-----no.9051----2018、09月30日(日、07時朝)------

適当に画像を見ていたら2枚に成った。
で、長い文にしよう。
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歴史の会で、
有志で、旅に行く。
旅??
半分近場の観光。
車2台。
俺は初めて提供、で
運転もする。
大事な人たち、
運転は慎重に。
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集合場所に2分程、送れた。
雨だった。
案内を見ると「激しい雨天で泣ければ行く」とある。
確認の電話ご出た。
公民館だ。
打ち合わせを2、3分で、でる。
前を行く。
隣に、歴史の権威に乗ってもらったので、
この人、交通道も詳しい。
何回も通っていると思う。
行き先は、奥三河と言うだけで、
何も調べてない。
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今、経路を思い出している。
豊田の入り口まで、慣れた道。
でも豊田も北部はほとんど知らない。
矢作川を上る。
市街地を避けるということは、
この道の慣れを感じる。
飯田街道。まあ、懐かしい。
久しぶりだ。
30年ほどのブランクがある。
変わったところもあり、
昔のままもあり・・・
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まず、足助城。
此処は10年ほど前に上る。
その時とあまり変化無い。
ただ、最近ロケがあったそうだ。
(これの放送、先日見た。)
此処の結論は俺なりに出ている。
つまり、街道の見張り。
ただ、そういうと小さく聞こえるが、
相当大きい。
序に一言言うと、厠に札。
文句が良い「覗き見可、使用不可」
さらにもう一言。
これ、展望台だ。
展望台にするなら、周りの木を刈ってほしい。
その辺が、レピータが育たないといえる。
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此処からが本題になる。

約50分車に乗り、稲武へ。
武節城址、
上る前に少し迷う。
が、飯は後にして上る
初めてだ。
上り口から上は、道が狭い。
が何とか車で上がれる。
窓から、「三之丸」とちらりと見えた。
其処から「上の駐車場」へ。
此処が本丸か。
又その上に「八幡社」
此処も見晴らしが良い。
以下少し調べる。

歴史
 永正年間(1504〜1521年)に田峯城主・菅沼定信が支城として築いた。
1556年には武田信玄の家臣・下条信氏の侵攻を受けて激戦となった。
 1571年、信玄が三河に攻め入ると田峯城の菅沼定直は武田の軍門に降り、
支城の武節城も従った。
以後、武田氏の支配下におかれることとなった。
 1573年、徳川家康の長男・信康が武節城を攻め落としたが、
翌年には武田勝頼に攻め落とされた。
 1575年に長篠の合戦で勝頼が敗れると、
田峯城主・菅沼定忠は勝頼を田峯城へ案内したが
叔父の定直や家老の今泉道善らの反逆にあって入城できず、
苦難のすえに武節城へ落ち延びた。
勝頼はここで梅酢湯を飲んで心身の労を休めて甲斐へ帰ったといわれている。
 定忠はその後も武節城に籠ったが徳川家康家臣の酒井忠次に攻略され、
奥平信昌の領有となった。
1590年に家康が関東移封となると信昌も従い、武節城は廃城となった。
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永正年間(1504〜1521年)から約100年の歴史だ。
信長、家康が成長してくるのは、後の世の我々は良く知っているが、
その前、菅沼や奥平がなにをしてたかの、証人の城である。
田峯城との位置関係は確認しておく必要がある。
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これで、やっと昼となる。
まだ、雨は止まない。
少し小ぶりに成ったか?
トン汁定食以外に、どら焼きも食べた。
これで、満腹に成った。
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古橋懐古館に寄る。
此処、展示が多い。それでも全て展示では無いようだ。
おばちゃんが2人、学芸員はいないかもしれない。
兎に角、展示が多い。
で、時間もかかる。
最後に、お茶のサービスも有った。
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ここから25分上る、
長野県下伊那郡根羽村横旗
以下を引いた。
今話題のNHK大河ドラマ「風林火山」の重要な登場人物「武田信玄」の臨終の地だと
伝えられるのが南信州、根羽村横旗です。
 武田信玄は、三河国野田城攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、
病状が思わしくなくないので、
田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中元亀4年(1573年)4月12日53歳にて、
ここねばねの上村において他界された(「甲陽軍艦」より」)
その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。
(根羽村教育委員会 「信玄塚の由来」の一部より)
この地にある宝篋印塔は、寛文12年(1672年)甲斐国塩山の乾徳山恵林寺で、
信玄公100年の法要が営まれた際に、五輪塔と宝篋印塔を修造されたが、
その折り、武田家縁の人々によって、信玄終焉の地・横旗に宝篋印塔が建立されたと伝えられている。
 しかし、現地案内板には、塔の型式などから室町時代末期のものとされおり、
寛文12年、つまり江戸期のものではないとしている。さてさて、なにが真実なのか訳が分かりません。(^^)
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「宝篋印塔」は、こじ付けかもしれない。が信玄が生死は別として、通った感じがする。
まずは信じ、後から、否定するのも面白い。
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帰り道。
野口町、雨情のもとのふるさとらしい。 山地のまっすぐな道の途中だから、何も想像が出来ない。 田も、屋敷も浮かばない。
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最後にコーヒーを飲む。やつとみんなそろった感じだ。

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