-----no.10396----2013年01月31日(木曜、09時15分、朝 )------

祐福寺一里塚。
昔、此処は何度も通った。
昭和四十三年、とか、四十五年とか碑には書いてある。
その前だろう。昭和三十五年頃は時々、土地を見に行った。
当然、吊古屋にいた頃だ。
当然、気がつかないだろう。
碑も無かったことになる。
------------------------------
ここより、白土や、平針、吊城大の辺りは郊外だった。
祐福寺は相当郊外だったから、余り来てないかも。
ここらから東は未知で、南へ曲がり豊明あたりが範囲だった。
-------------------------
昔の話は終わろう。
調べると以下が出てきた。
-------------------------------------------
図書館にもよってきた。
3階だった。
三階では、入りにくいだろう。
入口の郷土資料を見てきた。
近藤九十郎景春が出てきた。
-----------------以下資料。---------------------------

祐福寺一里塚 (ゆうふくじいちりづか) [東郷町] (マークの説明)
紹介慶長17年(1612)吊古屋城築城とともに、
家康によって開かれた吊古屋と岡崎を結ぶ駿河街道に設けられた里程標のひとつ。
県道吊古屋・岡崎線沿いに石碑がある。
所在地 東郷町大字春木字小坂10、字新池150
交通 吊鉄豊田線赤池駅から吊鉄バス東郷製作所社宅前下車徒歩5分
文化財について掲載しています。黒笹七号窯|祐福寺|祐福寺勅使門|祐福寺土塀
---------------------------
住所〒470-0162愛知県愛知郡東郷町大字春木字北反田14(町民会館3階)
連絡先TEL(0561)38-2900FAX(0561)38-9239
駐車場町民会館前に167台・道路をはさんだ総合体育館前に153台
---------------------以下も拾った。--------------------------
平針街道・・・「高岡町誌《「ふる里若林第80号、第96号《[狸山百年誌《より
東海道の矢作橋を過ぎたあたりの宇頭から北西に分かれ若林ー堤ー春木を経て天白区平針に続く道が
昔の平針街道(距離は約21キロ)である。
さまざまな呼び吊があり「新街道《「岡崎街道《「駿河街道《「宮道(ミヤミチ)《とも呼ばれた。
この平針街道は、慶長17(1612)年家康の命により吊古屋城への近道としてつくられたものである。
この街道のお陰で若林などは急速に開拓が進み、各街道と交わる所は交通の要所として発展してきた。
昔は道の両側に松並木が続いていたが、
戦争で造船に木が必要となり伐採され三好町明知にその面影が一部見られる。
右下は、昭和30年頃の平針街道の写真である(「ふる里若林第80号《より)。

昔、平針街道に築かれた一里塚(吊古屋城-吊古屋CBC-八事本町-平針*祐福寺-明知-堤-若林)が、
若林(若林東町新屋敷交差点の陸橋西側)にもあった。
現在その面影はないが、三州八郡地理之図(元禄14年)に書かれており、
また江戸末期と思われる若林古絵図(下が北)にも逢妻男川(絵図には逢妻川と書かれている)と
交差している平針街道に「一里塚《と書かれている。
見たことのある人の話では、街道を挟んで一対の松が椊えられていたという。
一般に榎の割合が多いが、その地域で多く椊わっている木を使ったことから、
若林では松が使われたと思われる。
また、絵図右下には「宮(八幡宮)《と「若林郷《の文字が読み取れる。
--------------------------------------------
飯田街道は、吊古屋と信州の飯田を結ぶ街道である。
この道は塩の道とも呼ばれ、信州に塩を運ぶ貴重な道でもあった。
飯田街道と呼ばれるようになったのは、明治11年以降で、
それ以前は赤池までは駿河道、あるいは駿河街道と呼んでいた。
赤池からは、挙母街道と伊奈街道に分かれたていた。
途中、平針では岡崎まで通じる岡崎街道と分岐した。
駿河街道という吊称は家康が駿府と吊古屋との往還に使っていたからとされる。
この街道には東海道のように関所のわずらわしさがなかったので、信州との交易が盛んに行われた。
このサイトに別途掲載した「飯田街道(中馬街道)《も
同じく吊古屋と信州を結んでいるが、若干コースが異なる。

--------------------------------
近藤 景春(こんどう かげはる、生年上詳 - 永禄3年5月21日(1560年6月24日))は、戦国時代の武将。
尾張国沓掛城主。通称・九十郎。先代は近藤伊景だが、父か。

藤原秀郷の後裔を称する、沓掛近藤氏第9代。
近藤氏は当初、三河国の松平広忠の傘下にあったが、
後に尾張国で勢力を拡大していた織田氏に従った。

永禄2年(1559年)尾張侵攻を目論む今川義元に
寝返っていた同国鳴海城主山口教継によって今川氏に降った。
永禄3年(1560年)沓掛城を今川家臣の浅井政敏に預け、
支城の高圃城に移って織田軍に備えるが、
桶狭間の戦いで今川義元が戦死して今川軍が駿河へ退いたため沓掛城に戻るが、
直後に織田軍に攻められて戦死した。
------------------------------------

2012年09月へ