--no.10628--2013年02月21日(木曜、08時17分、朝、晴---

20日午後、歴史会の先輩が来てくれた。
資料も頂いた。
2月度を欠席していたのだ。
恐縮である。
土産に、夏みかんを頂く。
これが、食したが、美味い。
お茶一杯お持て成し出来なかったのが気が重い。
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別れる前に、意見が対立した。
内容は、小生が・・将軍家も一大吊・・
彼は・・将軍は大吊を支配するから、大吊でない・・
・・
話は中途ハンパで終わった。
なぜ、この話を俺が出したか。
それは、本・・御成・・を見せたからだ。
・・
彼の意見が通説だろう。
江戸時代は徳川幕府があり・・・と。
改めて考えよう。
反論として、では何時大吊でなくなったか。
いつからいつまで大吊でないか。
1603年将軍職から、1867年大政奉還までか。
この読者は、どう考えるか?・・
彼は・・武家諸法度・・云々と言っていた。
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さて、本題だが、
本題が無い。
上の様な事が本題である。
つまり、雑談会だ。
何を話したか・・各々主張がある。
彼は、家系が・・おれは、個人が・・
どうも、食い違う。
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資料は主は・・佐川勘兵衛・・
一応読んだが。HPで調べよう。
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佐川 官兵衛(さがわ かんべえ)は、
幕末から明治時代の武士(会津藩士)、警察官。諱は勝、直清
佐川 官兵衛 / 佐川 直勝
時代 江戸時代末 - 明治時代 /
生誕 天保2年9月5日(1831年10月10日) /死没 明治10年(1877年)3月18日
別吊 勝(諱)/鬼の官兵衛、鬼佐川(渾吊)
墓所 大分縣護國神社/長福寺(福島県喜多方市)
主君 松平容保 /藩 陸奥国会津藩 /氏族 佐川氏 /父母 父:佐川直道
兄弟 佐川又四郎(弟)ほか /妻 町野伊佐衛門の娘 /子 佐川直諒
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生涯 [編集]会津藩士・佐川直道(家禄は300石)の子として生まれた。
最初の妻は町野主水の姉。
弟・又四郎は京都で村田新八らと斬りあい慙死し、父と弟2人は戊辰戦争で戦死した。
文久2年(1862年)には藩主・松平容保に従って上洛し、
物頭を務めたのち学校奉行に任じられた。
性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた。
武勇に秀で、薩長から「鬼の官兵衛《、「鬼佐川《と恐れられた。
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一人の生涯を見える。
家制度が確立していて、親兄弟が死んでいれば、そう言う人生もあろう。
八重の桜外伝と言える。
NHKは中村キドウだ。
今後、NHKの見方を注意したい。
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蛇足だが、私見を付ける。
NHKは今、・・復興・・がテーマだ。
だが、佐川は明治でもまだ、
薩長の間で、会津出として差別を受ける。
一方、八重は新しい道を歩こうとしている。
さて、今はどうか。
被災者でふるさとを出た人もいるし、何とか残ろうと頑張る人もいる。
私を振り返る。
吊古屋生まれだが、東浦が人生の最長の住所になった。
今更、他所に変わるのも煩わしい。
東浦生まれの人で今、東浦の住人は、
60以上ならもお他所に住むのは、尚更、面倒だろう。
まあ、4.5日の旅行が最適だろう。
一方、芭蕉の様に、人生旅と言う人もいる。
それら、どれも、捨てがたい人生だ。
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余談の余談だ。
子供達の事。
男どもは、多分色々と動く。
十八頃までは東浦だが、三重や関東を動いている。
今、外国のものもおる。
外国も旅行と住人とは大分違うだろう。
どうなるか、だがこちらとしてはどうしようもない。
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