haruharu Page  

-----no.8772<<-----2012、08月29日(水、18時)------

まともな日々の頁である。
午前の講習。
2回中の2回目。
お祭り・・と言うか、
獅子舞・・というか、
ダンツクというか。

---------------------
講習中、おれは、ほとんど、獅子舞の起源を考えていた。
「獅子」はライオンだ。
中国にはいない。誰も見てない。
シルクロードは一応「唐」時代。
その前の時代の大陸はどのようか。
国はあったか、あったとしても、国境はまだない。
「呉」とある、すると南周りの道があった。
北周りとすると、遊牧民だ。遊牧文明があった。
そこに「ライオン」がいた。
中国文明は、戦車はありその頃、馬に乗らない。
馬車だ。一方遊牧民は騎馬民族だ。
騎馬民族はライオンを見ている。
で、ライオンを盛んに恐れる。
それが、農耕民族につたわった。
それが「獅子」である。と妄想は続いていた。
-----------------------
推古20年は、612年とある。
天平勝宝4年とある。
天平勝宝四年(壬辰)ユリウス暦 752年とある。
140年後になる。長すぎる。
まあ、これは余談だが、大和朝廷の建国は騎馬民族か、
朝鮮民族は、北方が3/4で、南方が1/4だという。
血から判断したと。
日本は多分それともう一つ、縄文の血が有ると思う。
-------------------------------
歌が疑問である。
膝折は
「やくもたつ、いずもやえがき・・」
とある。
「出雲勢力」との関係を「スサノウ」が歌うとすれば。
これは古い。
「恋歌仙」」は、
「なりをしずめて・・・」
こんな言葉は最近の言葉と思える。
「隠れ獅子」も同様だ。
共通部分は
「由比ガ浜」とある。
此処も新しい。
すると、本来は、
スサノウが関係するのは、「出雲」の部分だけだろう。
いずれにしても、資料は少ない。起源は不明のままになろう。
------------------------
東浦のダンツクだが、
獅子だろうか、
私には「龍」に見える。
角がある。
麒麟かもしれない。
麒麟の起源はどこか。
中国か、それとも北周りのシルクロードから、
中国に入るか。
すると、朝鮮から出雲あたりに入ったとも思える。
出雲族には、6つの支族が会ったと想像する。
結局8頭が大和と対立したと考えた。
----------------------、
獅子芝居とか、梯子獅子とか、その手とは全然違うと考える。
------------------------------
序乍、その1.
ダンツクのビデオを講習部屋に運んできた。ブラウン管のやつ。いまどきブラウン管がある。
久しぶりに見る。そろそろ替えて。ビデオも替えてほしい。これこそ、もう、博物館行きだよ。
ああ、此処は博物館だ。ビデオも今は、DVDが普通。その予算は上げたい。
----------------------
序乍、その2.
展示スペースで、陶芸作品は無かった。単に、入れ替えのためと言う。ただ、何にも無いのも、おかしい。
-----------------------
序ながら、その3.
受講者で、「伊藤萬蔵」の本を持っていた。
伊藤萬蔵」を調べた。明治の成功者のようだ。農家から名古屋に出た人らしい。
「伊藤」と言う姓が、気になる。松坂屋からか、江戸時代から「姓」があったのか、分からない。
石造物を作って贈ったのが多いという。石に「名前」が残る。名前を残すのに「石」は良い。
その関係を聞きたい。その他、たとえば、西尾市の「岩瀬」は、本、図書館を残した。
乾坤院には水野の墓が残る。「残す」とは何か.先日「樹木墓」を放送していた。
これは、墓石を残さないという方針らしい。残すとは何か。少し資料を載せる。
略歴
天保四年正月、尾領国平島村(現一宮市丹陽町平島)に於いて、農業治左衛門・りかの長男として生まれた。
少年時代、名古屋城下の米穀商に丁稚奉公に出された。生来の努力家、若くして独立して店を持った。
世状も又、三百余年続いた幕藩体制が崩壊して、明治新政府に移行する激動の時代、
商才に富んだ万蔵はこの機会を逃す事なく、時流にも乗った。
延米・仲買・株取引・金融・貸家業と串広く商売の手を広げ、巨万の財力を得た。
萬哉はこれを私する事なく、これは「神仏や世間様のお陰」として、
全国の有名社寺に対して石造物の寄進を続け、感謝の日々を送った。
その数は千基ともいわれているが、私が調査確認をしたものは426件であった。
晩年は家督を三男に譲り、自らは「徳山」と号し景雲橋の東に隠居した。
万蔵は神仏を崇め、寄進を続けた他には、これといった道楽や趣味もなく、
「一粒の米にも感謝をして」を口癖に、感謝と堪忍の文字を揮豪に託して、多くの人に配った。
巷ではこれを夫婦喧嘩のお守りとして珍重したとの逸話も残されている。
萬蔵は昭和2年1月28日午前5時、九十五才の生涯を閉じた。
当時の新聞は一市民の死亡を、異例とも思える取りげ方をしている。
いわく積善の人・生活に感謝し神仏えの信仰に生きた人・立志伝中の人・意志堅固に
して自信家であった等々、その奇人振りに併せて報道をしている。
戒名は「寿照院観空徳山居士」、名古屋市昭和区の八事誓願寺に眠っている。
(田野尻弘 氏の個人誌「萬蔵報」2005年2月号より))
2012年7月に「東海奇人伝」(生前の萬蔵対談集)が公表された!
2011年10月は、萬蔵が皆さんに知られることとなりました。
中日新聞の「愛知の賢人」に掲載され、
萬蔵の本「石造物寄進の生涯・伊藤萬蔵」が出版されました。


2012年08月へ