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-----no.8733<<-----2012、08月26日(日、18時)------

メールが来ている、この頁。
2件ある。
返事はまだ。
上は、添付がexelだということ。
これは、テキストに落として、
読ましてもらった。
それを下に少し示す。
下の図は、メールの表示窓が変わったので、
それをあらわす。
これは、「Windowsメール」という、
プロぐうラム。
はじめから入っていたので。
Verjionnを見てみた。
6.0.6000.16386とある。(Vista_rtm.061101-2205)
2006年だ。
今まで相当古いソフトだったようだ。
(今は昔で、もう忘れそう)
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              亀崎城P-1
     亀崎城について 平成24年度ガイド養成講座Bグループ
   [出 典]  引用元は下記の記号による ●、○、△、▲、◎ 
  ● 笹山忠著、平成20年8月発行 「尾張の古城」 P308〜313 
  ○ 半田市誌編さん委員会編集 平成9年6月発行
      「亀崎地区篇」P270〜272及び亀崎地区年表P553
  △ Google 知多の城物語「亀崎城」、「稲生氏」、知多郡諸城郭「坂部城」で検索 
             ▲ 三鬼清一郎著、「県史 愛知県の歴史」 P123,132,154,155 
  ◎ インターネット百科事典:ウイキペディアで 「水野信元」 検索  
                [所在地] ●△ 半田市亀崎町2丁目   
          [行き方] ● 公共機関 : JR武豊線「亀崎駅」から東へ1.3km 
  ●△ 車の場合 : 国道247号線「衣浦大橋西」の信号から
       南へ1km「亀崎町1」信号南の海潮院横 
            の道を上がつた左の「亀崎県社児童公園」内にある。
                [現 況] ●△ 城址は神前神社の裏山にあり「亀崎県社児童公園」東南隅に、     わずかに残る土塁(敵の侵入を防ぐ 
   為、城等の周囲に築かれた連続した土盛り)とともに幅25cm、 高さ166cmの花崗岩石碑「亀崎城址」 が建っている。      以前はこの地から「衣浦湾」が見渡せたというが今は樹木が 生い茂り城址から海は見えない。 

 [関連史] 1467年:   “応仁の乱” 
      戦国時代   織田信長  徳川家康  亀崎城
             1534年生  1542年生  1543年築城 
  1560年:   “桶狭間の戦い”     同盟     1582年:   “本能寺の変”    1582年没      1600年:   “関が原の戦い”  1601年廃城    1614年:   “大阪冬の陣”   1616年没  *    江戸時代 * 亀崎城に関わった水野氏と稲生氏は 桶狭間の戦い、         織田信長の伸張、本能寺の変、等を経て徳川家康   1867年: 明治維新  に組込まれ江戸時代を迎えることになる。

 [略史等] ○△ 1521年(大永元年) 稲生重勝 (後の政勝) が刈谷城主水野忠政(於大の父)に遣え伊勢より亀崎へ来る。
    この時、重勝は20歳であった。 
           稲生家 △ 稲生重勝の祖先は相模の豪族和田氏である。
        重村の時、鎌倉幕府の連署北条時村暗殺事件に                連座して鎌倉を追われる。諸国流浪十年余、伊勢国の稲生村に安住の地を得た。
    稲生重勝(父は重成)は十数代の孫に当る。
    庶流であるため家督は継げず若き頃より他国での独立を志していた。     重勝は亀崎に居を構へ漁師の中から若者を選び水軍を組織した。             △ 稲生重勝は緒川城主の水野忠政に船奉行として召抱えられ度々の合戦で手柄をたてて、     忠政の “政” の字を賜り 政勝 と名を改める。             △ 1541年(天文10年) 水野忠政の娘 於大 が岡崎の松平広忠に嫁ぐことになった。     松平と水野が手を結ぶことに脅威を感じた織田信秀(信長の父)は     この縁談を妨害せんと花嫁の強奪を謀った。     この情報を得た忠政は政勝を招き一計を案じる。               陸路を花嫁行列が往き、それとは別に於大は海路から矢作川を上がって     岡崎城下へ無事に着く。     この縁により稲生政勝の子 政国 は広忠・家康に仕えることになる。 
                                   亀崎城P-2
  △ 稲生政勝を祖とする庶流稲生氏は、福島正則に仕えた者、     尾張徳川義直に仕えた者、松平氏に仕えた者などが知られ、     大名・大身旗本 (身分か゛高く、禄高の多い特別扱いの旗本)     になる者はいなかったが武家としてそれなりに時代を生き抜いたようである。             △ 尾張国発祥の稲生氏で春日井郡稲生に住んだ 光定 の流れは 光正のとき、     徳川家康に仕えて戦功を挙げ、徳川旗本家に列した。     以後、光正の流れは徳川旗本家として続いている。           水野家 ● 水野氏は忠政とその子信元の時代に隆盛であった。     水野忠政は、東尾張や西三河に勢力圏を                伸ばし刈谷に城を築き移り住む。緒川城は子の水野信元に守らせた。    ●△ 1541年(天文10年)水野忠政は、今川家寄りの政策をとっていて     今川氏の配下にあった松平氏と       の関係強化の為、娘 於大 を岡崎の松平広忠に嫁がせる。    ●△ 1542年(天文11年)於大は、竹千代(後の徳川家康)を産む。    ●△◎ 1543年(天文12年)水野信元は、父 忠政の没後家督を継ぐが     今川家との関係を絶ち織田信秀 (信長の父)と同盟を結ぶ。     それを知った松平広忠は今川氏との関係悪化を心配し於大を 離縁する。     ●○△ 1543年(天文12年)織田氏と関係を結んだ水野信元は知多半島をすべて     自分の勢力下に収めるべく南下政策の実現に着手する。   ●△  水野信元は稲生政勝に命じ、北浦にあつた館から「衣浦の海」を     監視するのに適した神前神社(亀崎)の裏山に城を築かせ居を移させる。    ●○△  水野信元は宮津城の新海淳尚を攻め滅ぼし、有脇城に石川与市郎を、     飯森城(乙川)に婿の稲生光春を置き、東の三河湾、南の成岩城榎本了円へ     水野軍の最前線として備えた。             ● 1547年(天文16年)水野信元は、阿久比の久松俊勝と親密な関係を維持する為、     俊勝へ 於大を再嫁させる。     於大は俊勝との間に 康元・康俊・定勝 の3子をもうけた。     家康が天下を取った後、康元・康俊・定勝は家康の実弟として厚遇され、     徳川一門と同様に扱われるようになり、久松家は松平の姓を与えられ、     久松松平家が成立する。             ▲ 1561年(永禄4年) 水野信元(家康の伯父)は織田家の家臣として活躍し、     桶狭間の戦いで今川勢が西三河から撤退した後、攻勢にでた家康と尾張を     平定した信長に和平の仲介をする。             ◎ 1562年(永禄5年) 水野信元(家康の伯父)は織田信長と徳川家康が     清洲同盟を結ぶ際に、その仲介役となった。     また連歌を通じて里村紹巴とも交流があった。   ◎ 1568年(永禄11年) 水野信元は織田信長上洛に従軍した際に、     信長とは別に朝廷に対して献金を行う。             ◎ 1570年(元亀元年) 水野信元は“姉川の戦い”で佐和山城を攻落する。    ◎ 1572年(元亀3年) 水野信元は“三方ケ原の戦い”で     篭城線を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、結果として野戦で     敗北した家康に代わり指揮し、夜の浜松城に松明を焚き鉄砲隊を配し、     武田軍を威嚇して窮地を脱している。   ◎ 1574年(天正2年) 水野信元は長島一向一揆との戦いで「しのはせ攻衆」に加わる。   ●▲◎ 1575年(天正3年) 水野信元は佐久間信盛の讒訴により武田側への内応を     信長に疑われ岡崎・大樹寺で息子の水野信政とともに切腹させられる。     一説では水野信元を誅したのは信長の依頼を受けた家康で、生母於大の方の再嫁した夫     久松俊勝(阿久比城主)に信元を連れてくるように頼んだ。     久松俊勝は水野信元が殺されるとは知らず案内した為、これを大いに気に病み、     諸国流浪の旅に出て行方不明になつたと言われている。             ◎  信元の死に佐久間信盛が関与していたかどうかはともかく、     この出来事は三河から武田の脅威が除かれた時点で起こったことから     信元が持つ尾張・三河権力の排除を目的に、織田・徳川の合意によってなされたと      言う見方もできる。   ●▲ 1580年(天正8年) 信長は佐久間信盛を追放後、     家康に従っていた水野忠重(信元の弟 = 家康の母 の弟)を刈谷城主に、     水野忠守(信元の弟=家康の母の弟)を緒川城主に復帰させた。   △ 1602年(慶長7年) 於大の方が京都伏見で没する
                       亀崎城P-3
                 ● 水野氏の一族はその後、江戸幕府の譜代大名となり、      天保の改革(1841〜1843年)を行った水野忠邦を輩出している。                 [亀崎城主]               1代目 ●○△ 1543年(天文12年) 水野信元は家臣の 稲生七郎左衛門政勝 を       亀崎城主にする。                政勝は専ら、水軍を掌握し戦艦十数艘を北浦に浮かべ海路を制圧するとともに、     多くの馬を蓄えて陸戦にも備える。            2代目 ●○△ 稲生政勝の子、 稲生新七郎政清 が跡を継ぐ。     政清はその後徳川家康に仕え伊豆三崎で船奉行を務め、     晩年は駿府で家康の話し相手として仕えた。     (政清と家康は同じ歳で気があったと言われている)            3代目 ●○△ 稲生政清の子、 稲生伊右衛門重政 は亀崎城を継ぐが、     城を一族の重房に譲り、千賀氏に招かれ母とともに師崎に移る。   ●△ 1614年(慶長19年)重政は亀崎水軍を率いて“大阪冬の陣”で奪取した船は21艘、     中でも豊臣の大船として名高い「大阪丸」を捕獲する大手柄をたてて     稲生水軍の名を天下に轟かせた。               重政の子孫は尾張藩士となり、     名古屋城三の丸に屋敷を構えて明治維新を迎えている。  4代目 ○ 稲生政勝の孫、 稲生清次郎重信  (父は重隆)  5代目 ●○△ 稲生重信の子、 稲生弥太郎重房   ○  稲生家の家譜によれば五世まで亀崎に住まうとある。             ○△ 1582年(天正10年) 稲生政勝が死去し“海潮院”に葬られる。      寺名は政勝の法名 “海潮院政勝居士”に因む。      別に重政の墓は師崎の延命寺にもある。   ○△ 1601年(慶長6年)亀崎城が廃止され稲生氏の居宅となる。   ○△ 1616年(元名2年)稲生重政が“海潮院”を現在地に移す。      元は北浦にあり“海長庵”と称していた。      稲生家の菩提寺は神前神社北隣りの“海潮院”である。      海潮院は知多四国霊場五十四番札所である。                 [補  足]   △ 亀崎城の立地は神前神社の裏山にして三河湾の監視を行うに絶好の場所であり、     水軍操縦に長けた政勝がこの城に入った事により水野家は三河沿岸の制海権を握る。   ○ 亀崎城は名古屋城のような天守閣や水をたたえた濠などはなく地形を     利用した天然の要害だつたと推測される   ○ 1560年(永禄3年)織田信長が今川義元を破つた“桶狭間の戦い”で     織田氏の勢力圏となった亀崎城は必要性が薄くなつた。             ▲ 1600年(慶長5年) 関が原の戦いで勝利した徳川家康は尾張と三河から     豊臣氏と豊臣恩顧の大名、家臣団たちを一掃し、松平忠吉(家康の四男)     徳川氏一門による尾張一国の統治が始まった。             ▲ 1605年(慶長10年)徳川家康は将軍職を秀忠にゆずり、     駿府に隠居し強力なブレーンとともに、徳川権力の強化、幕藩体制の組織化を     すすめる大御所政治を行なった。   ○ 1611年(慶長16年)に亀崎・乙川・成岩・吹越村(内海)は     付家老 成瀬隼人正 の給地となる。                 以上                    < 添付資料 >  別紙ー1  「 尾張の古城 」
      別紙ー2 半田市誌編さん委員会編集 「 亀崎地区篇 」
      別紙ー3 Google 「亀崎城」 で検索 
      別紙ー4 Google 「稲生氏」 「坂部城」で検索 
      別紙ー5  「 県史 愛知県の歴史  」
      別紙ー6 ウイキペディア検索 「水野信元」
      別紙ー7  亀崎城祉周辺の写真
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