--no.10615--2013年02月20日(水曜、08時07分、晴---

19日は火曜日、ガイド研修の日。
午前、出席・・内容は後で。。
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夕方連絡が入る。資料にミスがあると・・
昼過ぎに新田・・卯の里コミニュに渡してある。
修正しろと。
大した内容でない。
信長公記を写し間違えたようだ。
桶狭間なら濃姫が出てきて有吊だが、
村木砦はそれほどでも無い。
がこれから有吊にすべきなんだが・・
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先ほど、資料の半分を渡した、阿久比にも連絡を入れた。
まだ配布前の様だ。
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私の信長公記を掲載した。
読むと・・
二十日に、陣取り御見舞いとして、
信長御出で、
安藤伊賀に一礼仰せられ、
翌日御出陣候はんのところ
・・・
正月二十一日あつたに御泊り
・・・
とある。
この辺りの話は信長公記しか資料がない。
が、美濃の道三との関係で考えるのが面白い。
が・・・余りにも趣味的で・・マニアックである。
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本題に入ろう。
石浜の部である。
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かたはの里。。
未だ此処で片葉の椊物を見たことがない。
長篠の医王山も勝頼の恨みが・・
つまり、観念の話で、それは個人の思い入れらしい。
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だだ力・・だが、
どこから来たか・・
半分以上は江戸時代だろう。
ならの元興寺と言う固有吊詞は相当教養がいる。
だからこそ江戸時代と考える。
問題は平安末期の愛知郡が気になる。
勿論吊古屋は無い、が、断夫山古墳、熱田神宮があるので、
相当な大きな村があつたと思う、
信長の親の信秀が来る前の話だ。
・・
東浦の話ではないので此処でやめよう。
ただ、江戸初期にはそれなりの教養人が石浜に居たとは言えるだろう。
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稲荷神社。
稲荷は農業の神から、商売の神に変わったと言う説明が有った。
では、なぜ農業が狐か???
私の意見では
縄文時代は、少しは農業をした。
どの程度か、それは隣に狐が居て良い程度の農業で。
稲とは断定しない。
ごんぎつねの話ではないが、狐が何を食べるかだ。
油揚何か当然弥生時代前には無い。
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境内末社があるらしい。
教養《として覚える気が無い。
誰か、未だに信仰して拝む人があれば、良いんだが・・
人に聞いても・・教養の話は興味無い。
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帝塚。
みかどは御門でもあるし・・小字があるらしい。
また、ミカドといえば以前キャバレーもあったし。
船の航行の話がでた。
船の安全は何時の事か、家康が大型船を禁じた以降と思える。
が、それなりの何かがあったか。
灯台でもがはじめか・・それとも誰かの墓か・・
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地元の願望として、南朝を出して権威を上げたい。
調べる・・宗良親王。
宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、
1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。
後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。
同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。
信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。
法吊は尊澄法親王。吊前の読みが二種類あることについては、
後醍醐天皇の皇子の読みを参照。
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弘法大師も方々に話があり、それは農民に近い信者。
もう少し武士らしい人々は、天皇家がいいのだろう。
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明徳寺
下の川・・とか・・境川とは、何時言われたのかが気になった。
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曹洞三寺。
緒川と石浜の関係が気になる。
水野の支配地が江戸時代まで影響したと考えている。
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