじゆんれい)の
句々短冊(たんざく)に書(かく)。
-------------p022b------------------------
  凉(すゞ)しさやほの三か月(みかづき)の羽黒山(はぐろやま)
  雲(くも)の峰(みね)幾(いく)つ崩(くづれ)て月(つき)の山(やま)
  語(かた)られぬ湯殿(ゆどの)にぬらす袂(たもと)かな
  湯殿山(ゆどのやま)銭(ぜに)ふむ道(みち)の泪(なみだ)かな 曾良
(鶴岡の城下・酒田:元禄二年六月十日から十五日/十八日から二十五日) 
羽黒を立(たち)て、鶴が岡の城下、長山氏重行(ながやまうぢしげゆき)と云(いふ)
物のふ(武士)の家にむかへられて、俳諧一巻有(あり)。左吉も
共に送りぬ。川舟に乗(のり)て酒田の湊(みなと)に下る。淵庵
不玉(えんあんふぎよく)と云(いふ)医師(くすし)の許(もと)を宿(やど)とす。
  あつみ山(やま)や吹浦(ふくうら)かけて夕(ゆふ)すゞみ
  暑(あつ)き日(ひ)を海(うみ)にいれたり最上川(もがみがは)
-----------p012a-----------------段落------------
(象潟:元禄二年六月十五日から十八日) 
江山水陸(かうざんすいりく)の風光(ふうくわう)数(かず)を尽(つく)して、
                  今象潟(きさがた)に
方寸(はうすん)を責(せむ)。酒田の湊(みなと)より東北の方(かた)、
           山を越(こえ)磯(いそ)を
伝(つた)ひ、いさご(砂子)をふみて、其の際十里、日影(ひかげ)やゝ傾(かた
ぶ)く比(こと)、汐風(しほかぜ)真砂(まさご)を吹上(ひきあげ)、
         雨朦朧(もうろう)として鳥
海(てうかい)の山かくる。闇中(あんちゆう)に莫作(もさく)して、
       雨も又奇(き)なりとせば、
雨後の晴色(せいしよく)又頼母敷(たのもしき)と、蜑(あま)の笘屋(とまや)に
               膝(ひざ)を
入れて、雨の晴(はるる)を待(まつ)。其朝(そのあした)、天能霽(てんよくはれ)て、
             朝日(あさひ)はな
やかにさし出(いづ)る程(ほど)に、象潟(きさがた)に舟をうかぶ。先(まづ)能因
島(のういんじま)に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、
むかふの岸に舟をあがれば、花の上漕(こ)ぐとよまれし
---------p023b----------
桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。
------------段落---------------------
          江上(かうしよう)に御陵(みささぎ)
あり、神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓(みはか)と云(いふ)。
             寺を干満珠寺(かんまんじゆじ)と云(いふ)。
此処(このところ)に行幸(ぎやうかう)ありし事
      いまだ聞(きか)ず。
       (いかなる事にや。
       此寺(このてら)の方丈(はうぢやう)に坐(ざ)して)
       簾(すだれ)を捲(まけ)ば、風景(ふうけい)一眼(いちがん)の
中(うち)に尽(つき)て、南に鳥海、天をさゝえ、其影(そのかげ)うつりて
江(え)にあり。西はむや/\の関、路(みち)をかぎり、東に堤(つゝみ)を築(きづき)て、
秋田にかよふ道遥(はるか)に、海(うみ)北にかまえて、浪打入(なみうちい)るゝ所を
汐(しほ)こしと云(いふ)。江の縱横(じうわう)一里ばかり、俤(おもかげ)松島に
かよひて、又異(こと)なり。松島は笑ふがごとく、象潟は
うらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、
地勢(ちせい)魂(たましひ)をなやますに似たり。
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  象潟(きさがた)や雨(あめ)に西施(せいし)がねぶの花(はな)
  汐越(しほこし)や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海(うみ)涼(すゞ)し
   祭礼
  象潟(きさがた)や料理(れうり)何(なに)くふ神祭(かみまつり) 曾良
  蜑(あま)の家(や)や戸板(といた)を敷(しき)て夕涼(ゆふすゞみ)
             みの(美濃)の国の商人 低耳(ていじ)
   岩上に雎鳩(みさご)の巣(す)を見る
  浪(なみ)こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣(す) 曾良
(北陸道:元禄二年六月二十五日から七月十二日)
酒田の余波(なごり)日をか重(かさね)て、北陸道(ほくろくだう)の雲に望(のぞむ)。
          遥々(えうえう)の
おもひ胸(むね)をいたましめて、加賀の府まで百三十里と
聞(きく)。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、
越中の国一ぶり(市振:いちぶり)の関(せき)に到(いた)る。此間(このかん)九日、
            暑湿(しよしつ)の労(らう)に
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神(しん)をなやまし、病(やまひ)おこりて事をしるさず。
  文月(ふみづき)や六日(むいか)も常(つね)の夜(よ)には似(に)ず
  荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこ(横)たふ天河(あまのがは)
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(市振宿:元禄二年七月十二日)
今日(けふ)は親(おや)し(知)らず子し(知)らず・犬もどり・駒返(こまがへ)詩など
云(いふ)北国(ほつこく)一の難所(なんじよ)を超(こえ)て、つか(疲)れ
         侍(はべ)れば、枕(まくら)引(ひき)
よせて寝たるに、一間(ひとま)隔(へだ)て面(おもて)の方(かた)に、若き女の
声二人計(ばかり)と聞(きこ)ゆ。年(とし)老(おひ)たるをのこ(男)の声も
交(まじり)て物語(ものがたり)するを聞けば、越後の国新潟(にひがた)と
云(いふ)所の遊女(いうぢよ)成(なり)し。伊勢参宮するとて、
此(この)関までをのこ(男)の送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文(ふみ)
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したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也(なり)。白波(しらなみ)の
よする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世を
あさましう下(くだ)りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごふいん)、いか
につたなしと、物云(いふ)をきくきく寝入(ねいり)て、あした旅立(たびたつ)に、
我々にむかひて、「行衛(行方:ゆくえ)知らぬ旅路(たびぢ)のうさ、あまり
覚束(おぼつか)なう悲しく侍(はべ)れば、見えがくれにも御跡(おんあと)を
したひ侍(はべら)ん。衣(ころも)の上(うへ)の御情(おんなさけ)に
大慈(だいじ)のめぐみを
たれて結縁(けちえん)せさせ給(たま)へ」と泪(なみだ)を落(おと)す。
不便(ふびん)の事には
侍(はべ)れども、「我々は所々(しよ/\)にてとゞまる方(かた)おほ(多)し、
只(ただ)人の
行(ゆく)に任(まか)せて行(ゆく)べし。神明(しんめい)の加護(かご)、
かならず恙(つゝが)
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なかるべし」と、云(いひ)捨(すて)て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざり
けらし。
  一家(ひとつや)に遊女(いうぢよ)もねたり萩(はぎ)と月(つき)
曾良にかたれば、書きとゞめ侍(はべ)る。
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(那古の浦:元禄二年七月十三日から十四日)
       くろべ(黒部)四十八か瀬(せ)とかや、
数しらぬ川をわたりて、那古(なご)と云(いふ)浦に出(いづ)。担籠(たこ)の
藤浪(ふぢなみ)は、春ならずとも、初秋(はつあき)の哀(あはれ)とふべきものをと、
人に尋(たづぬ)れば、「是(これ)より五里、磯伝(いそづた)ひして、
むかふの山陰にい(入)り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の
一夜(ひとよ)の宿かすものあるまじ」といひおどされて、かが(加賀)の
国に入(いる)。
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  わせ(早稲)の香(か)や分入(わけいる)右(みぎ)は有磯海(ありそうみ)
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(金沢:元禄二年七月十五日から二十三日)
卯(う)の花山(はなやま)・くりからが谷をこ(越)えて、金沢は七月
中(なか)の五日(いつか)也(なり)。爰(ここ)に大坂(おほざか)よりかよふ商人(あきびと)
何処(かしょ)と云(いふ)者有(あり)、それが旅宿(りよしゆく)を倶(とも)にす。
一笑(いつせう)と云(いふ)者は、此道(このみち)にすける名のほのぼの
聞(きこ)えて、世に知人(しるひと)も侍(はべり)しに、去年(こぞ)の冬、早世(さうせい)
したりとて、其(その)兄追善(つゐぜん)を催(もよほ)すに、
  塚(つか)も動(うご)け我泣声(わがなくこゑ)は秋の風
   ある草庵にいざなはれて
  秋(あき)凉(すゞ)し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)
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   途中●(クチヘン+「金」:ぎん)
  あかあかと日(ひ)は難面(つれなく)もあき(秋)の風
(小松:元禄二年七月二十四日から二十六日)
   小松と云(いふ)所にて
  しほらしき名(な)や小松(こまつ)吹(ふく)萩(はぎ)すゝき(薄)
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此(この)所、太田(ただ)の神社に詣(まうづ)。実盛(さねもり)が甲(かぶと)、
           錦(にしき)の切(きれ)あり。住
昔(そのかみ)、源氏に属(ぞく)せしとき、義朝公より給(たま)はらせ給(たまふ)
とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきがへ)し
まで、菊(きく)から(唐)草の彫(ほ)りもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に
鍬形(くはがた)打(うつ)たり。実盛(さねもり)討死の後(のち)、
    木曾義仲(きそよしなか)願状(ぐわんじやう)にそへて、
此社(このやしろ)にこめられ侍(はべる)よし、樋口(ひぐち)の次郎が使(つかひ)せし
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事共(ことども)、まのあたり縁紀(えんぎ)にみ(見)えたり。
  むざんやな甲(かぶと)の下(した)のきりぎりす
(那谷寺・山中温泉:元禄二年七月二十七日から八月五日)
山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行(ゆく)ほど、白根(しらね)が嶽(たけ)
跡(あと)にみ(見)なして
あゆ(歩)む。左の山際(やまぎは)に観音堂あり。花山(くわざん)の法皇、
三十三所の順礼(じゆんれい)とげさせ給(たま)ひて後(のち)、大慈大悲(だいじだいひ)の
像を安置(あんち)し給(たま)ひて、那谷(なた)と名付(なづけ)給(たま)ふとや。
那智(なち)、
谷汲(たにぐみ)の二字をわか(分)ち侍(はべ)りしとぞ。奇石(きせき)さまざまに、
古松(こしやう)
植(うゑ)ならべて、萱(かや)ぶきの小堂(しやうだう)、岩の上に造りかけて、
殊勝(しゆしよう)の土地也(なり)。
  石山(いしやま)の石より白し秋の風
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---------段落------------
温泉(いでゆ)に浴す。其(その)功(かう)有明(ありあけ)に次(つぐ)と云(いふ)。
  山中(やまなか)や菊(きく)はたお(手折)らぬ湯の匂(にほひ)
あるじとする物(もの)は、久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童(せうどう)也。
かれ(彼)が父俳諧(はいかい)を好み、洛(らく)の貞室(ていしつ)、若輩のむかし、
爰(ここ)に来(きた)りし比(ころ)、風雅(ふうが)に辱(はづか)しめられて、洛(らく)に
帰(かへり)て貞徳(ていとく)の門人となつて世にし(知)らる。功名(こうめい)の
後(のち)、此(この)一村判詞(はんじ)の料(れう)を請(うけ)ずと云(いふ)。
     今更(いまさら)むかし語(がたり)と
はなりぬ。
-----------(曾良との別れ:元禄二年八月五日・六日)
曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島(ながしま)と云(いふ)
所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(ゆく)に、
  行/\(ゆきゆき)てたふ(倒)れ伏(ふす)とも萩の原 曾良
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((と書置(かきおき)たり。
行(ゆく)ものゝ悲しみ、残(のこ)るもののうらみ、))
隻鳧(せきふ)の わか(別)れて雲(くも)にまよ(迷)ふがごとし。 予も又(また)、
  今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消(け)さん笠(かさ)の露
------------段落------------
大聖持(ざいしやうじ)の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)といふ寺にとま(泊)る。
                猶(なほ)加賀の
地也(なり)。曾良も前の夜、此(この)寺に泊(とまり)て、
  終宵(よもすがら)秋風(あきかぜ)聞(きく)やうら(裏)の山
と残す。一夜(いちや)の隔(へだて)千里に同じ。吾(われ)も秋風を
聞(きき)つゝ衆寮(しゆれう)に臥(ふせ)ば、明(あけ)ぼのの空近う
             読経(どきやう)声すむ
まゝに、鐘板(しようばん)鳴(なつ)て食堂(じきだう)に入(いる)。けふは越前の国
へと、心(こころ)早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧
---------p28b---------------
ども紙・硯(すずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追(おひ)来る。折節(おりふし)
庭中(ていちゆう)の柳散れば、
  庭(には)掃(はき)て出(いで)ばや寺(てら)に散(ちる)柳(やなぎ)
とりあへぬさまして、草鞋(わらぢ)ながら書捨(かきす)つ。
----------段落-----------
-----------(汐越の松)
            越前の
境(さかひ)、吉崎(よしざき)の入江(いりえ)を舟に棹(さをさ)して、
        汐越(しほごし)の松を尋(たづ)ぬ。
  終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
  月をたれたる汐越(しほごし)の松    西行
此(この)一首にて、数景(すけい)尽(つき)たり。もし一辨(いちべん)を
           加(くわふ)るものは、
無用(むよう)の指(し)を立(たつ)るがごとし。
------------(丸岡天龍寺)
丸岡天龍寺の長老(ちやうらう)、古き因(ちなみ)あれば尋(たづ)ぬ。又、金沢の
ー--------p029a----------------
(北枝(ほくし)といふもの(者)、
かりそめに見送りて此処(このところ)まで )
した(慕)ひ来る。所々(ところどころ)の風景過(すぐ)さず思ひつゞけて、
折節(をりふし)
あはれなる作意(さくい)など聞(きこ)ゆ。今既(すでに)別(わかれ)に望(のぞ)みて、
  物(もの)書(かき)て扇(あふぎ)引(ひき)さく余波(なごり)哉(かな)
---------(永平寺・福井:元禄二年八月十二日から十四日)
五十丁山(やま)に入(いり)て永平寺を礼(らい)す。道元禅師(だうげんぜんじ)の
御寺(みてら)也(なり)。邦機(はうき)千里(せんり)を避(さけ)て、
かゝる山陰(やまかげ)に跡を
のこし給(たま)ふも、貴(たうと)き故(ゆへ)有(あり)とかや。
-------------段落--------------
   福井は三里計(ばかり)
なれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出(いづ)るに、たそかれの路(みち)たど
たどし。爰(ここ)に等栽(とうさい)と云(いふ)古き隠士(いんじ)有(あり)。
                  いづれの
年にか、江戸に来(きた)りて予を尋(たづぬ)。遥(はるか)十(と)とせ余(あま)り
-------p029b-----------
也(なり)。いかに老(おひ)さらぼひて有(ある)にや、将(はた)死(しに)けるにやと
人に尋(たずね)侍(はべ)れば、いまだ存命(ぞんめい)して、そこそこと教ふ。
市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいへ)に夕貌(夕顔:ゆふがほ)
へちまのはえかゝりて、鶏頭(けいとう)はゝきゞ(箒木)に戸(と)ぼそを
隠(かく)す。さては、此内(このうち)にこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげ
なる女の出(いで)て、「いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の
御坊(ごばう)にや。あるじは此(この)あたり何がしと云(いふ)ものの方(かた)に
行(ゆき)ぬ。もし用あらば尋(たずね)給(たま)へ」といふ。かれが妻なる
べしとし(知)らる。
-----------段落--------------
    むかし物がたり(物語)にこそ、かゝる風情(ふぜい)は侍(はべ)れと、
やがて尋(たづね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とま(泊)りて、名月はつる
-----------d030a--------------
((が(敦賀)のみなと(湊)にとたび(旅)立(たつ)。
((等栽も共に送らんと、裾(すそ)お
かしうからげて、路(みち)の枝折(しをり)とうかれ立(たつ)。
----------(敦賀の津:元禄二年八月十四日・十五日)
漸(やうやう)白根(しらね)が
嶽(たけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)あらはる。あさむづの橋を
渡りて、玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂(ほ)に出(いで)にけり。鴬(うぐひす)の
関(せき)を
過(すぎ)て、湯尾峠(ゆのおたうげ)を超(こゆ)れば、燧が城(ひうちがじやう)・
帰山(かへるやま)に初雁(はつかり)を
聞(きき)て、十四日の夕ぐれ(暮)つるが(敦賀)の津(つ)に宿(やど)をもとむ。
その夜、月殊(ことに)晴(はれ)たり。「あすの夜もかくあるべき
にや」といへば、「越路(こしぢ)の習(なら)ひ、猶(なほ)明夜(めいや)の
陰晴(いんせい)はかり
がたし」と、あるじに酒すゝめられて、けい(気比)の明神(みやうじん)に
夜参(やざん)す。仲哀天皇(ちゆうあいてんのう)の御廟(ごべう)なり。
-----------段落-------------
         社頭(しやとう)神(かむ)さびて、
-------------p031b---------------
松の木(こ)の間(ま)に月のもり入(いり)たる、おまへの白砂(はくさ)
霜(しも)を敷(しけ)るが如し。往昔(そのかみ)遊行(ゆぎやう)二世の上人(しやうにん)、
大願發起(だいぐわんほつき)の事ありて、みづから草を刈(かり)、土石(どせき)を
荷(にな)ひ、
泥濘(でいねい)をかわかせて、参詣往来(さんけいわうらい)の煩(わづらひ)なし。
古例(これい)
今に絶えず。神前に真砂(まさご)を荷(にな)ひ給(たま)ふ。これを「遊行
の砂持(すなもち)と申侍(まうしはべ)る」と、亭主(ていしゆ)のかたりける。
  月清し遊行(ゆぎやう)のもてる砂の上
十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)。
  名月や北国日和(ほくこくびより)定(さだめ)なき
------------段落---p031a----------------
(種の浜:元禄二年八月十六日)
(((十六日、空(そら)霽(はれ)たれば、ますほの小貝(こがひ)ひろはんと、種(いろ)の
  ((浜(はま)に舟を走(はしら)す。海上(かいしやう)七里あり。
((天屋(てんや)何某(なにがし)と云(いふ)
もの、破籠(わりご)小竹筒(ささへ)などこまやかにしたゝめさせ、
僕(しもべ)あまた舟にとりの(乗)せて、追風時(おひかぜどき)の間に吹着(ふきつけ)ぬ。
浜はわづかなる海士(あま)の小家(こいへ)にて、侘(わび)しき法花寺(ほつけでら)あり。
爰(ここ)に茶を飲(のみ)、酒をあたゝめて、夕ぐれ(暮)のさび(淋)しさ、感(かん)に
堪(たへ)たり。
  寂しさや須磨(すま)にか(勝)ちたる浜の秋
  波の間や小貝(こがひ)にまじる萩の塵(ちり)
其日(そのひ)のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に
残す。
---------段落------------
(大垣の庄:元禄二年八月二十一日から九月六日)
露通(ろてう)も此(この)みなと(湊)まで出(いで)むかひて、みの(美濃)の国へと
-------------p031b---------------------
伴(ともな)ふ。駒(こま)にたすけられて、大垣(おほがき)の庄(しやう)に
入(いれ)ば、曾良も
伊勢より来(きた)り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、
如行(じよかう)が家に入(いり)集(あつま)る。前川子(ぜんせんし)、
荊口(けいこう)父子(ふし)、其外(そのほか)
した(親)しき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のもの(者)にあふが
ごとく、且(かつ)悦(よろこ)び、且(かつ)いたはる。旅の物うさもいまだ
や(止)まざるに、長月(ながつき)六日になれば、伊勢(いせ)の遷宮(せんぐう)
おが(拝)まんと
又舟にのりて、
  蛤(はまぐり)のふた見(み)にわかれ行(ゆく)秋ぞ
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