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-----no.8563 <<-----2012、08月10日(金、08時)------
「奥の細みち」コピー原文に併せて、少し修正。フリガナは削除。行も修正
流布本に寄るので無く、古文書原文に添い訳している。
芭蕉が本当に書いたものに近いと考える。
流布本は弟子が直したと考えて居る。
今後、文字も直したい。
-------d20120629おくのほそ道.mem-------------
-----本文----(p01b)
月日は百代の過客にして、行かふ年もまた
旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて
老を迎ふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古
人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、
片雲の風にさそはれて
(漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋)
江上の破屋に蜘の
古巣を払ひて、やゝ年も暮、春立てる霞の
空に、白川の関越えんと、そゞろ神の物につきて
心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの
---------(p02a)
手につかず、もゝ引の破れをつゞり笠の緒付
かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先
心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅
に移るに、
  草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。
--(千住旅立ち:元禄二年三月二十七日)--------
彌生も末の七日、明ぼのゝ
空朧々として、月は在明にて光おさまれる
物から、不二の峯幽かにみえて、上野
谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつ
ましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て
------------(p02b)--------
送る。千じゆと云所にて舟をあがれば、前途三千
里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷に
離別の泪をそゝぐ。
  行春や,鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすまゝず。人々
は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄は
と、見送なるべし。 ことし元禄二とせにや、
奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひ立ちて、
呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳に
ふれていまだめに見ぬさかひ、若生きて帰らば
------p03a-------------
と定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云
宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる
物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、
帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆の
たぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さす
がに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりな
けれ。
--------(室の八島:元禄二年三月二十九日)
室の八島に詣す。同行曾良が曰、此神は木花咲耶姫の(神)と
申て、富士一躰なり。無戸室に入て焼給ふ誓のみ中に、火々出見
のみこと生れ給ひしより、室の八島と申。又煙を
読習し侍もこの謂也。将、このしろと
-----------p03b-----------
いふ魚を禁ず。縁記の旨世につたふ事も侍し。
----段落-(日光山の麓:元禄二年三月三十日)-----------
三十日、日光山の麓に泊る。あるじの云」けるやう、
我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、
人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て
休み給へと云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、
かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたす
け給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめて
みるに、唯,無智無分別にして正直偏固の
者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、
気稟の清質、尤尊ぶべし。
---(日光:元禄二年四月一日)------------
卯月朔日、
----------------p04a------------
御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、
空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳
未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゞ
やきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の
栖穏なり。猶、憚多くて筆をさし置きぬ。
  あらたうと青葉若葉の日の光
---段落---7月26日終わり-------
黒髮山は、霞かゝりて雪いまだ白し。
  剃捨て黒髮山に衣更  曾良
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の
下葉に軒をならべて、予が薪水の労をた
-------------------p04b-------------
すく。このたび松しま・象潟の眺共にせんこと
(を悦び、且は羈旅の 難をいたはらんと、)
旅立
暁髪を剃りて墨染にさまをかへ、惣五を改めて
宗悟とす。仍て黒髪山の句有。衣更の二字、力
ありてきこゆ。
-----(裏見の瀧:元禄二年四月二日)
二十余丁山を登つて滝有。岩洞の
頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落
たり。岩窟に身を ひそめ入て滝の裏より
みれば、うらみの滝と申伝え侍る也。
  暫時は滝にこもるや夏の初
-----段落---(那須の黒羽:元禄二年四月二日、三日)
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より
野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を
----------------p05a-------------
見かけて行に、雨振日暮る。農夫の家に
一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに
野飼の馬あり。草刈をのこになげきよれば、
野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。いかゞ
すべきや、されども此野は縱横にわかれて、うゐひゐ
敷旅人の道ふみたがえん。あやしう侍れば、
此馬のとゞまる処にて馬を返し給へと、貸し
侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。
独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ
名のやさしかりければ、
--------------p05b--------------
  かさねとは八重撫子の名成べし  曾良
頓人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付
て馬を返しぬ。
------段落--(那須八幡:元禄二年四月四日)--------
黒羽の館代、浄坊寺何がしの方に音信
る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞ
けて、其弟桃翠など云が、 朝夕勤とぶらひ、
自らの家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、
日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、
犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて
玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に
------------------p6a--------------
詣。与市扇の的を射し時、別しては我国
氏神正八まんとちかひしも、此神社にて侍と
聞ば、感応殊しきりに覚えらる。暮れば
桃翠宅に帰る。
---------(修験光明寺:元禄二年四月九日)
修験光明寺と云有。
そこにまねかれて、行者堂を拝す。
  夏山に足駄を拝む首途哉
----段落-(雲岸寺、仏頂和尚山居跡:元禄二年四月五日)----
当国雲岸寺のおくに、仏頂和尚山居跡あり。
  竪横の五尺にたらぬ草の庵
  むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや
--------------p06b------------------
聞え給ふ。其跡見んと雲岸寺に杖を曳ば、
人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく
道のほど打ちさはぎて、おぼえず彼麓に到る。
山はおくあるけしきにて、谷道遥に松杉
黒く苔しただりて、卯月の天今猶寒し。
十景尽る所、橋をわたつて山門に入。さて、かの
跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、
石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の
死関、法雲法師の石室を見るがごとし。
  木啄も庵はやぶらす夏木立
--------------p07a--------------
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。
----段落-(殺生石:元禄二年四月十九日)---
是より
殺生石に行。館代より馬にて送らる。
此口付のをのこ短冊得させよと乞。
やさしき事を望侍るものかなと、
  野を横に馬引きむけよほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気
いまだほろびず、蜂蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬ
ほどかさなり死す。
-------(遊行柳:元禄二年四月二十日)-----
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の
里にありて、田の畔にのこる。此所の郡守戸部
某の、此柳みせばやなど、折をりにの給ひ
----------------p07b-------------------
聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此
柳のかげに,こそ立ちより侍つれ。
  田一枚植て立去る柳かな
----段落--(白河の関:元禄二年四月二十一日)----
心許なき日かず重るまゝに、白川の関に
かゝりて旅心定りぬ。いかで都へと便求しも
段也。中にも此関は三関の一にして、風騒の
人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を
俤にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙
に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地
ぞする。古人冠を正し衣裳を改し事
---------------p08a------------------
など、清輔の筆にとゞめ置かれしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着哉  曾良
------段落--(須賀川:元禄二年四月二十二日から二十九日)
とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。
左に会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄、
常陸下野の地をさかひて山つらなる。かげ
沼と云所を行に、けふは空曇て物影
うつらず。すか川の駅に等窮といふものを
尋て、四、五日とゞめらる。先白河の関
いかに越えつるやと問。長途のくるしみ、身心つかれ、
且は風景に魂うばはれ、懐旧に
---------p08b----------
腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
  風流の初やおくの田植うた
無下にこえんもさすがにと語れば、脇第三とつゞけ
て三巻となしぬ。此宿の傍に、大きなる栗の木蔭
をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山も
かくやと間に覚えられて、物に書付侍る。其詞、
  栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に
便ありと、行基菩薩の一生杖にも
柱にも此木を用給ふとかや。
  世の人の見付ぬ花や軒の栗
----p09a-段落-(安積山:元禄二年四月二十九日、五月一日・二日)----
等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮の宿を離
れてあさか山有。路より近し。此のあたり沼多し。
かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花が
つみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人
なし。沼を尋、人にとひ、かつみ/\と尋ありきて、
日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、
黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。明くれば、
しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶの里に行。
遥山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の
童部の来りて教ける、昔は此山の上に
--------p09b-----------
侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試み
侍るをにくみて、此谷につき落せば、石の面下
ざまに伏したりと云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺
----段落---(瀬の上宿・佐藤庄司旧跡:元禄二年五月二日)
月の輪の渡を越て、瀬の上と云宿に出づ。
佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計
に有。飯塚の里、鯖野と聞て、尋/\行に、
丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。
麓に大手の跡など、人の教ふるに任せて泪を
落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。
--------------p010a--------------
中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひ
しき名の世に聞えつる物かなと袂をぬら
しぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に
入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈
をとゞめて什物とす。
  笈も太刀も五月にかざれ紙幟
五月朔日の事なり。
----段落----(飯塚:元禄二年五月二日・三日)
其夜飯塚にとまる。温泉あれば
湯に入て宿をかるに、土座に莚を敷てあやしき
貧家也。灯もなければ囲炉裏の火かげに
寝所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴雨しきり
-----------p010b----------
に降て、臥る上よりもり、蚤蚊にせゝられて
眠らず。持病さへおこりて、消入計になん。
短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶夜の余波、
心進まず。馬かりて桑折の駅に出る。遥なる
行末をかゝへて、斯る病覚束なしといへど、羇旅
辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是
天の命なりと、気力聊とり直し、路縱横に
踏で、伊達の大木戸をこす。
------段落-----(笠島:元禄二年五月四日)
鐙摺、白石の城を
過、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚は
いづくの程ならんと、人にとへば、是より遥右に
-----------p011a------------
見ゆる山際の里を蓑輪・笠島と云。道祖神の
社、かた見の薄、今にありと教ふ。此比の五月雨に
道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺め
やりて過るに、蓑輪・笠島も五月雨の折に
ふれたりと、
  笠島はいづこさ月のぬかり道
岩沼に宿る。
-----段落----(武隈:元禄二年五月四日)---------
武隈の松にこそ目覚る心地はすれ。根は土際
より二木にわかれて、昔の姿うしなはずと
知らる。先能因法師思ひ出。往昔、陸奥の守
-------------p011b---------------
にて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭に
せられたる事などあればにや、松は此たび跡も
なしとは詠たり。代々あるは伐、あるひは植継
などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝ
のほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と、
挙白と云ものゝ餞別したりければ、
  桜より松は二木を三月ごし
------段落----仙台:元禄二年五月四日から八日)----------
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿
を求めて四、五日逗留す。爰に画工、加右衛門と云ものあり。
-------p012a---------------
聊心あるものと聞て、知る人になる。此者、年比さだか
ならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城
野の萩茂りあひて、秋のけしき思ひやらるゝ。
玉田・横野・躑躅が岡はあせび咲ころ也。日影も
もらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。
昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとは
よみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其
日はくれぬ。猶松島・塩竈の所々画にかきて送る。
且紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。されば
こそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。
-------p012b-----------
  あやめ草足に結ばん草鞋の緒
-------段落----(多賀城:元禄二年五月八日)----------
かの画図に任せてたどり行ば、おくの細道の山際
に十符の菅有。今も年々十符の菅菰
を調て国守に献ずと云り。
   壺碑 市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計か。苔を穿
て文字幽なり。四維国界数里をしるす。此城、
神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人
之所置也。天平宝字六年、参議東海東山
節度使、同将軍恵美朝臣朝かり修造。而十二月朔日 と
--------p013a--------
有。聖武皇帝の御時に当れり。
(むかしよりよみ置る歌枕、
多く語伝ふといへども、
山崩川流て道改
まり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木に
かはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみ
を、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に
古人の心を閲す。行脚の一徳存命の悦び、羇旅
の労を忘れて泪も落つるばかり也。
----段落--(末の松山:元禄二年五月八日)-------
それより
野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造
て末松山といふ。松のあひ/\みな墓原にて、
羽をかはし枝を連ぬる契の末も、終は
-------p013b----
かくのごときと悲しさも増りて、塩竈の浦に
入相のかねを聞。五月雨の空聊晴れて、夕月
夜幽に、籬が島もほど近し.蜑の小舟こぎ
つれて、肴分つ声々に、つなでかなしもと
よみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜
目盲法師の琵琶をならして奥浄瑠璃と
云ものをかたる。平家にもあらず舞にもあらず、鄙び
たる調子うち上て、枕近うかしましけれど、
さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝
に覚えらる。
-----段落---(塩竃:元禄二年五月九日)-----
早朝、塩竈の明神に詣。国守再興
-------------p014a------
せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、石の階
九仭に重り、朝日朱の玉垣を輝かす。かゝる道の果、
塵土
((の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の))
風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈
有。かねの戸びらの面に、文治三年和泉
三郎奇進と有。五百年来の俤、今目の前に
うかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の
士也。佳命今に至りて、慕はずといふ事なし。
誠人能道を勤め、義を守るべし、名もまた
是にしたがふと云り。日既午にちかし。舟を
かりて松島にわたる。其間二里余、雄嶋の
-----------p14b-----------
磯につく。
---段落-(松島:元禄二年五月九日・十日)-------
抑もことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風に
して、凡洞庭西湖を恥ず。東南より海を入て、
江の中三里、浙江の潮を湛ふ。島々の数を
尽して、欹つものは天を指、伏すものは波に
匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左に
わかれ右に連る。負るあり抱るあり、児孫
愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉
汐風に吹たわめて、屈曲おのづから矯めたるが如し。
其の気色然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神の昔、大山祇の
------------p015a-------------
なせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆を揮ひ
詞を尽さむ。雄島が磯は地つゞきて、海に出たる
島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など
有。将、松の木陰に世を厭ふ人も稀々
見え侍りて、落穗・松笠など打烟りたる草の
庵閑に住なし、いかなる人とは知られずながら、
先懐かしく立寄ほどに、月海にうつりて、
昼のながめ又改む。
------段落---
江上に帰りて宿を求れば、
窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝
するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
------p015b------------
  松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
予は口を閉ぢて、眠らんとしていねられず。旧庵
をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり、原安適、
松が浦島の和歌を贈らる。袋を解て、こよひの
友とす。且、杉風・濁子が発句あり。十一日、瑞岩寺に
詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家
して、入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の
徳化に依て、七堂甍)改りて、金壁荘厳光を
輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。 彼見仏
聖の寺はいづくにやと慕はる。
-----p016---段落-(石巻:元禄二年五月十日・十一日)-----
十二日、平泉と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞
伝て、人跡稀に、雉兎蒭蕘の 行きかふ道そことも
わかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ 湊に出。
こがね花咲と詠みて、奉たる金花山海上に見渡し、
数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竃の
煙立つゞけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、
宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まど
しき小家に一夜をあかして、明れば又知らぬ道まよひ。
袖の渡り、尾ぶちの牧、
真野の萱はらなどよそ目に見て、遥なる堤を行。
心細き長沼にそうて、戸伊摩と云所に一宿して、
---------p016b----------
平泉に到る。其間二十余里ほどとおぼゆ。
-----------段落---平泉:元禄二年五月十三日)--
      三代の栄耀
一睡の中にして、大門のあとは一里こなたに有。秀衡
が跡は田野に成て、金鷄山のみ形を残す。先
高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落
入。康衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし
堅め、夷をふせぐと見えたり。偖も義臣すぐつて
此城にこもり、功名一時の叢となる。  国破れて
山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時の
うつるまで泪を落し侍りぬ。
-----p017a------------
  夏草や兵どもが夢の跡
  卯の花に兼房みゆる白毛哉 曾良
----------段落------
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の
像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏
を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、
金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と
成べきを、四面新に囲て甍を覆て 風雨を凌。
暫時千歳の記念とはなれり。
  五月雨の降のこしてや光堂
------段落--(尿前の関:元禄二年五月十七日)
南部道遥に見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎、
------------p017b---------
みづの小島を過て、鳴子の湯より尿前の関に
かゝりて、出羽の国に越んとす。此道旅人稀なる
所なれば、関守にあやしめられて、漸として
関を越す。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の
家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、
よしなき山中に逗留す。
  蚤虱馬の尿する枕もと
主の云、是より出羽の国に大山を隔て、 道さだか
ならざれば、道しるべの人を頼て越)べきよしを
申。
--------段落---------
さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の
--------p018a-----------
若者、反脇指をよこたへ、樫の杖を携て、 我々が
先に立て行。けふこそ必あやうき目にもあふ
べき日なれと、辛き思ひをなして後について
行。主の云にたがはず、高山 森々として一鳥
声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし、
雲端に土ふる心地して、篠の中踏分/\、水をわたり
岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の
庄に出づ。かの案内せしをのこの云やう、此道必
不用の事有。恙なう送りまゐらせて仕合したり
と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。
------p018b--段落--(尾花沢:元禄二年五月十七日から二十七日)
尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富る
者なれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、
さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長
途のいたはり、さま/゛\にもてなし侍る。
  凉しさを我宿にしてねまる也
  這出よかひ屋が下の蟾の声
  眉掃を俤にして紅粉の花
  蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良
-----------段落--(立石寺:元禄二年五月二十七日)
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師
の開基にして、殊清閑の地也。一見すべき
-------------p019a------------
よし、人々の勧むるに依て、尾花沢より
取つてかへし、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず、
麓の坊に宿かり置て、山上の堂に
((のぼる。 岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て
苔滑に、岩上の院々扉を 閉て、
((物の音聞えず。岸をめぐり、岩を這て、))
仏閣を拝し、
佳景寂寞として心すみ行のみ覚ゆ。
  閑さや岩にしみ入蝉の声
----段落--(大石田・最上川:元禄二年五月二十八日・二十九日)
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に
古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔をし
たひ、蘆角一声の心をやはらげ、此道にさぐり
足して、新古ふた道にふみ迷ふといへども、
---------p019b-----------------
みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。
この度の風流、爰に至れり。最上川は、みちのくより
出て、山形を水上とす。碁点・隼など 云おそろ
しき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田
の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。
是に稲つみたるをや、いな舟といふならし。白糸の
滝は青葉の隙/\に落て、仙人堂、岸に
臨て立。水漲つて舟あやふし。
  五月雨をあつめて早し最上川
---段落--羽黒山・月山・湯殿山:元禄二年六月三日から十日)
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を
--------p020a-----------
尋て、別当代会永覚阿闍梨に謁す。
南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかに
あるじせらる。四日、本坊にをゐて俳諧興行。
  有難や雪をかほらす南谷
五日、権現に詣。当山開闢 能除大師は、いづれの
代の人と云事を知らず。延喜式に羽州里山の
神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや、
羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽と
いへるは、鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に
侍とやらん。月山、湯殿を合せて
((三山とす。当寺武江東叡に属して、))
天台止観の
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月明かに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、
僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山
霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで
度御山と謂つべし。
---段落---
八日、月山にのぼる。木綿
しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに導
かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏て登る事八里、更に日月行道
の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて、頂上に臻れば、
日没て月顕る。
笹を鋪篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲
消れば、湯殿に下る。谷の傍に鍛冶小屋と云有。
此国の鍛冶霊水を撰て、爰に潔斎して剣を
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打。終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に
剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ、道に堪能
の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばし
休らふほど、三尺ばかりなる桜の蕾半ばひらける
あり。ふり積雪の下に埋て、春をわすれぬ遅桜の花の
心わりなし、炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊
僧正の歌の哀も爰に思ひ
----------段落-------
            出て、猶まさりて覚ゆ。
惣て、此山中の微細、行者の 法式として他言する事を
禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨
の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。
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  凉しさやほの三か月の羽黒山
  雲の峰幾つ崩て月の山
  語られぬ湯殿にぬらす袂かな
  湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良
(鶴岡の城下・酒田:元禄二年六月十日から十五日/・・ら二十五日)ーー
羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云
物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も
共に送りぬ。川舟に乗て酒田の湊に下る。淵庵
不玉と云医師の許を宿とす。
  あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
  暑き日を海にいれたり最上川
---p012a--段落-(象潟:元禄二年六月十五日から十八日)ーーー
江山水陸の風光数を尽して、今象潟に
方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越磯を
伝ひ、いさごをふみて、其の際十里、日影やゝ傾
く比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥
海の山かくる。闇中に莫作して、雨も又奇なりとせば、
雨後の晴色又頼母敷と、蜑の笘屋に膝を
入れて、雨の晴を待。其朝、天能霽て、朝日はな
やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因
島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、
むかふの岸に舟をあがれば、花の上漕ぐとよまれし
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桜の老木、西行法師の記念をのこす。
-------段落------------
             江上に御陵
あり、神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。
此処に行幸ありし事
   (いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に坐して)
          簾を捲ば、風景一眼の
中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其影うつりて
江にあり。西はむや/\の関、路をかぎり、東に堤を築て、
秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて、浪打入るゝ所を
汐こしと云。江の縱横一里ばかり、俤松島に
かよひて、又異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は
うらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、
地勢魂をなやますに似たり。
-----p024a------段落--------
  象潟や雨に西施がねぶの花
  汐越や鶴脛ぬれて海涼し  ( 祭礼
  象潟や料理何くふ神祭 曾良
  蜑の家や戸板を敷て夕涼
             みのの国の商人 低耳
   岩上に雎鳩の巣を見る
  浪こえぬ契ありてやみさごの巣 曾良
--------(北陸道:元禄二年六月二十五日から七月十二日)
酒田の余波日をか重て、北陸道の雲に望。遥々の
おもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と
聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、
越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に
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神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
  文月や六日も常の夜には似ず
  荒海や佐渡によこたふ天河
----段落--(市振宿:元禄二年七月十二日)
今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返詩など
云北国一の難所を超て、つかれ侍れば、枕引
よせて寝たるに、一間隔て面の方に、若き女の
声二人計と聞ゆ。年老たるをのこの声も
交て物語するを聞けば、越後の国新潟と
云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、
此関までをのこの送りて、あすは古郷にかへす文
-----p025a-------------
したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白波の
よする汀に身をはふらかし、あまのこの世を
あさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いか
につたなしと、物云をきくきく寝入て、あした旅立に、
我々にむかひて、「行衛知らぬ旅路のうさ、あまり
覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡を
したひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみを
たれて結縁せさせ給へ」と泪を落す。 不便の事には
侍れども、「我々は所々にてとゞまる方おほし、 只人の
行に任せて行べし。神明の加護、かならず恙
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なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざり
けらし。
  一家に遊女もねたり萩と月(つき)
曾良にかたれば、書きとゞめ侍る。
-----段落--(那古の浦:元禄二年七月十三日から十四日)
        くろべ四十八か瀬とかや、
数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の
藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、
人に尋れば、「是より五里、磯伝ひして、
むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の
一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、かがの
国に入(いる)。
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  わせの香や分入右は有磯海
----段落-(金沢:元禄二年七月十五日から二十三日)-------
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月
中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人
何処と云者有、それが旅宿を倶にす。
一笑と云者は、此道にすける名のほのぼの
聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世
したりとて、其兄追善を催すに、
  塚も動け我泣声は秋の風
   ある草庵にいざなはれて
  秋凉し手毎にむけや瓜茄子
-----p026b-------
   途中:ぎん)
  あかあかと日)は難面もあきの風
-----------(小松:元禄二年七月二十四日から二十六日)
   小松と云所にて
  しほらしき名や小松吹萩すゝき
------------段落-------------------
此所、太田の神社に詣。実盛が甲、錦の切あり。住
昔、源氏に属せしとき、義朝公より給はらせ給
とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返し
まで、菊から草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に
鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、
此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし
----------p027a------
事共、まのあたり縁紀にみえたり。
  むざんやな甲の下のきりぎりす
-----(那谷寺・山中温泉:元禄二年七月二十七日から八月五日)
山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなして
あゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、
三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の
像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智、
谷汲の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松
植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、
殊勝の土地也。
  石山の石より白し秋の風
----------p027b------段落------------
温泉に浴す。其功有明に次と云。
  山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるじとする物は、久米之助とて、いまだ小童也。
かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、
爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に
帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名
後、一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語と
はなりぬ。
-----------(曾良との別れ:元禄二年八月五日・六日)
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云
所にゆかりあれば、先立て行に、
  行/\てたふれ伏とも萩の原 曾良
-------------p028a---------
((と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るもののうらみ、))
隻鳧の わかれて雲にまよふがごとし。 予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露
------------段落------------
大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の
地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、
  終宵秋風聞やうらの山
と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を
聞つゝ衆寮に臥ば、明ぼのの空近う読経声すむ
まゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国
へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧
---------p28b---------------
ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節
庭中の柳散れば、
  庭掃て出ばや寺に散柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
----------段落----(汐越の松)
             越前の
境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。
  終宵嵐に波をはこばせて
  月をたれたる汐越の松    西行
此一首にて、数景尽たり。もし一辨を加るものは、
無用の指を立るがごとし。
------------(丸岡天龍寺)
丸岡天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又、金沢の
(北枝といふもの、かりそめに見送りて此処まで )
ー--------p029a----------------
したひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節
あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、
  物書て扇引さく余波哉
---------(永平寺・福井:元禄二年八月十二日から十四日)
五十丁山に入て永平寺を礼す。道元禅師の
御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡を
のこし給ふも、貴き故有とかや。
-------------段落--------------
    福井は三里計
なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たど
たどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの
年にか、江戸に来りて予を尋。遥十とせ余り
-------p029b-----------
也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと
人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ふ。
市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕貌
へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝきゞに戸ぼそを
隠す。さては、此内にこそと門を扣ば、侘しげ
なる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の
御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものの方に
行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なる
べしとしらる。
-----------段落--------------
     むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、
やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつる
-----------d030a--------------
((がのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾お)
かしうからげて、路の枝折とうかれ立。
----------(敦賀の津:元禄二年八月十四日・十五日)
漸白根が
嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋を
渡りて、玉江の蘆は穂に出にけり。鴬の関を
過て、湯尾峠を超れば、燧が城・ 帰山に初雁を
聞て、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。
その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべき
にや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかり
がたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に
夜参す。仲哀天皇の御廟なり。
-----------段落-------------
         社頭神さびて、
-------------p031b---------------
松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂
霜を敷るが如し。往昔遊行二世の上人、
大願發起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、
泥濘をかわかせて、参詣往来の煩なし。古例
今に絶えず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行
の砂持と申侍る」と、亭のかたりける。
  月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず雨降。
  名月や北国日和定なき
--段落--
十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の
---------p031a----------------
(種の浜:元禄二年八月十六日)
   ((浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云)
もの、破籠小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、
僕あまた舟にとりのせて、追風時の間に吹着ぬ。
浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。
爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に
堪たり。
  寂しさや須磨にかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に
残す。
---------段落--(大垣の庄:元禄二年八月二十一日から九月六日)
露通も此みなとまで出むかひて、みのの国へと
-------------p031b---------------------
伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄(しやう)に入ば、曾良も
伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、
如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外
したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふが
ごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだ
やまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと
又舟にのりて、
  蛤のふた見にわかれ行秋ぞ
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