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-----no.8784<<-----2012、09月03日(月、018時)------

これも30日、木曜の話。
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右の原文の訳が下だ。
当然ながら、俺自身のお越しでは無い。
-------段落----(多賀城:元禄二年五月八日)----------
かの画図に任せてたどり行ば、おくの細道の山際
に十符の菅有。今も年々十符の菅菰
を調て国守に献ずと云り。
   壺碑     市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計か。苔を穿
て文字幽なり。四維国界数里をしるす。此城、
神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人
之所置也。天平宝字六年、参議東海東山
節度使、同将軍恵美朝臣朝かり修造。而十二月朔日 と
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有。聖武皇帝の御時に当れり。
(むかしよりよみ置る歌枕、
多く語伝ふといへども、
山崩川流て道改
まり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木に
かはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみ
を、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に
古人の心を閲す。行脚の一徳存命の悦び、羇旅
の労を忘れて泪も落つるばかり也。
----段落--(末の松山:元禄二年五月八日)-------


この原文、流布版と少し違うらしい。
そして、流布版に修正したがる。
その気持ちが分からない。

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「奥の細道」は文学である、歴史ではない。
で、なにを持って、正しい」と言うか?だが、
「面白い、美しい」が基準だろう。
「権威」が言った。だけで納得すべきでない。
さて、芭蕉は「奥の細道」後、そう長く生きなかった。
まだ、書き直すという「考え」を持っていたかもしれない。
「行く秋を、近江の人と」話合いながら、逝ってしまった。
「夢は枯野をめぐり、それは、奥の細道の東北、北陸かもしれない。
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弟子も「まだ、育たない」だから、枯野をさまよう。
結論としては「奥の細道」に正解は無いということ。
読む人の心に正解があるといえる。
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この部分は、あまりにも古い。
「奈良時代、それ以前」だ。
本居宣長より前だ。
(本居 宣長(もとおり のりなが、1730年6月21日(享保15年5月7日)
- 1801年11月5日(享和元年9月29日))は、
江戸時代の国学者・文献学者・医師。)
何を読んだら「按察使」が出てきたか。
『続日本紀』 『類聚三代格』辺りを読んだ事になる。
こんな本だれが持っているか。
交友関係が大事だ。
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芭蕉の人物論に入るべきだ。
平安時代は「恋愛」の歌の時代で、
「平家物語」辺りから「人生」を考える。
芭蕉は平安時代の歌も出てくるが、
どうも、「さらー」と流している感じがする。
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曾良と芭蕉の歌の優劣が、分からん俺には、
あまり論じる資格はない。

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