-----no.10174----2013年01月09日(水曜、23時00分、夜 )------

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今年初めての会合で、参加も多い様子。
で、資料も、様々頂けた。
愛知学び、半田郷土史、立川流彫り物、
フイルムコミに、定例レジメ、姫たより、年度計画、
知多ぶろっくボラん、
それと、お菓子。
菓子は今度のガイド依頼の手土産相当。
さあーと頂く・・お茶無しで、喉に支える。
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古地図の復活をしたらしい。
これは、寄り合い終了後だ。
下級武士の子孫の情熱の作品。
(士族会は今や、愛知県では、刈谷と田原だけと言う)
紙は新しい・・つまり、偽物として作っていない。
偽物なら、古色を付けるだろうが。
だからこそ、信頼する。
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三河絵図は元禄十四年と言う。
幕府の命令で、刈谷と岡崎で、作った様だ。
目的を考える。大小の藩では、まとめにくいと幕府が考えたのだろう。
では、この時期、他国に同様の物があればそうだろう。
元禄という時期はそんな時期だろう。
今更、そお、国替えも減った頃なのだろう。
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地図を読む。
高、都合、三拾八万三千四百拾三石・・・
  千四百弐拾壱ヶ村
水野監物
土井式部少輔
とある。
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ちずの刈谷城は、
稲垣対馬守と書いてある。
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これは、細かく、八郡、各郡毎に内訳がかいてある。
が、今はその比較をしない。
尾張52万石??に比べが少ない。
岡崎様は五万石。刈谷は三万石もなかったか??
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地図は刈谷の縄張り普請もある。
これは、今と比較もしたい。
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さて、此れ誰が保存する。
できれば、刈谷の郷土館でも・・
また、聞いてみよう。

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